レジェップ・レジェピ 「スイス時計にコソボの名前は付けられないと思っていた」
時計ブランド「Akrivia(アクリヴィア)」の創業者、レジェップ・レジェピ氏(37)は現在最も注目を集める独立時計師の1人だ。ジュネーブに移住したコソボ移民2世の同氏は、多くの専門家やコレクターから「時計製造芸術の新しい巨匠」と評される。
3月のある晴れた朝、レジェピ氏はジュネーブ旧市街地の中心にあるアクリヴィアのアトリエで私たちを迎えてくれた。目抜き通りのグラン・リューの両側にはパーツとケースの製造工房、装飾・組み立て工房、そして最近オープンしたレザーストラップ製造工房があり、この界隈で圧倒的な存在感を放っている。
建物の湖側の5階には、最近レジェピ氏が借りたメゾネットタイプのアパルトマンがある。彼自身の仕事場であり時計技師の作業場、そして来客を迎えるサロンにもなる。窓からはアルプス山脈、ジュネーブのランドマークである大噴水(ジェッドー)、そしてジュラ山脈の素晴らしい眺めが見える。この比類なき景観は、12歳でコソボからスイスに来た若き移民の華麗なる成功を物語っている。
国際メディアから称賛され、英フィナンシャル・タイムズが「時計業界のモーツァルト」と評するレジェピ氏。37歳ですでに、現代時計製造界における最高級の才能を称える「ジュネーブ時計グランプリ(GPHG)」で2度受賞した(2018年、2011年)。気さくでフレンドリーな人柄のレジェピ氏が、swissinfo.chにそのキャリアと野望について語った。
swissinfo.ch:時計ブランド「アクリヴィア」をジュネーブに立ち上げて12年。1人で働いていた独立時計技師の時代から、今では25人以上を抱える小企業のトップになりました。この成長をどう思いますか?
レジェップ・レジェピ:正直、この展開に驚いています。信じられないほどの評価を受けています。ブランド名の「Akrivia」はギリシャ語で「精度」を意味します。私は当初、大胆にも自分1人で時計を作ることを目指していました。ですがすぐに、可能な限り完璧な時計を作るには多くの技術や職能が必要だと気付きました。
2019年には複雑時計の最も偉大なケース職人の1人、ジャン・ピエール・ハグマン氏を迎え、昨年はレザーストラップを作る新しい工房もオープンしました。
アクリヴィアでは全てのパーツを手作業で磨いて装飾を施すため、時計職人は非常に専門的な作業を学び、習得しなければなりません。多くの人材が必要になります。ですが、私たちは職人であり、今後も、何があろうとも、職人であり続けることに変わりはありません。
アトリエを拡充するのは、サプライヤーに頼らずに独立性を高めるのが目的ですか?
私にとって「自由」であることはとても重要な価値観です。戦争中の国で育ったからかもしれません。私は自分の作る作品が、夢見る通りのものであって欲しい。品質には非常に高いレベルを求める一方で、ごく少量のパーツしか注文しません。下請け業者にとって私が得意客でないのは十分に自覚しています。
自分の哲学に忠実でありたいと思うなら、より多くのパーツを自分で作る必要がある。それは同時に、大きな可能性を開くものでもあります。何でも自分が望む通りにできますし、どうにもならない納期に縛られることもなくなりますから。
順調な売れ行きを踏まえ、今後は年間生産量を増やす予定はありますか?
今日アクリヴィアでは、6万~38万フラン(約1千万~6400万円)の価格帯の時計を年間40~50本作っています。今の需要から判断すると、あと10~15倍は簡単に売れるでしょう。
もっと生産できるのであれば、迷うことなくそうします。ですが今のところそれは不可能です。この業界で生き残りたいのであれば、決して妥協は許されない。顧客が私たちに求めている絶対的な品質を放棄することはできません。あらゆるミスが命取りになります。
アクリヴィアの時計を買うのは数年待ちということもよくあります。どのような顧客が優先されますか?
微妙なところですが、できるだけ受注した順番に対応するようにしています。私たちは真の愛好家たちを優先し、単に私たちの時計を高く転売する目的で購入する人への販売を避けています。ですがこうした行為を完全に失くすことは困難です。
専門メディアはあなたを、現在活躍する最も才能ある独立時計師の1人と評価しています。誇りに思いますか?
私は自分のアトリエと空間という「自分の世界」に閉じこもりがちです。記事になるのは素晴らしいもことですが、そればかりに目を向けたくはありません。自分にとって大切なのは、長期的に10年、20年、30年後も同じ情熱を持って自分の仕事を続けていけるということ。そして、偉大な現代の時計職人から私が受けたように、自身の仕事を通じて他の人にインスピレーションを与えることです。
時計職人としての仕事に全力を注いでいますが、今日、コミュニケーションをおろそかにできないのでは?
その通りです。私が25歳で独立時計師としてスタートしたとき、すでに時計製造の知識はありましたし、自分の時計は最高に美しいと確信していました。ですが小売店とは何か、時計ジャーナリズムがどう機能しているのかも知らず、コミュニケーションの方法について何も知らなかった。すぐに、この職業に情熱を抱くだけでは十分でないことに気づきました。私たちは自分たちの仕事について語らなければならないのです。今では、伝えることに喜びを感じています。
異例の経歴をお持ちです。戦争から逃れたコソボ出身の子どもが、同世代で最も才能ある時計職人になる―まるでおとぎ話のようです。メディアが描くあなたの人物像をどう思いますか?
微笑ましいですね。私の個人的な話は確かに重要ですが、戦争を体験したからと言って私が他の子どもたちと違ったわけではありません。私は母親を知らずに育ちましたが、不安定ではありませんでした。祖母に育てられ、その後、父と暮らすためにジュネーブに来ました。幸せな子ども時代を過ごしましたし、不満はありません。
それよりも深く影響を受けたのは、父の第2の故郷に対する考え方でした。父は常にスイスを敬愛していて、尊敬するあまり私に「お前はスイス人より自分を上に置いてはいけない」と言ったこともありました。
人種差別を受けたことはなく、自分を完全にスイス人だと感じています。それでも、最初の頃に感じたある種のためらいや遠慮があります。私は、スイス時計にコソボの名前は付けられないと思っていました。今にして思えば愚かだったと思います。顧客は時計の名前がXであろうとYであろうと気にしない。重要なのは製品の品質と、その裏側にある仕事なのですから。
25歳という若さで、しかも周りの資金援助なしに自分の時計ブランドを立ち上げるには、やはりそれなりの度胸が必要です。この大胆さには移民の背景が関係していますか?
確かに文化的な要素はあります。祖母はいつも私に言っていました。「人生において、チャンスが巡ってきたらそれを掴んで成長させなさい」と。誰かがチャンスをくれたら、掴むしかないのです。私は戦いたいし、学びたい。自分のやることに全力を尽くしたいのです。
コソボとはまだどんなつながりがありますか?
私が離れた国はスイスほど発展していないかもしれませんが、それでも独自の魅力があります。過去25年間で状況は大きく変わりました。祖母が亡くなってからつながりが薄れ、拠り所を失いました。
«私は何が何でもお金を追い求めているわけではなく、本当に私を突き動かしているのはこの仕事への情熱です。ただ、お金があれば新しい機械を買うこともできますし、新しい才能を見つけられる。より多くの夢を実現できます»
レジェップ・レジェピ、独立時計師
今ではコソボをあまり自分の故郷だと思わなくなり、それを受け入れるのが辛いこともあります。ですが、私の仕事がコソボで認められていることは知っていますし、私が実現できたことを誇りに思ってくれる人たちがいます。少し気恥ずかしいです。
数万フラン、数十万フランの高級品を販売していますが、お金に対する考え方は?
私のお手本は父です。レストランで働き、収入は高くありませんでした。毎朝5時半に起きて長時間働いていましたが、愚痴をこぼしたことは一度もありません。いつも笑顔で仕事に行き、お客さんに会うのを楽しみにしていました。
私は何が何でもお金を追い求めているわけではなく、本当に私を突き動かしているのはこの仕事への情熱です。ただ、お金があれば新しい機械を買うこともできますし、新しい才能を見つけられる。より多くの夢を実現できます。
20年後のアクリヴィアは?
技術革新と専門知識に満ちた、美しい時計を作る小さな会社になっているでしょう。アクリヴィアが成功モデルになり、他の人たちが私たちのような道を歩みたいと思ってくれることを願っています。
編集:Balz Rigendinger、仏語からの翻訳:由比かおり、校正:大野瑠衣子
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