今から100年前、歴史を刻む列車の旅が敢行された。レーニンは1917年、スイス・チューリヒから露ペトログラード(現在のサンクトペテルブルグ)までを、「封印列車」と呼ばれる秘密の貸し切り列車で移動した。それから1世紀が経った今、この革命家がたどったルートを写真で振り返る。
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英国出身のマルチメディア・ジャーナリスト。2010年にスイスに移住。テレビ、ラジオ、オンラインメディアでの仕事経験を持つ。ビデオジャーナリスト、写真編集者、グラフィックデザイナー、データジャーナリスト、コミュニティ・デベロッパーから成るチームを率いる。専門分野はソーシャルメディア。
Thomas Dworzak / Magnum Photos, Jo Fahy (文), Ester Unterfinger (写真編集)
レーニンことウラジミール・イリイチ・ウリヤーノフと妻ナデジダ・クルプスカヤは1914年、政治亡命を求めスイスの首都ベルンに到着した。レーニンはスイス西部のジュネーブに暮らしたことがあった。夫妻は16年2月までベルンに滞在し、その後はチューリヒ旧市街のシュピーゲルガッセ14番地で1年余りを過ごした。
チューリヒに居を移したのには政治的な理由があった。武装発起を目論んでいたレーニンは、自身の主張を広めて国際共産主義運動の確立に加担してくれる支援者を募っていた。社会民主党チューリヒ支部がベルン支部よりも急進的だったので、支援者を得やすいと考えたのだ。レーニンはチューリヒ在住中、社民党大会に出席して支援者を集めたり、著書「帝国主義論」の執筆に励んだりした。
1917年4月に二月革命が勃発した知らせを受けると、ただちにロシアに戻ることにした。労働階級が政治権力を握る「プロレタリアートによる独裁主義」の樹立を目指すためだった。旅程はドイツ政府が決め、レーニンを乗せた列車はドイツを通過することになった。ロシアと対戦中だったドイツは、レーニンが戻ればロシアの政局が不安定になるとにらんだため、この移動に同意したのだった。
移動には30人を超える革命支持者が同行した。その大半はロシア人だったが、中にはポーランド人やスイス人もいた。一行は列車や船に乗って欧州を縦断した。
この写真ギャラリーでは、レーニンが通った行程を振り返る。また2017年4月に行われた封印列車の再現劇も合わせて紹介する。
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(英語からの翻訳・鹿島田芙美)
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