スイスが中国との関係を深めたい理由
スイスと中国は2013年に自由貿易協定(FTA)を締結し、14年に発効させた。それから10年余りが経過した今、スイスは協定の拡充を目指している。では、両国は現行のFTAからどのような恩恵を得てきたのだろうか。
対中FTAへの賛否をめぐるスイス国内の対立では、主に経済的価値と道徳的価値が焦点になっている。
中国が以前にも増して国際社会での影響力を渇望していることに、スイスの政治家は当然気づいている。その世界的野心に対する連邦議会の論調や見解は今、2013年よりも批判的だ。
中国への懐疑や懸念は党派を超えて広がっている。下院は9月、外国投資家がスイスの主要企業を簡単に買収できないようにする法案を可決したが、これは非公式に「中国法案外部リンク」と呼ばれていた。
特に左派・社会民主党(SP/PS)と緑の党(GPS/Les Verts)の見解では、スイスはすでに中国に近づきすぎている。緑の党のニコラス・ワルダー議員は2022年、中国の人権侵害を理由に対中FTAの破棄を求める動議外部リンクを下院に提出した。ただし、この動議は今年2月に否決されている。
FTA改定に着手
一方、経済界は自由貿易の利点を積極的に活用している。あらゆる指標が上昇しているだけでなく、さらなる上昇の余地もある。スイスがFTA改定に着手したのはそのためだ。政府は9月、最初の対中交渉を行った。
欧州連合(EU)や米国などの西側諸国が中国への反発を強める一方、スイスは各国よりも接近を強めている。
中国がこれまでに締結した貿易協定は、世界全体で20件にすぎない。ここには、歴史的・地理的なつながりのあるパートナー国や、アイスランド、モルディブ、香港、マカオといった小さな国・地域との協定も含まれる。なかでも、東南アジア諸国連合(ASEAN)、オーストラリア、韓国は経済的に重要な締結先だ。
中国とスイスが接近した理由
中国から見れば、スイスは実験台だった。アジア専門家のパトリック・ツィルテナー氏は「中国はFTAが欧州でどう機能するかを調べるため、スイスとの協定を利用した」と語る。ツィルテナー氏は、ザンクト・ガレン大学の中国・スイス能力センターがFTA評価外部リンクを実施した際、主導的な役割を果たした人物だ。
同氏によると、世界2位の経済規模を誇る中国にとって、スイスとのFTA締結は面子の問題でもあった。中国はこの協定により、自分たちは自由貿易を許容し、促進さえしていると世界にアピールできた。国際社会の尊敬を得ているスイスとの経済連携が、信頼の置けるパートナーであることの証明になると見込んだのだ。
世界への扉を開くスイス
スイスは貿易パートナーとなった中国のため、国際場裏で重要な扉を開く役割を果たした。世界貿易機関(WTO)協定上の市場経済国として認定したのだ。これについては、アリアン・クヌーゼル、ラルフ・ウェーバー両氏の著書「Switzerland and China(仮訳:スイスと中国)」で詳しく説明されている。スイスによる市場経済国認定は、各国が中国と自由貿易を始める呼び水になった。
スイスはこの認定を形式的なものとして扱い、連邦内閣は簡単に手続きを済ませた。一方、同著が指摘する通り、EUは今も中国をWTO協定上の市場経済国に認定していない。認定が得られれば、世界市場において反ダンピング(不当廉売)提訴を受けにくくなる。このことも、中国がスイスとのFTAに関心を向ける理由だ。
さらに、両国には歴史的なつながりもある。スイスによる中華人民共和国の承認は1950年と、かなり早い部類に入る。最後に、知識移転の問題もある。多くの場合、FTAを利用する企業は生産工程の開示を義務付けられる。これは、中国が経済上のノウハウを増強するのに役立つ仕組みと言える。
誰が自由貿易の恩恵を受けているのか
FTAの効果は貿易額の増加で語られがちだが、これは話の半分でしかない。貿易自由化による最大の恩恵は規模の拡大ではなく、関税減免による利益の増大だ。ツィルテナー氏の試算によると、FTAによるスイス側の関税支出の節減額は、2022年に1億8700万フラン(約328億円)に上った。
実際、スイスから中国への輸出額を見てもFTAの効果はわかりにくい。単純な品目別輸出額は金が圧倒的に多く、過去10年の伸びは倍余り、2023年の総額に占める割合は過半に及んでいる。
金が対中輸出の多くを占める理由は、中国側の膨大な需要にある。中国人民銀行(中央銀行)による2023年の金の購入規模は、単独の買い手として世界最大だった。専門家らによれば、同行は中国のドルへの依存度を引き下げようとしている。この点は興味深い。スイスは外交政策で多国間主義を説きながら、金輸出を通じて中国による国際金融システムからの離脱を後押ししているのだ。その背景として、世界最大級の金精錬所5カ所のうち4カ所がスイスにあることが指摘できる。
しかし、金輸出とFTAの間には何の関係もない。スイス連邦経済省経済管轄庁(SECO)のファビアン・マイエンフィッシュ広報官の説明の通り、「中国は出所にかかわらず金に輸入関税を課さない」からだ。
そこで、金を除いた輸入額を見てみよう。
スイスの対中輸出(金を除く)は10年間で74%増加し、154億フランとなった。製薬、時計製造、機械製造の各産業は特に中国志向が強く、医薬品輸出の伸びは品目別で最大だった。
スイスの輸出は大半が米中向け
だが、これはFTAの成果なのだろうか。対米輸出の伸びが対中輸出より大きいことを踏まえると、FTAは増加の一因にすぎない。以下のグラフをご覧いただきたい。
グラフが示すように、米中は経済対立を深めながら、ともにスイスの輸出の伸びを牽引してきた。観測筋は、この状況をスイスのリスクとみなしている。西側諸国と中国の貿易戦争がさらに激化した場合、中国市場から手を引くよう米国やEUが圧力をかけてくる可能性が高いからだ。
政府は輸出利益を公開せず
上述の通り、貿易協定の成果は輸出額だけでなく、関税減免で生じる利益にも表れる。マイエンフィッシュ氏は「FTAによってスイスの輸出企業が関税支出を大幅に節減し、利益を得られるようになった」と語る。スイスはこの効果を生かし、EUや米国など中国市場の主なライバルとの競争力を高めてきた。
では、関税減免の恩恵を受けてきたのは、スイスのどの産業なのだろうか。連邦政府はこの疑問に応える統計を提供していない。たとえば、経済管轄庁の分析報告「FTAモニター」2022年版(91ページ参照)からは対中輸出のページが抜けている。同庁は問い合わせに対し、ページがないのは「中国側が公開資料に使えるデータを提供しないからだ」と返答した。
最大の受益者は時計産業
政府統計はないが、ザンクト・ガレン大学がツィルテナー氏の主導で試算を行い、情報を提供している。それによるとFTAの恩恵は時計産業で最も大きく、関税節減額は2022年だけで1億3300万ドルに上った。節減額はさらに膨らむ余地があり、特に時計産業では年間4600万ドルの上乗せが可能と推計されている。スイスとしては、この潜在力を生かすことが望ましい。
製薬への恩恵は軽微
医薬品はスイスの輸出の稼ぎ頭だが、同じ試算によると、2022年の関税節減額は140万ドルにとどまった。つまり、製薬業における対中FTAの重要性は皆無に等しいということだ。その第1の理由として、そもそも医薬品の関税率が低いことが挙げられる。また、FTAを利用するには医薬品の化学式を開示する必要があり、製薬会社に旨みがないことが第2の理由となっている。
スイスは対中FTAの改定で、次の3項目の実現を目指している。
1. 関税減免の拡大
経済管轄庁のマイエンフィッシュ氏によると、スイスの現在の目標は「工業製品に対する関税減免を拡大すること」だ。たとえば、現行FTAの下では機械輸出の5分の1で関税が一部または全部残っている。さらに、スイスは医薬品に対する税率引き下げも望んでいる。
同氏によれば、時計産業も念頭にある。中国はFTA発効後も時計に対して最高で9.2%の税を課している。ただし、ここには贅沢品全般に適用される消費税が含まれるため、すべてが輸入関税というわけではない。そして、中国がスイス製の時計だけに消費税率を引き下げるとは考えにくい。
スイスの時計産業は今、救済措置を切実に必要としている。中国市場での販売が急速に落ち込んでいるためだ。ロレックスは決算情報を開示していないが、リシュモン・グループとスウォッチ・グループは大幅な減収を計上した。中国による関税減免の重要性は、簡単な比較をするだけよくわかる。スイスの時計輸出における2023年の関税節減額は、スウォッチ・グループの2024年上半期の最終利益に匹敵するほどだ。
2. 対中投資
スイス政府は、自国企業による中国経済への投資を可能にすることも目指している。対中投資の自由化は、議会が可決した動議外部リンクで求められている。しかし、その議会が今、中国からスイス企業への投資を禁止したがっている事実は、間違いなく政府間交渉で足かせになる。
3. 環境・人権
スイス政府は2013年に現行の対中FTAを締結したとき、国民投票(レファレンダム)に諮らなかった。しかし、今回は状況が変わる可能性がある。インドネシアとのFTAでは交渉結果の是非を問う国民投票がNGOによって提起され、2021年に実施された。いわゆる「パームオイル・レファレンダム」だ。
対中FTA交渉団はこの経験を教訓とし、国民投票を求める声が膨らまないようにしたいと考えている。だからこそ、下院外交委員会が示した条件に沿って環境・人権問題を交渉で取り上げようとしているのだ。
これだけで反対派が満足するかはわからない。スイス国内の反中派はすでに、国民投票を提起すると発表している。緑の党も、拘束力のある環境・人権枠組みを協定に盛り込まなければ、国民投票の実施を支持すると表明した。緑の党のワルダー氏はswissinfo.chに対し、この方針を確認している。
社会民主党もすでに投票の準備を整えている。同党所属で外交を専門とするファビアン・モリーナ議員は「強制労働の排除をはじめとする人権・環境基準」を盛り込むよう求め、「連邦内閣が一連の深刻な問題に答えを見いださないのであれば、われわれは協定を拒否する」と警告している。
中国は何を望んでいるか
中国は過去5年、FTAがもたらす機会を以前ほど生かしてこなかった。協定の全般的な活用度は、スイスを下回っている。それでもなお、2022年の中国側の関税節減額は2億1300万フランに上り、スイスより2500万フランも多い。
アジア専門家のツィルテナー氏の見通しでは、中国はFTA改定交渉で労働力輸出を議題にしたがる可能性がある。これはスイス側に中国の専門家向けの労働許可証を発行させることを意味するが、スイス国内では歓迎されないだろう。
だが総じて言えば、新たなFTAは中国にとって、幅広い国際関係を持つスイスから政治的に受け入れられたという保証になる。中国にとって、国際社会の尊敬を得ているスイスは心強い協力相手だろう。さらに、欧州の中心に位置する西側国のスイスが反中政策を引き続き抑制することも、中国にとって心強い事実となる。
編集:Reto Gysi von Wartburg、英語からの翻訳:高取芳彦、校正:大野瑠衣子
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