生命を救う薬がケニアで命を救っていない理由
がん治療薬やその他の遺伝子疾患治療薬は近年、目覚ましい発展を遂げている。だが、その恩恵が全ての国に行き渡っていないのはなぜなのか。
私の母が1994年に米国で乳がんと診断されたとき、生命を救う薬、ハーセプチンはまだ発売されていなかった。転移性の乳がんに対する初の標的薬として米食品医薬品局(FDA)から認可が下りたのは4年後のことで、これによって何百万人もの乳がん患者の女性の予後が劇的に改善した。
当時は、多くのがん治療に革命を起こすことになるゲノムバイオマーカーやモノクローナル抗体、免疫チェックポイント阻害剤はほとんど話題になっていなかった。母はその代わり何クールもの有毒な化学療法に耐え、幾度もの手術は胸に戦いの傷痕を残した。そのときは唯一の標的治療薬だったタモキシフェン(抗エストロゲン薬)は、終わりのないほてりと疲労を誘発した。
米国や、スイスを含む裕福な国々では、ほとんどの女性にとって時代が変わった。乳がんに苦しみ命を落とす女性は今も多いが、腫瘍(しゅよう)の根本原因を標的とし、健康な細胞に与えるダメージを減らす治療薬のおかげで、生存率は劇的に上昇した。
しかし依然として、世界の圧倒的多数の人にとってこれらの治療薬の多くは手が届かない。主な理由の1つはコストの高さだ。誰かの命を救える治療薬が存在するなら、なぜケニアの女性はそれを入手するために何年も待たなければならず、そしてたとえ手に入ったとしても全財産を投げ打つほどの代金を払わなければならないのだろうか?
私は6月にケニアを訪れ、医療アクセスの欠如、医薬品のコストの高さ、そして人生を変えるような治療を手の届く価格で受けられるようにするために、政府や製薬会社は何か対策を講じているのか、もしそうであればどのような対策なのかを調べた。
私が注目したのはがんと鎌状(かまじょう)赤血球症などの遺伝性疾患だった。これらの病気による死者の多くがアフリカに住んでいるからだ。一例を挙げれば、がんによる死亡の7割が低・中所得国で起きている。またこれらは、製薬会社が研究開発費の大半を投じ、科学の飛躍的進歩によって治療の可能性が高まっている疾患でもある。
製薬業界は、ごく一部の患者に劇的な変化をもたらすと予想されるが途方もなく高価な治療薬、いわゆる「ビッグ・メディシン」に軸足を移しつつある。スイスの製薬大手ロシュやノバルティスなどはその動きの最前線にある。
この取材でケニアを選んだのは、両社が自社製の医薬品を提供するプログラムをこの国で実施していることと、ケニアがこの地域におけるがん治療の拠点となろうとしているためだ。
公立、私立の病院で働く15人以上の医師と話し、ケニアにおけるがんについてどんなことがわかっているのか、どんな問題に直面しているのか、大手製薬会社がケニアのがん治療と生存率の向上のために何ができて、何をすべきかといったことを尋ねた。
病理学者で免疫学者のリスパー・トロレイ・サウェ医師は、ケニアでは治療可能ながんによる死者がなぜこれほど多いのかを突き止めようとしていた。彼女はモイ大学病院の患者たちが最高の治療を受けられるよう、大陸を横断する飛行機で唾液サンプルを運び、遺伝子突然変異の検査をしてもらった。
また、ケニア西部の僻地で自ら運営するがんクリニックの患者たちについて詳細な記録をつけているギャビン・オランギ医師にも会った。オランギ医師が築きあげたがん登録は、スイス最高の病院にも引けをとらない。
さらに、ニコラス・アビニャ医師やエイドリアン・ガードナー医師、ナフタリ・ブサカラ医師など、患者が貯金を叩いてインドや南アフリカまで治療を受けに行かなければならない状況を変えるため、ケニア国内で新しい世代のがん専門医を育てようと決意している人々にも会った。
そしてケビン・マコリ医師やチテ・アシルワ医師は、大金を払わなくても良い治療を受けられるべきだという信念の持ち主だ。2人の所属する国際がんセンターは東アフリカにがん研究の拠点を建設中だ。ここでは、最高級の診断用機器が豊かな森の中の輸送用コンテナにしまわれている。
「今、世界の一部の地域では、他の地域に比べてがん治療が15〜30年遅れているということを理解する必要がある」とマコリ医師は語った。「私たちは皆この世界に生きているが、最高の治療へのアクセスが保証されている人もいれば、治療の世界標準から約15〜20年も遅れているところに暮らす人もいる。これが患者の転帰に関してどういう意味を持つか、言うまでもない」
私が話をしたこの医師たちや20人以上の患者たち、患者の権利擁護者や官僚たちは、ケニア、ひいてはアフリカが、独自のがん治療インフラと能力を築けるようにしたいと懸命に取り組んでいる。患者一人ひとりの個別のリスクに合わせた治療への移行の中で、医療従事者は、この地域の患者が西洋でテストされたがん治療薬に頼ることはできないと意識するようになっている。
医師たちは毎日のように、生死を分ける決断を迫られる。ある患者の命を6カ月延ばせる可能性のある薬が存在することを知っているが、その代金を払えば患者は貧困に陥る。
このようなジレンマは、アフリカや、より財源の限られた国々だけの問題ではない。スイスなど豊かな国でも、同じ問題に直面する医師や患者、政府が増えている。がんや、生命に関わる他の病気の新しい治療薬の数が急増し、価格が高騰するにつれて、各国政府はその支払いに苦労し、これらの薬が実際のところ、どれだけ患者のためになるのだろうかと疑問を抱いている。
このシリーズのテーマは医薬品アクセスと、製薬業界が開発している治療薬が将来、手頃な価格で誰もが入手できるようになるのか、それとも代金を払える少数の人のみのものになるのかという問題だ。
編集:Nerys Avery、英語からの翻訳・西田英恵
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