スイス連邦工科大学附属図書館に保存されている写真コレクションの中でも、ヴァルター・ミッテルホルツァー(1894~1937年)による写真は最も有名なコレクションの一つに数えられる。しかし、彼がスイスの航空パイオニアの一人に数えられ、スイス航空(現在のスイス・インターナショナル・エアラインズ)の創立者であることを知る人は今や多くない。
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1965年スイス生まれ。チューリヒで写真を学んだ後、1989年からフォトジャーナリストとして活動。1990年、スイス人カメラマンの代理店Lookat Photosを設立。世界報道写真財団(オランダ)の世界報道写真コンテストを2度受賞したほか、スイスの奨学金を多数獲得。その作品は多くの展覧会やコレクションで紹介されている。
スイス東部の町、ザンクト・ガレンのパン屋の息子として生まれたミッテルホルツァーは、ギムナジウム(中等教育)を終えた後チューリヒに引っ越し、そこで写真の技術を学んだ。早くから野望を抱いていた彼は、実家のパン屋を継ぐ気はなかった。
実業家としての才能があったミッテルホルツァーは、スイスの初期のプロペラ機に乗り込み、国内の村や町、工場の写真を撮影して、それを住民、行政機関、工場主などに販売した。やがて彼は国境を越え、ノルウェー領スピッツベルゲン島で調査を行っていた極地探検家ロアール・アムンセンの元へ飛ぶことになる。それから1年後、今度はペルシアに向けてプロペラ機を飛ばし、その際に新たな飛行ルートを開拓。そして、「スイス号」でのケープタウンへの飛行で一躍有名になる。
このプロペラ機には、現地の熱帯気候にも耐えうる特別なカメラと小型カメラがそれぞれ2台積まれていただけでなく、現像室までもが作り付けられていた。まさに「空飛ぶ暗室」だ。ミッテルホルツァーの撮影隊が描く被写体のイメージははっきりしていた。野生動物、踊る人々、上空からの景色だ。
しかし、彼らは上空からだけでなく地上でも撮影を行った。チャド湖への飛行の際、当時英国の植民地だったナイジェリアのカノに立ち寄ったミッテルホルツァーは、次のようにメモしている。「滞在中、仕事の合間にはいつもカメラを携えてシャッターチャンスを探した。生き生きとした瞬間を捕らえるために、職人が集まる路地や市場を歩き回った」。撮影隊は古典的な民族誌的視点だけに留まらず、日常のワンシーンを捉える、当時台頭し出したフォトジャーナリズム的な視点も備えている。
(独語からの翻訳・説田英香)
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戦争のない戦争
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スイス人写真家マインラッド・シャーデさんは、戦争の前後に争いのあった場所周辺へと向かい、その傷跡を記録した。新しく出版された写真集「Krieg ohne Krieg(戦争のない戦争)」の作品は現在、ヴィンタートゥールにあるスイス写真基金の展覧会でも公開中だ。
戦争は土地に爪痕を残し、人々の心に傷を残し、その傷は後世に語り継がれていく。その記憶の多くはあいまいだが、そこにシャーデさんが探し求めるものがある。戦地へ行かない戦争写真家。シャーデさんは自身をそう名乗る。
2003年からシャーデさんはソビエト崩壊後に独立した国々の、戦争と平和の間で揺れるもろく壊れやすい日常生活を記録し続けた。チェチェン共和国の破壊された建物、イングーシ共和国で暮らす故郷を追われた人々、カザフスタンの核実験がもたらした被害、そしてナゴルノ・カラバフでの境界線をめぐる対立や、ロシアとウクライナでの追悼式やパレードを写真に収めた。
少なくとも最後の2作品を鑑賞する頃には、この写真集のテーマが現在でも重要性を帯びているとわかる。人物、道路、風景の写真は「対」になっていたり、連続して並べられたりしている。そうすることで未解決の争いがもたらす影響がはっきりと浮き上がる。
シャーデさんは、「もう写真が大きな影響力を持っているとは思っていない。だが、ずいぶん前に終わったと言われていても、そこにはまだ戦争の影響があり続けていること。またいかにして、人々がすぐに再び戦争状態に陥ってしまえるかということ。これらのことを、私の写真を見た人々が気づいてくれれば、それで十分だ」とインタビューに答えている。
(写真・Meinrad Schade 文・Thomas Kern、swissinfo.ch)
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ゲストハウス主人が50年撮り続けた、懐かしいあの日
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オプヴァルデン州ザクセルン出身のアルフォン・ローラーさん(1925~98年)はその生涯のうちに、ゲストハウスの主人、合唱団の一員、消防隊長、羊飼育農家の会長を務めただけでなく、写真家としても50年以上にわたり写真を撮り続けた。2カ国語で編集された写真集「Heimat. Chez soi(故郷)」には、ローラーさんが住んでいた村の暮らしや出来事が記録された「懐かしいあの日」の写真が収められている。
ローラーさんの孫で編集者のハインツ・アンダーハルデンさんは、写真集を出版するに至った経緯を序文でこう振り返る。「祖母の戸棚の整理を手伝った時に、15年もの間、誰の目にも触れず戸棚の中で眠っている写真のネガを見つけた。祖父が残したこのネガを少しずつデジタル化し、最終的にその数は1万4千枚になった。『宝物を見つけた!』と思った」
「私の幼少期の記憶にある祖父は、いつもカメラを手に持っていた。祖父はいつも人生に喜びを感じながら生きていて、彼にとって写真を撮るという行為は、まるでその『喜び』を形として残しておきたいがための行為のように見えた。(中略)彼が撮った写真は、地元の人間だからこそ撮れたものや、撮影が許されたものが多い。この写真集に収められた写真は、育った土地や文化背景に関係なく、写真集を手にした人々全てに懐古の情を起こさせ、また各々の記憶や思い出を甦らせるきっかけとなるのだ」
(文・写真集「Heimat. Chez soi」/Scheidegger & Spiess出版より抜粋 独語からの翻訳・大野瑠衣子)
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