2回も否決された洪水対策とその爪痕
スイス中央部にある村、アールガウ州ウエルクハイムはこれまでも再三洪水に見舞われてきた。洪水対策を取るよう村の人々は二度決議したが、この決定は後日、村民自らの手で2回とも覆されてしまった。そして村はかつてない大洪水にのみ込まれることになる。
村の小さな食料品店の外壁に、赤い線が細く引かれていた。それは今年の夏、ウェルケ川周辺の水位が通常のレベルを1メートル87センチも超えたときの凄まじさを物語っていた。あの忌まわしき7月、水かさが増した川は荒れ狂い、村はかつてない大洪水に襲われた。
口をつぐむ村民(その1)
店の中では床に流し込んだコンクリートを乾かす機械がブーンと音を立てている。ここに置かれていた食料品は、今は数歩先に設置された白い仮設コンテナの中に並べられている。一時的な解決策というわけだ。
夫と二人でこの店を経営するおかみさんは、無言で首を横に振った。ジャーナリストと話をするのはもう沢山だと言う。ここ数カ月、既に新聞、ラジオ、テレビにうんざりするほど当時の様子を語らなくてはいけなかった。それもそのはずだ。ここウエルクハイムで起こったことは単なる自然災害ではなく、直接民主制がいかに複雑なのかも示す出来事だったのだから。
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ウエルクハイムの洪水
大災害の前触れ
アールガウ州の人口わずか1300人の村ウエルクハイムは、もう何年も洪水と戦ってきた。2012年にも悪天候で地下室が水にあふれ、多くの車が浸水した。
それを受け、村は州土木建築省と洪水対策について話し合い、川に架かる平らなコンクリート橋を持ち上げるよう考案した。岩や枝が引っかかり川の流れをせき止めないようにするのが目的だ。
村議会では紙一重で賛成派が勝利し、橋の改造に必要な63万5千フラン(約7200万円)以上の融資が決定した。実際、このプロジェクトにはそれよりはるかに高い総額250万フランが必要だ。だが洪水対策には州とスイス連邦からも補助金が出る。そのため資金の3分の1は連邦が、残り3分の2を州(6割)と村(4割)が負担するという配分になっていた。
住民投票で覆される(1回目)
連邦と州から予算が出るにも関わらず、多額な資金を必要とするこのプロジェクトは多くの村民にとって目の上のこぶのような存在だった。また反対派は、橋の改造だけでは洪水から村を守れないと主張した。反対派は住民投票(レファレンダム)を起こし、再度民意を問うことになった。その結果、先に行われた投票結果は完全に覆されてしまった。反対が362人、賛成はわずか134人、投票率は5割だった。
だがウエルクハイムの自治体と州当局もそのままでは引き下がらなかった。2015年夏には、より包括的な洪水防止プロジェクトを新たに村議会で提案。今度は建造物40カ所で対処するというもので、総額580万フラン、村の負担は約150万フランと試算された。
住民投票で覆される(2回目)
だが歴史は繰り返す。初めは議会で村民の了承を得たものの、このプロジェクトも前回と同様、住民投票に持ち込まれた。そしてまたもや覆され、否決される運命をたどった。
なぜこうなったのか?災害が去って何カ月も経った今でも、困惑の色がにじむ。「なぜこうなったのか説明がつかない。恐らく事業費が高すぎたのだろう」とマルクス・ガブリエル村長は言う。「ウエルクハイムの人間は、水位より税金が上がる方を恐れている」と皮肉る人もいた。
口をつぐむ村民(その2)
道端で話しかけても、村の住民は誰一人として口を開こうとしなかった。住民投票の立役者だったペーター・ロイエンベルガーさんも、この件に関してはノーコメントと携帯電話のショートメッセージで返信してきた。
「本当にフラストレーションの溜まる出来事だった」とガブリエル村長は振り返る。「だが村民が自分で決めたことだ。我々はどうすることもできない」。そしてこう続けた。「洪水が来るか来ないかではなく、いつ来るかという問題だと常に言ってはきたのだが」。そしてその日は迫っていた。
被害総額8千万フラン
夏。ウエルクハイムだけでなくスイス全土で何週間も焼けつくような日照りが続いていた。そして2017年7月8日、あの土曜日の午後、西の空から次第に不気味な黒い雲が広がってきた。
やがて台風のような豪雨が降りだした。暴風が谷を吹き荒れ、天からは大粒のひょうが叩きつけた。普段は穏やかなウェルケ川が瞬く間に増水し、コンクリートの川底からあふれ出した水は、村の大通りを巨大な川に変えてごうごうと流れていった。
ウェルケ川は柵をなぎ倒し、車を水没させ、橋までものみ込んだ。無料日刊紙ブリックには「ウエルクハイムの村が完全に水の中に沈んだ。村役場の周りは車の通行が不可能になった」と目撃者の生々しい声が載った。
幸い村民に死傷者は出なかったが、代わりに車、車庫、地下室、地下に置いていた洗濯機、暖房機、そしてかけがえのない思い出の品々が被害を受けた。そして同じく洪水に見舞われた他のアールガウ州4自治区も加え、被害総額は驚異的な8千万フランに上った。
友達、親戚、同僚、隣人など、村の人はみな顔見知りだ。敷地が浸水した人は知り合いの中に誰か必ずいた。ガブリエル村長も、地下室が浸水した父親の手伝いに行った。消防隊員と社会奉仕者はひっきりなしに作業に追われていた。
村議会の村長代理は、ウェルケ川の近くで自動車修理工場を営んでいた。村で最もひどい被害を受けた彼の工場は、洪水による損傷のため後日建物を2棟撤去せざるを得なかった。
想像を絶する自然災害
災害から3カ月後、ガブリエル村長はコンクリートの橋の上に立ち、その下を静かに流れるウェルケ川を見つめた。今は穏やかに流れるこの川が、ほんの数か月前にはあれだけ荒れ狂っていたとは想像もつかない。「恐らく45立方メートルだったと推算している」と村長は言う。これは毎秒45立方メートルの水が村を流れていったということだ。当初計画されていた洪水対策でさえ、想定していたのは毎秒18立方メートルだ。
ガブリエル村長は続ける。「もし対策を取っていたら、少しは被害を抑えられただろう。だが完全に洪水を防ぐのはいずれにしても無理だった」。アールガウ州当局のマルクス・ツムシュテークさんもうなずく。「7月8日の災害は2015年のプロジェクトの予想を遥かに超えていた」
洪水は去ったが、問題は残されたまま
この洪水が発生した原因は何か、流水量はどれだけあったのか、統計的に見てどう位置づけされるかなど、州当局では現在、専門家らが当時の分析を行っている。
これは次の防災プロジェクトの大切なベースだ。「あの7月8日を体験した今なら、村民はプロジェクトの必要性を分かってくれると信じている」(ツムシュテークさん)
しかしこのプロジェクトがガブリエル村長によって提案されることはない。まだ春の時点では再び村長に立候補すると公表していたが、大災害が過ぎ去った今、彼は言う。「新しいプロジェクトをどんな論理で推進したらよいか私には分からない」
3回目も同じ論理で村の人の理解を求めても、また失敗するかもしれない。もうそれは御免だ、とガブリエル村長は言う。今年末には24年間勤めた村議会を去るガブリエル村長。まるで洪水の生贄(いけにえ)に捧げられたかのように。
(独語からの翻訳・シュミット一恵)
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