スイス司法を変えた欧州人権裁、7つの出来事で振り返る半世紀
スイスは過去半世紀、欧州人権条約に記された基本的自由を支持してきた。ただし、少ないながらも例外はある。過去の重要な出来事や判決をまとめた。
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1974年、スイスのピエール・グラバー外相(当時)は欧州人権条約の批准を間近に控え、大胆な発言をした。高い水準を持つスイスであれば、人権侵害で責められるようなことは非常に考えにくい、という内容だった。当時は同氏のように、既存の国内法でも条約と欧州人権裁判所(ECHR、仏ストラスブール)の基準を十分以上に満たせると考えている人は多く存在した。
この見解は間違っていた。人権条約違反が最もひどい国というわけではないが、スイスが欧州人権裁から受けた侵害認定はこれまで約140件に上る。過去50年間、こうした判決や人権条約の広範な影響力の高まりは、いくつかの重要な出来事を通じてスイス司法を形づくってきた。
1971年:女性参政権の導入
スイスは条約批准で欧州諸国に後れを取った。女性参政権が未導入だったからだ。スイスは1971年まで、女性に国レベルでの投票権を認めていなかった。言うまでもなく人権は人間が持つ権利であり、男性だけのものではない。そのため、女性参政権の不備が問題になった。スイス連邦政府は構わず批准に突き進もうとしたが話はまとまらず、欧州人権裁が重要な推進役となってついに普通選挙が導入された。1971年の男性による国民投票で国レベルの女性の投票権が認められると、その3年後に条約批准が実現した。
1981年:暗い時代の終わり
差別はほかにもあった。数十年にわたった行政による「保護」政策だ。これにより、裁判を受けることも、罪を犯すことさえもなく、最大6万人が収監された。対象者は「堕落した生活」や「アルコール依存症」などで、社会規範にそぐわないとされた人々だ。その多くが妊娠後に孤立した少女だった。孤児や非嫡出児もまた、里親の家や寄宿施設で暮らすことを強制された。1960年代に一連の慣行に対する批判が広がったが、政治家が行動を取ったのは1970年代、「自由および安全に対する権利」(第5条外部リンク)などを定めた欧州人権条約に批准してからだった。同政策は1981年に正式に終了した。
1988年:事実を争う権利
1981年、ローザンヌに住むマルレーヌ・ベリロスという学生に対し、無許可デモに参加したとして罰金が科された。ベリロスはこれを受け、デモの時間は別の場所にいたとして異議を申し立てた。しかし、警察の担当機関と裁判所は相次ぎ訴えを却下。このうち裁判所は、法廷で審理できるのは法適用の正否のみで、事実認定は扱えないと応じた。すると、ベリロスは条約第6条外部リンクの「公正な裁判を受ける権利」を主張して欧州人権裁に申し立てを行い、1988年に勝訴した。ローザンヌ大学のエブリン・シュミット氏によれば、同裁の判決は「スイス司法界全体に衝撃を与えた」という。当局の訴追を受けた場合、独立した法廷で事実関係を争うことは今なら当然の権利に思える。しかし1988年にはそうではなかった。スイス上院で条約離脱の動議が否決されたが、賛否の差はわずか1票だった。
1992年:平等の名の下に
1984年、スザンナ・ブルガルツという女性とアルベルト・シュニーダーという男性がドイツで結婚した。2人は新婦側の姓を名乗ることに決め、新郎は氏名をアルベルト・シュニーダー・ブルガルツに変更した。ドイツの法律ではまったく問題ない選択だ。しかし、夫婦が住んでいたバーゼルの当局はこれを歓迎せず、シュニーダー姓での登録を要求。二重姓は女性にしか認められないと言い、新郎の氏名から「ブルガルツ」の部分を削除させた。しかし、1992年の欧州人権裁判決外部リンクはバーゼル当局を支持せず、姓に関する不平等な扱いは合理的に正当化できないと断定した。それから30年余りが過ぎたが、スイスでは今も姓の決定をめぐり論争が続いている。
2011年:欧州人権裁の権限範囲(1)
この記事のように欧州人権裁で原告が勝訴した例を挙げることはできるが、実際のところ訴えが実ることはまれだ。不受理とされるか、判決に至らず取り消しの判断を受ける申し立てが圧倒的に多い(2023年にスイスに対する訴訟では94%が該当)。同裁の権限が及ぶ範囲は明確で、一般的な法律に関する抽象的な訴えは扱えない。スイスが2009年、モスクなどの尖塔の建設を禁止した際も、イスラム教徒らの訴えはおおむね退けられた。自身の人権が「直接」侵害されたことを立証できず、被害者としての地位を示せなかったからだ。尖塔の建設禁止は条約第9条外部リンクの「宗教の自由」に違反する可能性も、しない可能性もある。だが、欧州人権裁に申し立てができるのは、尖塔のあるモスクの建設申請が当局に却下されるなど、具体的な人権侵害を受けた場合に限られる。
2014年:アスベストの長い影
2005年、ハンス・モーアという定年退職後の男性が肺がんで亡くなった。病気の原因はその数十年前、仕事でアスベストにさらされたことだった。男性は生前、診断を受けて勤務先だった鉄道メーカーのアルストムに損害賠償を請求していたため、妻のレナーテ・ホヴァルト・モーアが訴訟を引き継いだ。しかし、スイスの裁判所は訴えを認めなかった。最後のアスベストへの曝露から10年以上が経過し、時効が適用されると判断したためだ。一方、欧州人権裁は、原因の出来事から数十年たってようやく診断できる疾患において、そうした時効は患者の人権を明らかに侵害すると認定。2014年の判決外部リンクで、該当する事案の時効規定の修正を命じた。
2024年:欧州人権裁の権限範囲(2)
「直接」の影響という尺度に関しては、気候変動も扱いが難しい。地球温暖化は徐々に進むうえ、原因はあちこちに散らばり、影響は世界規模で現れる。欧州評議会では、こうした問題を「横断的テーマ外部リンク」と呼んでいる。しかし、欧州人権裁は2024年4月、スイスの高齢女性団体が起こした裁判で明確な判決外部リンクを下した。スイス政府は気候変動をめぐる国際的責務を果たしておらず、原告らの「私生活および家族生活の尊重を受ける権利」(条約第8条外部リンク)を侵害していると認めたのだ。この判決は世界中で報道された。スイス国内では強い反発があり、同裁の権限の範囲をめぐり激しい論争が再燃。当局は判決を不服とする姿勢さえ示した。いずれにせよ、スイスは2025年に判決の履行実績を欧州評議会に示す必要がある。
欧州評議会、欧州人権条約、欧州人権裁判所
欧州評議会は第2次世界大戦の直後に発足したのち、欧州人権条約を起草して1953年に発効させた。同条約の目的は制定当時から現在まで一貫しており、奴隷制の禁止から表現の自由に至るまで、欧州における基本的人権と政治的自由を守ることにある。欧州評議会は現在46カ国からなり、加盟には条約批准が必須となっている。
加盟国には、自国の司法において条約を順守する責任がある。欧州人権裁判所は加盟各国から1人ずつ参加する判事らで構成され、人権侵害が疑われる事案を審理する。同裁への提訴は、各国で取りうる法的手続きを尽くした場合にのみ認められる。判決には拘束力があり、加盟各国の外相で構成する閣僚委員会が履行状況を監督する。
欧州人権裁は1959年から2021年までに2万4511件の判決を下した。トルコ、ロシア(2022年に欧州評議会から除名)、イタリアは、わずか3カ国で全判決の約40%を占めている。1959年以降、判決言い渡しに至った事案の84%で人権侵害が認定されたが、申し立て全体の94%が不受理となるか、判決に至る前に取り消しとなる。認定された人権侵害の内訳を見ると、条約第6条「公正な裁判を受ける権利」に関するものが最も多く、全体の37%を占めている。
編集:Mark Livingston/ts、画像調査:Helen James、英語からの翻訳:高取芳彦、校正:大野瑠衣子
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