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「赤十字の父」アンリ・デュナン

コンゴ共和国のキバティ ( Kibati ) で、国内難民にバケツを配給する赤十字社の職員 Keystone

赤十字を創設したアンリ・デュナンは、しばしば理想主義者で人道主義者の「聖人」と見なされている。実際にはどんな人物だったのだろうか。

デュナン生誕の5月8日は「世界国際赤十字・赤新月社デー」。特に今年は、「赤十字国際委員会 ( ICRC ) 」創設の契機となったソルフェリーノの戦いから150周年、ICRCから生まれた各国の赤十字・赤新月社を統合する「赤十字国際赤十字・赤新月社連盟 ( IFRC ) 」誕生から90周年、ジュネーブ条約誕生から60周年にあたる。

ソルフェリーノでの精神的痛手

 「アンリ・デュナンの名は、世界中の通りや広場に使われているが、実際の人物像については、ほとんど知られていない」
 と伝記『アンリ・デュナン、人道法を創設した人』を書いたジェラー・ジェゲー氏は語る。

 「もしデュナンが聖人だとしたら、彼は変わった聖人だ。その性格も人生も多くの矛盾に満ちていて、幾つものデュナン像が描ける」
 とデュナンについての演劇の脚本を書いたミッシェル・ベレッティ氏は、彼の多様性を強調する。

 デュナンは1828年5月8日ジュネーブで、人道主義的な気風の漂う敬虔なプロテスタントの家庭に生まれた。しかし学業の方はあまり振るわず、カルヴァン高校 ( Collège Calvin ) を中退した後、両替の仕事に就いた。その後26歳で実業界に入り、アルジェリアで広大な土地を開発する工業、金融の会社を興した。

 31歳の年、事業に必要な水利権の獲得をナポレオン3世に直訴しようという大胆な考えを思いつき、北イタリアに向かう。当時ナポレオン3世は、イタリアからオーストリア軍を退却させようとイタリア・フランス連合軍を指揮していた。
 
 こうしてデュナンは、北イタリアのソルフェリーノの戦いに遭遇する。イタリアの独立を目指し戦うフランス・サルディニア連合軍とオーストリア軍の激しい戦いはガルダ湖の近くで、1859年6月24日に始まった。

 戦いが終わるころ、両軍の4万人を越える兵士が深い傷を負い、戦場でもがき苦しんでいた。その悲惨な有様にデュナンは、即座に地元住民の助けを借り救助隊を組織した。
 「これはデュナンにとって大きなショックだった。このとき、消しがたい精神的痛手を負い、生涯に渡って回復することはなかった」
 とベレッティ氏は言う。

 ジュネーブに戻ったデュナンはこのときの体験を一冊の本『ソルフェリーノの思い出』にし、戦争の悲惨さを緩和し、より人道的な「傷ついた兵士を援助する組織」の構想を発展させていった。

赤十字国際委員会 ( ICRC ) の誕生

ソルフェリーノでの記憶がまだ生々しい1863 年、デュナンは4人の友人と、後の「赤十字国際委員会 ( ICRC ) 」の基礎となる「5人委員会」を立ち上げた。
 「ICRCがこうして始まったことを思うと愉快な気分になる。わずか5人の男がジュネーブのアパートの一室で、国際的組織をスタートさせたとは。本当に信じられないことだ。こういったことをやるのはジュネーブ人だからで、いわばジュネーブ人の自惚れ ( うぬぼれ ) に近い性格のお陰だ」
 とベレッティ氏は分析する。

 1年後5人の交渉力に支えられ、スイス政府は16カ国を招待して国際会議を開催し、最初の「ジュネーブ条約」の調印式が行われた。条約は戦争のルールを規定し、戦場での負傷兵の取り扱いと白地に赤十字の旗を制定している。

深く失望

 しかし、その後の30年間はこうした輝かしい人生の前半とは大きなコントラストをなす。アルジェリアでの事業は、人道問題に力を注ぎ過ぎたことも災いし難航する。1867年ジュネーブの金融機関の倒産はデュナンも巻き込み、翌1868年には詐欺罪に問われる。

 多くの友人を巻き込んだこの事件の後、デュナンはジュネーブの社会から事実上追放され、数年後には、ほとんど物乞いをするような生活を送るようになる。
 「一緒に5人委員会を立ち上げたギュスターブ・モワニエは、金融機関の倒産事件とデュナンの悪評が新しい赤十字国際委員会 ( ICRC ) のイメージを崩してしまうとして、デュナンをICRCから遠ざけた」
 とジェゲー氏は言う。

 深く失望したデュナンは、ジュネーブを去り1875年、アッペンツェルン・インナーローデン州の小さな町ハイデン ( Heiden ) に移り住む。
 「人道援助への真摯な思いと必要性から、力を注ぎ込んだICRCから遠ざけられたことは、深い傷として残った」
 とジェゲー氏は続ける。

 その後1892年には病気でハイデンの病院に入院。ここで残りの生涯の18年間を過ごすことになる。
 「人々はデュナンは亡くなったと思っていた。この間ICRCは発展を続けていた。彼を一人取り残して」

ダイナミックな推進力と執念

 だがデュナンは完全に忘れ去られたわけではなかった。1895年ドイツのジャーナリスト、ゲオルグ・バウムベルガーがデュナンについての記事を書き、それが世界の新聞に取り上げられたからだ。デュナンは再び世間の注目を浴びるようになった。

 1901年、デュナンは国際赤十字運動の基礎を築き、ジュネーブ条約を創設した功績をたたえられ初のノーベル平和賞を贈られた。だがその後、1910年10月30日に特別な葬儀もなくチューリヒで埋葬された。

 しかし、ノーベル平和賞に対するICRCからの公式の祝辞には以下のよう言葉が記され、デュナンの名誉を回復しているように見える。
 「あなた以外にこの賞を受けるに値する人はいないでしょう。あなたは、40年前戦場での負傷者を救助する国際組織の礎を創設しました。あなたがいなければ、19世紀最大の人道援助の結晶であるICRCは恐らく生まれなかったでしょう」

 デュナンがいなければ、4人の友人だけであれほどまでに人道援助運動が前進することはなかっただろうとジェゲー氏は考えている。
 「物事が早く進んだのは、デュナンのダイナミックな推進力と執念のお陰だ。歴史的観点からは ( 彼がいなくても ) 50年後には世界のどこかで ( 違う ) 赤十字組織が誕生していたかも知れない。しかしデュナンは時代の先を行った。彼は理想主義者だった。そして自分の考えを具体的な行動に移す人だった」


( ICRC創設の契機となったソルフェリーノの戦いから150年を数える今年、スイスインフォは、赤十字運動をさまざまな角度から捉える特集を組み、まずデュナンの人物像に光を当てた )

サイモン・ブラッドレー、swissinfo.ch
( 英語からの翻訳、里信邦子 )

国際赤十字・赤新月社の運動は、以下3つの機関から成り立っている。

1863 年にアンリ・デュナンと4人の友人が創立した委員会が基礎となった「赤十字国際委員会 ( ICRC ) 」は、戦争の犠牲者を助け、紛争時には中立な立場の調停者として働き、また人道法への尊重と知識を広めることなどを主な任務としている。

ICRCはジュネーブの本部を中心にオペレーションを行い、世界80カ国で1万2000人の職員が活動を行っている。

ICRCが主に戦争に関係する人道援助を行う機関と位置づけるなら、各国の赤十字・赤新月社は、自然災害などの援助を基本に、国の事情により戦争の犠牲者の援助や、離散した家族のネットワークの再構築など、多岐に渡る活動を行う。場合によってはICRCに協力して活動する。

ICRCの創立後に世界で徐々に形成された赤十字・赤新月社は、現在世界に186社存在し、正規の職員と多くのボランティアから構成される。職員、ボランティアを合計した数は、およそ1億人。

第3の機関は各国の赤十字・赤新月社を統合する「国際赤十字・赤新月社連盟 ( IFRC ) 」。これは1919年パリで、イギリス、フランス、イタリア、日本、アメリカの赤十字社によって創設された。

IFRCは特に援助力の弱い国の赤十字・赤新月社を助ける。また、大きな災害での国際的な協力のためのコーディネーションや、災害予防のための開発協力なども行う。

IFRCもジュネーブに本部を置き、世界で1300人の職員が働いている。

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