スイスはこのたびニューヨークの国際連合に対し、核兵器禁止の必要性を説く調査結果を提出した。
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国連 ( UN ) で核兵器に関する新しい協定を取り決めれば、核兵器を禁止することができるというものだ。
威嚇効果に疑問
5月10日午後、ニューヨークに滞在中のユルク・ラウバー・スイス国連大使は会議前、「スイス通信社 ( SDA/ATS ) 」に対し次のように述べた。
「核兵器の正当性に関する議論は、核兵器の有用性を訴える従来の論拠、特に威嚇効果に対して疑問を投げかけている」
ラウバー氏は、5月末まで開催されている核不散条約 ( NPT ) 再検討会議に出席しているスイス代表団の団長を務めている。
スイス連邦外務省 ( EDA/ DFAE ) が調査を依頼したモントレー国際大学 ( Monterey Institute of International Studies ) は
「安全保障理事会の5カ国の常任理事国や公認の核保有国など、ほとんどの国が核軍縮に賛意を表しているにもかかわらず、世界は核兵器廃絶という目標からまだほど遠いところにいる」
と現状を述べ、核兵器は逆に拡散する恐れがあると警鐘を鳴らす。
「国際協定によって核兵器の正当性を剥奪し、核兵器には威嚇効果があるという論拠を論破することは可能である。核兵器に関わる国家原則もまた、すでに国際的な禁止が定められている生物兵器や化学兵器と同様、受け入れられないものと位置づけるべきだ」
小さなミスも許されない
同調査はさらに、第2次世界大戦の終戦は日本に投下された原爆が導いたという説には証拠がないと結論付ける。また、冷戦中に平和が保たれたのは核兵器のおかげだという説も架空の事実に過ぎないと主張する。
「核兵器による威嚇は、事故や抑制のない攻撃といった結果を招きうるリスクの大きい戦略だ。核兵器の保有では小さなミスも許されない」
調査の中では、核不使用の協定案も紹介されている。同様の案は昨年、インドのマヤンコテ・ナラヤナン国家安全保障顧問も発表した。そのような協定では制裁措置についても取り決めなければならず、例外は認めてはならないと提案されている。
しかし、これまでのところ、国家存続の危機に立たされるという非常事態の中で自己防衛のために核兵器を使用した場合、それを公正と見なすかどうかについて各国の意見は一致していない。
今回の調査書では
「原爆は無差別破壊のために開発されたものであり、犠牲者や一般市民に無用の苦しみを与えるものである。国際法に対し、ほぼ責任を負うことができないことだ」
と訴える。
swissinfo.ch、外電
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原爆投下 ジュノー博士の勇気と信念
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「父は負傷者や犠牲者を救助するためには、いかなる手段をも使い、やり遂げる人だった」と、マルセル・ジュー博士の息子ブノワ・ジュノー氏は語った。
広島に原爆が投下された64年前の8月6日、赤十字国際委員会 のスイス人ジュノー博士は、連合軍の捕虜調査のため日本に向かう途中だった。到着後、原爆投下後の惨状に驚愕し、マッカーサー総司令官に15トンの医薬品提供を交渉、自らも広島に入った。原爆投下後に医療活動を行った「最初でただ1人の外国人医師」を、広島では「ヒロシマの恩人」と呼ぶ。
天性の性格
「外務省から見せられた写真と、自らが派遣した赤十字国際委員会職員が報告した惨状にショックを受け、本来の任務である連合軍の捕虜調査を一時休止し、父はただちに連合国軍総司令部 ( GHQ ) に医薬品輸送を掛け合った」とブノワ氏。当時、日本で緊急医薬品を所持していたのはGHQだけだった。 しかし、ブノワ氏によると、原爆投下後の惨状とその規模を絶対秘密にしておきたかったアメリカは、外国人医師が広島に入ることは外部への情報漏れを促すと、当初は拒否した。だが、ジュノー博士には交渉の切り札があったという。日本に入る前に、満州で拘束されていた捕虜、英雄ウェンライト中将の生存を確認し、それを日本到着後ただちにマッカーサー総司令官に報告していたからだ。 「捕虜待遇などを記したジュネーブ条約を批准していなかった日本軍は、当時簡単に捕虜に会わせなかった。にもかかわらず、それをやった男にマッカーサー総司令官は一目置いた。また情報提供に対し感謝していた。そこで医薬品とともに現地に行く条件で、ようやく承諾した」 こうした交渉能力に加え、ジュノー博士の性格があった。傷つき苦しむ人を目の当たりにし、救助の手を差し伸べると決めたら、相手がノーと言ってもオーケーを出すまで執拗に主張し続ける強い性格だ。 「人を救うためにはたとえ法的規定がなくとも方法を探る」という信念は、150年前ソルフェリーの戦いにショックを受け、戦場で苦しむ兵士を平等に救う国際的組織、赤十字国際委員会 ( ICRC ) 創設の必要性を説いて回ったアンリ・デュナンの精神に通じるとブノワ氏は言う。 「冒険の精神、限界に挑戦する勇気、体力、特に巧みな交渉力。そして政治的洞察力が赤十字国際委員会の職員すべてに要求される。しかし、人を助けることを使命と感じる天性の性格がなければ、アンリ・デュナンもあのような運動を起こさなかったし、父もあのような活躍をしなかったのではないかと思う」
限界に挑戦
「不可能ということを知らなかった。だから彼は実行した」というマーク・トゥエインの言葉はジュノー博士に当てはまると、赤十字国際委員会は記している。 1942年、ドイツの占領下にあったパリで、ロシアとポーランドの捕虜を訪問したいとジュノー博士はドイツ軍部に申し出た。もちろん断られたのだが、手元にあった糸で手品をし、「もし君たちに同じことができたら捕虜訪問はあきらめるが、できなかったら捕虜に合わせて欲しい」とドイツ側に要求。結局手品のできなかったドイツ人たちは捕虜訪問を許可したという逸話が残っている。 広島に関しても同じ精神でマッカーサー総司令官と交渉した。ジュネーブ条約を批准していなかったアメリカには、敵国に医薬品を送る義務はなかったが、ジュノー博士は上述のように、アメリカの捕虜の情報と保護を交換条件に使った。
「限界があってもその限界を乗り越えるにはどうしたらよいかと絶えず考え、可能性を追求するということこそ、父が赤十字国際委員会の後輩に残した最大の贈り物だ」とブノワ氏は言う。
医師として
1945年9月8日、ジュノー博士は15トンの医薬品とともに広島に入った。「医薬品や医療材料が極度に欠乏した状況下、サルファ剤などの薬品をはじめ、消毒薬や包帯などは、大変な治療効果を発揮し、1万人以上の命を救うとともに、絶望の淵にあった被爆者たちを強く勇気付ける」と、広島県医師会はジュノー博士の履歴の中で綴っている。 医薬品を広島県知事に引き渡すや、ジュノー博士は市内の救護所を視察し、また自ら治療にもあたった。「父は赤十字国際委員会の職員でありながら、生まれついての医師だった。傷ついた人を前にし、自然に膝をつき治療を始めた」とブノワ氏。広島滞在の4日間、ある中学校に収容された被災者たちを治療し続けたという。 一方医師として、この新しい爆弾の医学的な被害状況にも興味を持った。爆弾の引き起こす高熱、爆風、特に放射能について、現地の医師たちと話し合った。市内視察の際、「瓦礫の中に残っていた白い骨を手に取り、まるで弔うようにやさしくなでた」というマツナガ医師の言葉も赤十字国際委員会に記録されている。 日本滞在後ジュノー博士は、核兵器廃絶を機会あるごとに訴え続けたという。また、血液循環や膝の病気に苦しみ、座ったままでも仕事ができる麻酔学をロンドンで勉強し直し、その後1961年、ジュネーブ大学病院で治療にあたっていた患者が麻酔からさめるのを見守る中、心臓発作で逝った。 ジュノー博士の命日6月16日前後の日曜日に博士の記念祭を開催してきた広島県医師会のある関係者は、「博士のもたらした15トンの医薬品の大切さと現地での治療行為は、医者の模範として広島の医師たちの間で語り継がれてきた。記念祭は医療関係者中心の300人あまりの集いだが、今まで20年続けてきたし、今後も続いていくことは確かだ」と明言した。 「人道援助には、状況と必要に応じた柔軟な対応と判断が必要だということ。また、不可能を可能にする信念の大切さをジュノー博士は、後輩に残した」と赤十字国際委員会はジュノー氏について記している。里信邦子 ( さとのぶ くにこ )、swissinfo.chマルセル・ジュノー博士略歴
1904年、スイス、ヌシャテル州に牧師の息子として生まれる。1935年、ジュネーブ大学の医学部を卒業後、外科医になる。赤十字国際委員会 ( ICRC ) の最初の任務として戦禍のエチオピアに赴任。1936年、赤十字国際委員会からスペイン市民戦争に派遣される。1939年、第2次世界大戦中にヨーロッパ全土に渡って、連合軍と枢軸軍、両側の戦争捕虜を訪問。1945年、日本軍に捕まった捕虜の調査に、赤十字国際委員会駐日代表として日本に派遣される。広島には原爆投下後のほぼ一カ月後の9月8日に15トンの医薬品とともに訪れる。1946年、ジュネーブに戻り、医者としての活動に復帰する。次の年に自伝的著書『第三の兵士』 ( 日本語書名:『ドクター・ジュノーの戦い』 ) を執筆。1948年、新しく創設された国連児童基金 ( UNICEF ) のミッションで中国を訪問。1950年、麻酔学をロンドンで勉強。ジュネーブ大学に初めての麻酔科を開設。1952年、幹部として赤十字国際委員会に戻る。1961年、ジュネーブ病院で麻酔からさめる患者の治療中に心臓麻痺で死亡。享年57歳。1979年、広島県医師会や日本赤十字社は、博士をしのぶ関係者の協力で広島平和記念公園横に「ジュノー顕彰碑」を建立する。1990年6月。碑前にて「ジュノー記念祭」が執り行われ、以後毎年継続されている。今年2009年には20周年記念として、息子のブノワ氏が家族とともに記念祭に参加した。
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