スイスの視点を10言語で

アイガー悲劇の記憶

登山
クラウディオ・コルティを頂上からザイルで降りて救助する。当時はヘリコプターの救助はなかった Alfred Winkler

今から50年前、アイガー登山史上初めての救助活動が世界の注目を浴びた。北壁で遭難した4人のうち、生還したのはクラウディオ・コルティ隊員1人だけだった。

「コルティのドラマ(Corti-Drama)」と題された本が、このほどスイスで発行された。当時の救助活動の詳細や、報道機関による生還者コルティの責任追及と彼の名誉回復までを追った。

事故が起こった1957年当時、グリンデルヴァルトからクライネシャイデック(Kleine Scheidegg)までの模様は双眼鏡で見ることができた。イタリア人のコルティとステファノ・ロンギ登山隊がアイガー北壁を登っている様子は、双眼鏡を通して観察されていた。イタリア隊が出発した2日後、ドイツ隊のギュンター・ノートドゥルフトとフランツ・マイヤーも同じルートを登り始めた。

救助後も注目が続く

2隊ともなかなか前進できない。そうこうしているうちに、北壁を登る途中でイタリア隊はにっちもさっちもいかなくなってしまった。1日後、6カ国からなる救助隊が、コルティ隊員を山頂から320メートルのザイルを垂らして救助することに成功したは、ロンギ隊員は、寒さとひもじさで死亡した。

ロンギ隊員の遺体はザイルに釣り下がったまま、回収されたのは事故の2年後だった。その2年間、野次馬の興味の対象となったことはいうまでもない。グリンデルヴァルトにとって不名誉なことだが、現地の人々は冷静に受け止めていた。遺体を回収するために山に登ることは不可能だと判断されていたからだ。

ドイツ隊のロートドゥルフトとマイヤー両隊員の行方は分からず仕舞いで、憶測が飛んだ。中にはコルティの責任を問うものもあった。コルティは自分が助かりたいがため、2人のドイツ人を墜落させたのだというのだ。4年後、行方不明だった2人は遺体で発見。その結果、2人は頂上に到着し、その後の下山で疲労のため死亡したということが分かった。コルティはやっと「無実」を認められ、名誉を回復した。

苦い思い出

事故から50年目にあたる今年、スイス人のダニエル・アンカー氏とドイツ人のライナー・レットナー氏による本が出版された。イタリアに暮らすコルティを訪ねるなど、著者は当時の模様を知る証言者に聞いて歩いた。救助活動の模様などを詳細にわたって記録したカメラマン、アルベルト・ヴィンクラーの写真も入手した。ヴィンクラーの報道写真は当時、マスコミにより世界中に流されたものだ。

おすすめの記事
アイガー北壁

おすすめの記事

魅力溢れる「死の壁」、アイガー北壁

このコンテンツが公開されたのは、 アイガー北壁、またの名を「死の壁」。非常に困難で危険な北壁として世界的に知られ、日本でも女性タレント・イモトアヤコさんの挑戦をきっかけに関心が高まっている。

もっと読む 魅力溢れる「死の壁」、アイガー北壁


「当時子供だった人も、登山隊員をどのように救助しようとしたか、詳しく覚えている」と著者のダニエル・アンカー氏。遭難事故は現地の人の脳裏にいまでも鮮明に残っている。

さらにアンカー氏によると、グリンデルヴァルトの村にとって「コルティのドラマ」は苦い思い出だという。3人を救助できなかった上に、当初は救助活動を拒否したからだ。

「技術面でも機材面でも、その準備はなかった。スチールザイルによる救助方法は当時まだ知られていなかった。また、アイガー登山はグリンデルヴァルトの村人にとってタブーでもあった。事故を起こすのは登った人が悪いからだという考えだった」

報道合戦

この救助活動は世界のマスコミの注目を浴びた。現地の人たち以外は、救助は可能だと考えていた。「登山家はどれだけ耐えられるのだろうかということに興味が集中した。しかも、夏でニュースがさほどなかったことも報道合戦に拍車をかけた」。もしテレビが当時あったなら、必ず中継されたはずだとアンカー氏は言う。

同時に、この遭難事故によりグリンデルヴァルトは観光面で大いに儲かったことも否めない。もちろん、彼の救助が失敗したことは現地の人々にとって辛いことだったろうとアンカー氏は言う。

2年後、ロンギ隊員の遺体回収は、オランダの出版社が出資して実現した。出資者は、ほかのリコプターなどを飛ばすことを禁止し、回収の模様を独占しようとしたが、それはかなわなかった。

ハイキングの気持ちで上るのは危険

その後、救助技術は大きく進歩した。特に現在のグリンデルヴァルトの救助活動は評価が高い。夜間に起こった遭難事故でも、厳しい状況下の救助活動もヘリコプターのおかげで可能だ。しかし、今日のハイテク技術で登山者の危険が無くなったかというと、それは間違いだ。携帯電話で救助を呼ぶことも考えられるが、バッテリーがなくなっていたり、天候によって電話が通じなかったりもする」とアンカー氏は警告する。

アイガー北壁はすでに何百もの登山隊が登ったとはいえ、その魅力は消えていない。グリンデルヴァルトを訪れる観光客にとっては、一種の舞台ともいえる。登山隊員の様子を、グリンデルヴァルトから見ることができるからだ。また、登山者にとっても魅力ある場所だ。牧草地から1800メートル上ったところにあるにもかかわらず、電車が通る音やカウベルが聞こえる、特別な場所なのだ。

「コルティ・ドラマ」ダニエル・アンカー、ライナー・レットナー共著
(Corti-Drama, Tod und Rettung am Eiger 1957-1961, AS出版 Zürich, 2007)

アイガー
1899年 ユングフラウ鉄道の雪崩防止柵の設置工事の爆破作業で、6人の作業員が死亡。

1935年 アイガー北壁を制覇する本格的試み。マックス・セドルマイヤーとカール・メーリンガー登山隊員は、標高3300メートルの北壁で凍死。死亡現場を現在「死の野宿 ( Todesbiwak ) 」という。

1936年 ヴィリ・アンゲレール、エディ・ライナー、アンドレアス・ヒンターストイサー、トニ・クンツ登山隊員が北壁下山の際に遭難し死亡。

1938年 オーストリア人、ハインリッヒ・ハーラー他ドイツ・オーストリアの混合隊が初めてアイガーを登攀。

1957年 北壁での初めての救助活動。4人の登山隊員のうち3人は死亡。

1963年 ヴァレー州出身のミシェル・ダーベリーがアイガー北壁を単独登攀。 

1971年 ヘリコプターによる救助活動が始まる。

(独語からの翻訳&編集・佐藤夕美)

人気の記事

世界の読者と意見交換

swissinfo.chの記者との意見交換は、こちらからアクセスしてください。

他のトピックを議論したい、あるいは記事の誤記に関しては、japanese@swissinfo.ch までご連絡ください。

SWI swissinfo.ch スイス公共放送協会の国際部

SWI swissinfo.ch スイス公共放送協会の国際部