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「最も美しかった状態には戻さない」 ラ・ショー・ド・フォン博物館の日本人時計修復師が語る信念

キズミをつけ、時計の修復をする時計修復師
日本人時計修復師の金澤真樹さんは2013年から、ラ・ショー・ド・フォン国際博物館の時計修復師として歴史的時計の修復に取り組んでいる Keystone / Valentin Flauraud

スイス時計産業の中心地ラ・ショー・ド・フォンで、歴史ある希少な時計の修復に取り組む日本人時計修復師がいる。華やかなスイス時計産業の世界に比べれば目立たない存在だが、時計の失われた記憶を呼び戻すという作業には唯一無二の魅力がある。

首都ベルンから電車で約1時間。南向きの建物ばかりが立ち並ぶ街路を5分ほど歩いた場所に、ラ・ショー・ド・フォン国際時計博物館はある。町の少し寂れたようすとはうらはらに、館内には潤った空気が流れている。時計のチクタク音が心地よく響き、時折、時を告げる鐘の音があちこちで静寂を破る。

地下のメイン展示スペースには、古代の水時計や16世紀の懐中時計、大型の掛け時計、からくり時計などが並ぶ。大きさや種類、作られた年代は実にさまざまだが、希少価値が高いという点はどれも同じだ。

ラ・ショード・フォンの時計博物館の館内
ラ・ショー・ド・フォン国際時計博物館の展示スペース Musee-Mih/Jess Hoffman

日本人時計修復師の金澤真樹さん(43)は11年前、同博物館の時計修復師に採用された。現在、もう一人のスイス人時計修復師とともに、同館が所蔵する約5000点の歴史的時計全ての修復に取り組んでいる。

1981年生まれ。高校生の時にテレビで見たスイス時計のドキュメンタリー番組をきっかけに時計師を目指す。1999年、高校卒業と同時に渡欧し、フランスで語学を学んだあと、スイスのル・ロックルにある時計学校に入学。2004年に「時計修理師(CFC Horloger rhabilleur)」、2006年に貴重なアンティーク時計に特化した「テクニシャン時計修理師 (Technicien ES en restauration et complications horlogères)」の国家資格を取得。独立時計師のヴィンセント・ベラール氏やカリ・ヴティライネン氏の工房で経験を積み、2013年1月にラ・ショー・ド・フォン国際時計博物館の時計修復師に着任。博物館が所蔵する歴史的時計の修復に取り組む。

受賞歴:有望な時計師に対する奨学金制度「ジュリアス・ベア賞」(2010年、スイス)

「そのまま」を残す難しさ

だが、11年間で修復できた時計は100本にも満たない。歴史と希少性に富む所蔵時計は、単に直せばよいというものではないからだ。

大切なのは「修復はしても改善はしない」ことだ。次の世代に問題なく残せるよう、本来の機能を回復させることに焦点を置く。「17、18世紀の時計が、現代の時計みたいなパフォーマンスで動いたらおかしい。たとえ時計が経年劣化し本来の精度を欠いていても、これ以上悪化しない程度の保存状態にとどめておかなければならない」

正面を向く男性のポートレート
日本人時計修復師の金澤真樹さん。独立時計師のヴィンセント・ベラール氏やカリ・ヴティライネン氏の工房で経験を積み、2013年にラ・ショード・フォン国際時計博物館の時計修復師に着任した Musee-Mih

修復と改善の線引きは容易ではない。「たとえば戦争で兵士が使っていた時計を、ぐちゃぐちゃでサビだらけの状態のままにしておくわけにはいかない。かといってピカピカにするわけにもいかない。傷の一つひとつに歴史ある。作り手が込めた思いをどう解釈するかも重要だ。そういった部分で、修復師としての手腕が問われる」

昔はこれをもどかしく感じたこともあった。今でも「出来が悪い時計は200年たっても出来が悪い。そういう時計を見るとモヤっとする」。現代の技術を使えばもっと性能をよくしてあげられるのに、と思ったこともある。でも、そこは修復師としての信念を貫くことに徹している。「特別な依頼がない限り、時計が最も美しかった頃の状態に戻すことはしない。たとえば90歳のおばあさん患者が病院での治療後に40歳に若返っていたらおかしい。時計修復師は時計の『医者』であって『美容整形外科医』ではない」

墓場に消えた技術

修復に時間がかかる理由は他にもある。ひと昔前の時計業界では、秘密主義者の時計師が多かった。それゆえ「後世に伝えないまま墓場まで持っていかれてしまった」技術も少なくない。知る手立てが何もない――そんな時は、目の前の時計を頼りに紐解いていくしかない。

希少ではあるが1点ものではない時計を扱う時などは、同じような時計の修復をしたことがありそうな工房に問い合わせることもある。これは知見が広がるだけでなく、体系的に物事を見られるようになるという利点もあるという。「特に装飾面に関しては設計だけではわからないことがある。類似品に関する情報を集めることで、機能だけでなく作り手のスタイルも鑑みた修復作業ができる」

ただ、他の工房とのコミュニケーションや、修復師の資料を扱うときは注意が必要だ。「地域によって修復方法が異なるのはまだしも、同じ部品や作業を指す単語が同じフランス語でも違うことがある。例えば、半完成品のムーブメントをある地域では『エボーシュ』と呼び、ある地域は『ブラン』と呼ぶ」

裏方に徹する

修復できた本数は多くはないが、歴史深い時計を扱ってきたことは誇りに思っている。特に印象に残るのは、博物館の修復師に着任して間もない頃に担当した、19世紀の時計職人アミ・ルクルトの超複雑懐中時計だ。1878年のパリ万国博覧会に出品されたもので、複雑かつ希少性が高いにもかかわらず、当時の館長が修復作業を任せてくれた。

アミ・ルクルトの超複雑懐中時計「ラ・メルヴェイユーズ」
アミ・ルクルトの超複雑懐中時計「ラ・メルヴェイユーズ」 。1878年のパリ万国博覧会に出品された Musee-Mih

通常、時計修復師の名前や顔が世間に知られることはない。スター性の高い独立時計師とは対照的だ。歴史を刻んできた数々の時計と向き合い、地道に時計の失われた記憶を呼び戻し、それを未来の時計産業へ伝承する――裏方に徹することに歯がゆい気持ちになることもある。そんな金澤さんを支えるのも、また1つの信念だ。「時計に修復師の顔が見えるようになったら、それは修復ではない」

世界遺産の町ラ・ショー・ド・フォン

スイス北西部に位置するラ・ショー・ド・フォンの街並みは、碁盤の目のように整然としている。細かい作業が多い時計職人の働く環境を良くするために、どの建物も日当たりが良くなるよう設計されているからだ。ラ・ショー・ド・フォンは1794年に起こった大火災で全壊したあと、17世紀頃から続く時計産業を中心に再建された。2009年には隣接する町ル・ロックルとともに「計画された時計産業都市」として世界遺産に登録された。

ラ・ショー・ド・フォンは自動人形(オートマタ)の神様といわれたジャケー・ドロー兄弟や、近代建築の父といわれるル・コルビュジエの生誕地としても知られている。

▼【アーカイブ映像】時計職人のために再建された町 ラ・ショー・ド・フォン

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編集:Reto Gysi von Wartburg、校正:ムートゥ朋子

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