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「民間防衛」時代を間違えた危機管理マニュアル

有事に備える危機管理マニュアル「民間防衛」がスイスの全家庭に配られたのは、今から50年前。冷戦時の反共産主義を機に生まれたハンドブックは、一部国民の激しい怒りを呼んだ。1969年に出版された当時、スイス社会はすでに劇的に変化していたからだ。

このハンドブックを提案したのは、アルベルト・バッハマン大佐(1929~2011年)だ。印刷工で、共産主義から反共産主義へ思想転換した人物でもある。大佐は1958年に「Soldatenbuch(仮訳・兵士の本)」を上梓。1961年、連邦内閣に民間防衛をテーマにした本を出すよう提案した。

大佐の意図は、1つは防災の手段と知識を広く知らしめるものを作ること、そしてもう1つは、国民を共産主義者の侵入に備えさせる点にあった。

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「スイス民間防衛」日本で売れ続ける理由

このコンテンツが公開されたのは、 冷戦期、スイス連邦政府は有事の際の備えを説いたハンドブック「民間防衛」を各家庭に配った。今や存在すら忘れられたこの冊子が、意外な場所で売れ続けている。それは日本だ。

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このアイデアは、1939年代に興った精神的国土防衛(Geistige Landesverteidigung)の概念からインスピレーションを受けたもの。大佐の提案は連邦政府、特にルートヴィヒ・フォン・モース司法警察相が歓迎した。しかし、書籍化に関しては、組織的・財政的上の理由、そして閣僚同士の意見の相違も相まって、予想より長引いた。

260万部

赤い表紙と多くのイラストが描かれた計320ページのハンドブックは1969年の秋、ようやく出版された。260万部を刷り、ドイツ語、フランス語、イタリア語の3カ国語でスイスの全家庭に無料配布した。

緊急時の備蓄物資、消火方法、自然災害・武力紛争時の応急処置の仕方といった実用的な情報に加え、「戦争の第2形態」という章も盛り込まれた。この章では、超大国のエージェント(諜報員)が自国に潜入してくる架空の物語がつづられている。

フィクションの想定だが、国家の「内敵」が指し示すものは容易に特定できた。平和主義者、左翼運動家、組合、反核運動、そして知識人たちだ。

怒りの波

ハンドブックを作ったのが公権力である政府だったことも、大きな怒りを買った。「内敵」呼ばわりされた人たち、そして自由民主主義の支持者は「民間防衛」を痛烈に批判した。

国内では抗議デモが起こり、連邦議事堂前のではうずたかく積まれたハンドブックに火がつけられた。一部の書店では、スイスの作家の本とハンドブックを無償交換するサービスまで登場した。その本も、政府の政治に不満を持っていた作家たちの作品だ。

これらがもたらした直接的な影響として、スイス作家協会の重鎮マックス・フリッシュ、フリードリヒ・デュレンマット、ペーター・ビクセルの辞任が挙げられる。「民間防衛」をフランス語に翻訳したモーリツ・ツェルマッテン会長への抗議の表れだった。

民間防衛から秘密組織P26へ

バッハマン大佐提唱のハンドブックは大きな批判を呼んだが、大佐本人は損害を被らなかった。著者・出版者として相当の報酬を受け取っただけでなく、国外出版の権利も保持したからだ。

大佐は1976年、軍事諜報機関のトップに就任。職権で秘密組織P26を作った。北大西洋条約機構(NATO)の「ステイ・ビハインド」構造と同様、敵国からの侵略に備え、秘密裏に活動していたとされる。大佐はまた、アイルランドに私的に複数の住宅を購入。有事の際、亡命した閣僚の拠点にする意図があったという。

大佐のキャリアは1980年に突如終焉を迎える。きっかけは、オーストリア軍に送り込んだスパイ活動が、あまりの素人臭さですぐに露見してしまったことだ。大佐は51歳で早期退職した。

だが「民間防衛」が想定した「脅威」に対する国家的監視活動はその後も続いた。1989年、スイス最大のスキャンダルといわれるフィシュ・スキャンダルが起こるまで、国家安全保障という名目の下、明確な法的根拠もなく左派主義者らが警察の監視下に置かれていた。

(独語からの翻訳・宇田薫)

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