ジャコメッティ 親指大の彫刻を通過して
1942年から45年にかけ、スイス人の彫刻家アルベルト・ジャコメッティは戦火を逃れてパリからジュネーブに移り住み、ホテルの小さな一室で「埃の中に紛れ込んでしまうような」極小の彫刻を創作していた。
ジュネーブで開催中の「アルベルト・ジャコメッティ展」は、生涯の作品を網羅する回顧展でありながら、典型的な針金のような人物を制作する以前の、ジュネーブで過ごした「創作の危機の時代 ( 1942年から45年 ) 」に焦点を当てている。ジャコメッティにとって危機は次の創作へ移行する原動力と同義だった。
シュルレアリスムを経て
「ジュネーブはジャコメッティが故郷のグラウビュンデン州を去って初めて美術学校に通った街であり、『歩く人』などの細い彫刻を作り始める前の危機の時期を過ごした大切な場所。この時に出会った妻もジュネーブ人。こうしたジュネーブだが、大規模なジャコメッティ回顧展は今まで一度も開催されなかった」
と、キュレーターのナディア・シュナイダー氏は展覧会の開催理由を語る。
また、今年偶然にもチューリヒ、バーゼルで開催されたジャコメッティ展と一線を画すのは、ジュネーブの展覧会は「ジャコメッティの創作の危機に焦点を当てていることだ」とシュナイダー氏は強調する。
ジュネーブの美術学校卒業後パリに居を移したジャコメッティは、シュルレアリスム運動の芸術家、文人に直ちに受け入れられ、多くの優れた作品を制作。今回の展覧会でも入り口そばの第1室には、1929年の「夢見る寝そべった女性」という、頭がスプーンの形のオブジェなど、ジャコメッティの1925年から35年のシュルレアリスムの珍しい作品が展示されている。
「シュルレアリスムの彫刻家として成功したジャコメッティだが、ある時自分の作品が家具や室内装飾品を作る友人の作品とあまり変わらないことに愕然とし、具象彫刻に戻ろうと決心する。しかし、それは19世紀的な具象作品ではない彼独自の新しい具象だった」
とシュナイダー氏は具象彫刻への道の始まりを説明する。
親指大の彫刻
1940年頃から始まった具象への試みは、人物の全体をそのままに掴み表現することだった。モデルを前に彫刻を作ろうとすると「まるでその人物の断片しか表現できていない」と感じたジャコメッティは、全身写真を取る場合に相手に後ろに下がってもらうように、モデルに頼んで後ろへ後ろへと下がってもらった。
「こうして対象が遠くに行き小さくなればなるほど、ジャコメッティは全体を掴んだ気になる。というのもジャコメッティにとって相手の現実を把握するということは、相手の精神性やオーラのようなものも含めた全体だったからだ」
とシュナイダー氏は言う。
その結果ジャコメッティは親指ほどの大きさの彫刻を次々と制作していく。
「あまりに小さくなり過ぎて、ほとんど顔の細部などを入れられなくなった。親指でぎゅっと潰すとそのままなくなるようなものばかりだった。当時は直感で小さな彫刻ばかりを制作し、ずっと後で理解するのだが、15メートル先の女性の全体を掴むには、80センチメートルの高さはありえない、せいぜい10センチそこそこだ。・・・また、細部表現はわたしの得意とするものではなかった。そこで、時に自分が後ろへ後ろへと下がり、相手がほとんど消えて見えなくなるまで下がった」
とジャコメッティ自身が書いている。(「われわれの時代の大きな彫刻との決別」、レアリテ出版、1963年 )
この危機とも、実験の時期とも言える1942年から1945年をジャコメッティはジュネーブのホテルの小さな一室で過ごした。
しかし、この「親指大の彫刻」のお陰で、相手の全体を把握できたと感じ危機から脱したジャコメッティは
「親指ほどの、消えてなくなるような彫刻にうんざりし始めていた。そこで思った。少なくとも高さはある程度のものに維持しよう。しかし反対に横幅を減少させようと。そこで彫刻は細く、細くなり、背の高い、線のような人物になって行った」
と書いた。
こうして、ジャコメッティの針金のような彫刻が生まれた。この新しいアイデアを携えパリに戻ったジャコメッティは「自分がアートの世界でその後に果たす役割を十分理解していた」。
矢内原伊作をモデルにした第2の危機
展覧会場の第2室には、親指大の彫刻が広々とした空間にジャコメッティの視覚を通して見るように距離を置いて陳列されている。地下の展示室には、ジュネーブでの危機を脱した後の細い彫刻が並ぶ。しかし、地下の一部が肖像画に割かれている。
「彫刻では、その後平面的に広がった女性像などはあるが、細い彫刻のままで危機は訪れなかった。だが、絵画においての危機が日本の哲学者矢内原伊作 ( いさく ) をモデルにした1956年に始まる」
とシュナイダー氏は第2の危機を説明する。
ジャコメッティはどうしても矢内原を表現する線が掴めないのだ。
「矢内原と格闘した時と同時期に描かれたアネットの作品が示しているように、灰色の絵具の層が何重にも重なり、その重なりの中にかすかにアネットの顔の輪郭が見え隠れしている。ジャコメッティは、絵画での人物表現に苦しみ抜いていた」
とシュナイダー氏。
パリに研究のため滞在していた矢内原はその苦しみに付き合うため、一度帰国した後も1957年から61年まで4回の夏休みをパリに戻り、ジャコメッティのモデルとして座り続けた。
矢内原を描いた肖像画は合計21点あるといわれるが、今回展示されている1961年の肖像画では、顔の部分だけが、何層にも塗られた灰色の絵具のせいでブロンズの彫刻のようになり、その厚みの中から思考するような矢内原の目が輝いている。だが、手や背広などは簡単な素描で処理されている。
「この危機からも1961年頃に抜け出ている。結局肖像画でも彫刻と同じく、矢内原という人物をそのオーラのようなものを含めて捉えようと苦しんだが、1961年頃に顔を中心にして表現できることを表現するしかないといった悟りに近い状態に至ったようだ」
と言う。
そしてジャコメッティにとっての危機を、「創作のための一つのプロセスだった。一つの試みをやって失敗すれば、それは批判的に自分の仕事を分析し、前へ進むための原動力になった。従って危機は、うつ状態に陥るような病的な意味での危機ではなく、必ずそこから抜け出られることを確信した創造の一段階だった」
と結論する。
里信邦子( さとのぶ くにこ) 、swissinfo.ch
スイス人の彫刻家として世界で最も有名な一人。昨年の調査ではスイスで一番有名な芸術家。100フラン紙幣に顔写真と「歩く人」が印刷されている。
1901年グラウビュンデン州に生まれる。
1919年ジュネーブの美術学校入学。
1925年~1935年、パリでシュルレアリスムの運動に参加。シュルレアリスムの作品を多く制作。有名になる。
1940年~1947年、創作の危機の時代。この期間1度も展覧会を行わなかった。親指大の彫刻を1942年~1945年ジュネーブに滞在し、制作する。第1回目の危機。
1948~1966年、パリに1946年に戻った後1948年頃から針金のような細い彫刻を制作する。その後直ちに有名になり、1950年代にニューヨークでの個展や1962年のヴェネチア・ビエンナーレでの展覧会などで国際的に高い評価を得た。1956年に絵画において第2の危機が訪れている。
1966年、故郷スイスのクールで没し、生まれ故郷グラウビュンデン州のボルゴノボ ( Borgonovo ) 村に埋葬された。
2009年11月5日~2010年2月21日まで、ジュネーブの美術館「ミュゼ・ラット ( Musée Rath ) 」で開催。
70点の彫刻と20点の絵画、さらにデッサンや ジャコメッティ自身が撮影した写真が展示されている。
およそ半分の作品がチューリヒの「アルベルト・ジャコメッティ基金」から貸し出されているが、残りは今回初めて展示される作品で、個人コレクションなどから出品された。
生涯の作品を網羅する回顧展であると同時に、ジュネーブでの危機の時代1942年~1945年に焦点を当てた展覧会。
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