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ジュノー博士の記念碑 故郷にも

ヒロシマの平和記念公園に建立されているレリーフがアリアナ美術館の庭にも建立された swissinfo.ch

広島で被爆者を救護したことで知られる故マルセル・ジュノー博士の記念碑がジュネーブ市と赤十字国際委員会(ICRC)によって、ジュネーブに建てられ、除幕式が13日に行なわれた。

広島の平和記念公園にジュノー顕彰碑が設立されて25年後、初めて生まれ故郷スイスでもその功績が称えられることになった。

 記念碑除幕式にはICRCのケレンバーガー委員長、ジュネーブのトルナーレ市長、ジュノー博士の息子ブノワ氏などが出席。日本からは広島県医師会の柳田実郎常任理事と広島市助役の山田康氏が出席し、スピーチをした。また、2分間の黙祷が行なわれ、広島、長崎の被爆者への追悼が行なわれた。

 記念碑は欧州国連本部と赤十字国際委員会(ICRC)を見渡す、アリアナ美術館の庭に建てられた。記念碑に組み込まれたレリーフは広島県医師協会がジュネーブ市に寄付したもので広島平和公園や広島赤十字病院にも同じものがある。ジュノー博士の肖像を表したブロンズで日本の彫刻家、芥川永氏の作品だ。

 追悼記念式典はジュノー博士の息子の「今から、丁度60年前の9月13日、父は広島での6日間を終えて、広島から東京に行く汽車に乗っていました…」と言う言葉で始まった。

喜びの声

 式典の後、「大変感激しています」と語るのはジュノー博士の息子、ブノワ氏。「25年前、広島に記念碑が建てられたときは人生で最高に感動しましたが、それが自分の街にできるとは…」と声を詰まらせた。

 広島県医師会の柳田氏も「どうやら、ジュノー博士の行動はスイスでは赤十字職員として当然のことのように思われていたようですが、今となってやっと、米軍に医療品15�dを送らせた功績が彼の行動力や交渉力のお陰と認められたようです。感慨深いものがあります」と語った。

 広島市の秋葉忠利市長の代理として出席した山田康助役は「広島市では2000年にジュノー博士が救護所として活動した袋町小学校前の広場を「ジュノー広場」と名づけた」と紹介した。

学校の教材として再出版

 また、これを記念してICRCからジュノー氏の手記『広島の残虐』を含めた本『ヒロシマ、ナガサキ、−60年後』(Hiroshima, Nagasaki – 60ans après)がICRCから共著で出版された(フランス語)。

 これはジュノー氏が帰国後、原爆の影響について記した手記『広島の残虐』(日本では1974年に国際平和研究所から出版、丸山幹正訳)とともに核兵器、軍縮、平和といったテーマを考察するテキストが一冊になったものだ。
 
 同著にはその他、歴史学者のエリカ・ジグレール(Erica Deuber Ziegler)氏が当時の時代背景考察を、元戦略国際安全保障研究所所長のクルト・ガスタイガー(Curt Gasteyger)氏が戦後の軍縮について、ICRCのフランソワ・ビュニオン氏が国際法の観点から、それぞれ論文を寄せている。

 この本は核兵器のあり方や平和を考える教材としてジュネーブ州の小中高等学校に配られる予定だ。

ジュネーブ市の精神を反映

 「意外なことにジュノー博士のことはスイスでは余り、知られていません」と語るのはジュネーブ州広報官のシルビー・コーエン氏だ。「だからこそ、子供たちに少しでも、身近なスイス人の彼を通して原爆のことを知ってほしい」。コーエン氏は「ジュノー氏ほどジュネーブの人道主義の精神を体現した人はいない」と評価する。

 ジュネーブの赤十字本部で長年勤務した近衛忠輝日本赤十字副社長は序文に「『広島の残虐』が原爆認識への新しい出発点になるように」と締めくくっている。


swissinfo、  屋山明乃(ややまあけの)

マルセル・ジュノー博士(Marcel Junod, 1904年〜1960年)

赤十字国際委員会から日本に派遣されたジュノー博士は広島原爆投下から1カ月後に現地を訪れた初めての外国人医師。広島での惨事を目撃して被爆者の救護活動に奔走し、連合軍に医療品を送らせることに成功した。広島ではこの博士の功績を称え、広島平和記念公園に記念碑が建てられ、(1972年)毎年6月の命日にジュノー祭が行なわれている。

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