高級化がもたらす都市の荒廃 チューリヒに忍び寄る危険
チューリヒではジェントリフィケーション(都市の高級化)が深刻な住宅不足を引き起こしている。建築家ファレヤ・カウカブ氏は他の先進国の都市を参考に、チューリヒの不動産が「商品」化され人の住めない町になる恐れがあると警鐘を鳴らす。
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実質全ての大都市が共通して抱える住宅危機。世界で最も裕福な都市であるチューリヒでさえ、対応に苦慮している。街角の商店がおしゃれなカフェに変わり、各種コミュニティでエリートサラリーマンが幅を利かせるようになった。チューリヒの社会ピラミッドを下支えする中流階級は、ますます手ごろな住宅を手に入れにくくなっている。
スイスのライファイゼン銀行が9月に発表した不動産レポート外部リンクによると、今年4~6月に掲載された賃貸物件の家賃平均は前年を6.4%上回り、30年ぶりの伸び率を記録した。ジェントリフィケーション(都市の高級化)が進むチューリヒ西地区(チューリヒ・ヴェスト)では不動産市場が活況を極め、高級物件開発ブームに沸く。
不動産関連の各種調査で、特に家賃の押し上げ要因になっているのは老朽化物件の建て替えであることがよく指摘されている。チューリヒ拠点の日刊紙ターゲス・アンツァイガー外部リンクによると、3.5部屋(日本の2LDKに相当)の家賃は最高月8100フラン(約140万円)。同市当局が算出する市全体の平均(4部屋1787フラン、3部屋1470フラン、共益費は別)を大きく上回る。
新型コロナ危機は不動産市場に大きな影響をもたらした。郊外の住宅の人気が高まり、(リモートワークの普及により)オフィススペースもそれほど重要ではなくなった。だが同じ時期にチューリヒのIT・金融業界は大きく成長し、新興企業で働く高所得労働者が増え、グーグル欧州本社も存在感を強めた。グーグルのチューリヒオフィスは2004年から着実に拡大を続け、今では同市の人口約45万人のうち5千人超がグーグル社員だ。
未公開株(PE)・投資ファンドのオークス・レーンストーン・キャピタル外部リンク(本社・ジュネーブ)によると、グーグルのような企業の月給はチューリヒの賃金中央値月8000フランを優に超える。ブルームバーグは、グーグルで働くソフトウェア開発者は経験の浅い人でも年収最大20万フランを受け取っていると報じた。高給取りの存在が家賃高騰を招く構図は、過去10年で家賃が24%上昇したサンフランシスコに共通する。
ジェントリフィケーションの理論と現実
ジェントリフィケーションは一般的に、ある地域に裕福な社会階級が惹きつけられ、低所得の住民が追いやられるときに発生する。チューリヒで起こったこの現象は、高級不動産への需要が都市の形までも変容させ、広範な住宅危機を引き起こした。
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ジェントリフィケーション自体は最近の現象でも新しい概念でもない。マサチューセッツ工科大学(MIT)のフィリップ・L・クレイ教授(住宅政策・都市計画)が1979年に刊行した米国の都市の変遷に関する著書「Neighborhood Renewal: Middle-class Resettlement and incumbent Upgrade in American neighbors(仮訳:近所の刷新~アメリカの地域社会における中流階級の再定住と地位向上)」は、早くもこの問題を深く掘り下げていた。
クレイ氏は同著の中で、ジェントリフィケーションの5段階を定義した。第1の「開拓段階」は、芸術家やボヘミアン、あるいはリスクに抵抗のない人々が荒廃した地域に移り住み、緩やかに町を発展させていく時期だ。
第2段階では、中流階級がこの地域に引き寄せられ、投資が加速する。第3段階はさらに大規模な民間・公共投資が進み、大規模な開発業者が参入することが多い。
最終段階では地域が高級住宅街に変貌する。家賃や不動産価格の上昇により元々の「開拓者」や低所得者層が立ち退きを強いられることも少なくない。
チューリヒの場合
クレイ氏の提唱した5段階をチューリヒ西地区の事例に当てはめると、説得力のある洞察が得られる。1970~80年代の同地区は政情不安や過激な若者運動が起こった。低所得者が住む工業地帯だった同地区に、教養のある若者が移り住み運動を主導した。こうした変化はジェントリフィケーションの第1段階によく当てはまる。
当時、チューリヒは著しく荒廃していた。市の中心部にあるプラッツシュピッツ公園一帯は、世界最大級の屋外薬物取引市場と化していた。それは今もなお市の黒歴史として記憶に刻まれている。注射針に因んで「ニーデル(針)公園」と呼ばれた公園には、1日最大1000人の薬物常用者がたむろした。チューリヒの4倍の人口を抱える米東部フィラデルフィア・ケンジントン地区の路上にあふれる薬物常用者は、1日約3000人に上る。
スイス政府は1995年、大規模な掃討作戦に踏み切り、中毒者を地元に送り返した。ハームリダクション(害の低減)政策が奏功し薬物危機を乗り越えたとして国際的に称賛されたが、その裏ではチューリヒ西地区とその周辺で長期的な都市開発計画が動き始めていた。
ジェントリフィケーションの第1段階と第2段階が連続して起こらなかった点で、チューリヒは特殊事例と言える。ジェントリフィケーションの端緒を開いたのは、第1段階を主導した開拓者たちではなく、その並行問題の解決を図った政府だった。
チューリヒ西地区は過去20年間で大きな変貌を遂げ、第3段階「新興コミュニティ」に突入した。かつて工業用地や悪評の染みついていた場所には、今やチューリヒで最も高い「プライムタワー」をはじめとする高層ビルが立ち並ぶ。それを取り囲むようにオフィス、クラブ、レストラン、スタジオ、新しい住宅開発が進み、アーティストやデザイナー、建築家を惹きつける。
第2段階から第3段階への移行を象徴するように、ハルトブリュッケ橋の延伸など都市インフラへの公共投資が進み、さらに民間マネーを呼び込んでいる。ハルダウやロッヒャーグートなど高層ビルも人気急上昇中だ。ロンドンのバービカン・タワーと同じく郊外ではなく市の中心部に位置し、景観も地理上もクリエイティブな中流階級の心を捉える。だがこうしたオアシスのスペースは限られ、手頃な住宅は不足する。チューリヒの労働者階級が住む場所は、実際には市中心部からどんどん遠くなっている。
チューリヒ西地区は第4段階の成熟期にも差し掛かっている。2019年のドキュメンタリー映画「PUSH」では、ニューヨークのブルックリンにクリエイティブな人々が移り住み、地域の魅力を高めた結果、住宅価格が高騰し、最終的には自分たちが住めなくなってしまった人々の様子を描いた。その一部始終を観察したバーの店主はこう語る。「自分が住んでいる地域を離れなければならなくなる最初のサインを知っているか?それはビンテージショップの開店だ。貧乏なのにおしゃれな人が増えるというのは、近隣にとって最悪なことだ」
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安定期の条件
結局のところ、クレイ氏が提唱したような理論はジェントリフィケーションの複雑さを単純化しすぎるきらいがある。実際に起こるプロセスは多様であり、経済的に繁栄する都市ではさらに微妙な段階を経たり、逆に省略されたりすることもある。経済成長や公共投資と並行して社会が階層化する限り、ジェントリフィケーションは事実上不可避だ。
ジェントリフィケーションの初期段階は、経済成長やインフラ増強、公共サービス・交通の改善を伴う。住民構成が多様化し、底辺の人々もサービス向上を求める中流階級のおこぼれに預かる。だが単なる「安定化」を超えたジェントリフィケーションに歯止めをかけることはできず、徐々に居住不可能な地域になっていく。
重要なのは、チューリヒのような都市が各種のジェントリフィケーション理論に従っているかどうかではなく、ジェントリフィケーションを社会階層化の一形態として認識することだ。社会階層化により、ジェントリフィケーションが最終的に安定期をもたらすのではなく、社会経済が永続的に進化する可能性がある。
そこで問われるのは、人々がどの方向へ進みたいのか、という点だ。政府や都市計画者が良心的に決定しなければ、人々は大きなプレーヤーの掌で転がされる恐れがある。世界中の都市で、焦点は「より住みやすいまちづくり」から「手頃な価格の住宅を基本的人権に位置付けるための闘争」に移っている。
ロンドンのベルグレイヴィアは不動産がコモディティー(商品)化して価格がつり上がり、人の住めない街になってしまった。気を付けないと、同じように活気ある地域が荒廃地へと衰退する恐れがある。
編集:Virginie Mangin & Eduardo Simantob、英語からの翻訳:ムートゥ朋子、校正:宇田薫
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