「海を飛ぶ夢」「PLAN 75」…安楽死の議論に影響与えた文化芸術、スイスの研究者がアーカイブに
自殺ほう助や安楽死を題材にした映画や書籍が社会的・政治的議論を引き起こすことは珍しくない。安楽死の合法化を後押ししたケースもある。スイスのある研究プロジェクトが、そうした映画、書籍、その他のメディアコンテンツを分析・リスト化したアーカイブを作った。
安楽死をテーマにした著名な映画の1つが、スペイン人ラモン・サンペドロさんの半生を描いた「海を飛ぶ夢」(2004年)だ。船員だったサンペドロさんは25歳のときに事故で首から下が不随になり、長い間寝たきりの生活を送った。1990年代に安楽死の権利を求めて裁判を起こし訴えは認められなかったが、1998年に第三者の手を借りて命を絶った。
「海を飛ぶ夢」は2005年の米アカデミー賞国際長編映画賞(外国語映画賞)を受賞。興行収入は4300万ドル(約67億円)と大ヒットした。スペインでは映画化などをきっかけに死の権利を求める世論が高まり、2021年に積極的安楽死を合法化した。
立法プロセスで引用される芸術
安楽死の物語は、人の記憶に強く残る。だが文学や映画は実際、社会や政治にどれだけの影響を与えているのだろうか。
スイスのザンクト・ガレン大学の研究プロジェクトは、まさにこの点に着目した。プロジェクトのウェブサイト「Assisted Lab’s Living Archive of Assisted Dying外部リンク(アシステッド・ラボの安楽死に関する生きたアーカイブ)」では、安楽死・自殺ほう助に関する作品を世界中から集めリスト化し、それぞれの作品がいつ、どのような形でメディア、司法、政治の議論に引用されたかを紹介している。
現時点は約60点の作品がリストに掲載されている。しかしプロジェクトを率いるアンナ・エルスナー同大准教授(フランス文化研究・医療人文科学)は「350点が今手元にある。順次アーカイブに加える予定だ」と話す。
これほどの規模になったことに、同氏自身も驚いたという。「欧州研究評議会にプロジェクトの補助金申請をしたときは30作品しかなかった」
文化・芸術作品は常に政治的議論の副産物とみなされる、とエルスナーさんは言う。「とはいえ、その影響力はとても強い。芸術が立法過程で積極的に引き合いに出されるケースが、ここ10年で増加した」
その一例が、フランス人官能小説家アンヌ・ベールさんのケースだ。人生半ばで筋萎縮性側索硬化症(ALS)と診断されたベールさんはフランスで法改正を求める運動を起こし、2017年の安楽死合法化法案の草案づくりに関わった。しかしこのときは、安楽死の合法化には至っていない。
ドキュメンタリー映画「J’ai décidé de mourir外部リンク(仮訳:死ぬことを決めた)」は、亡くなる直前のベールさんを追った作品だ。ベールさんはベルギーで自殺ほう助により亡くなったが、その数日後に著書 「Le tout dernier été(仮訳:最後の夏) 」が出版された。自死という自己決定権を声高に叫ぶ嘆願書とも言える作品で、ベールさんの死後、彼女の物語と芸術的再評価はフランス議会で頻繁に取り上げられた。
非西洋文化圏にも波及
このアーカイブは主に2000年以降、欧米で製作されたコンテンツが収められている。しかし他の言語や文化圏の作品もアーカイブに加えようと、4人の常勤スタッフでつくるプロジェクトチームは新たにフリーランスのスタッフを採用した。
アーカイブには、75歳以上が自ら生死を選択できる近未来の日本を描いた「PLAN 75」も入っている。
安楽死は今や西洋文化圏だけのテーマではない。エルスナーさんは「潮流は変わった。昨年、あるインド人アーティストがチューリヒで自殺ほう助により亡くなったが、その自死に同行したインド人映画監督とコンタクトを取った」と話す。
研究グループは昨年11月、ペルーの弁護士ホセフィナ・ミロ・ケサダ・ガヨソさんをゲストに迎えたポッドキャスト番組を配信外部リンクした。安楽死の権利を求める同国初の訴訟を担当し、勝訴した人物だ。ミロ・ケサダ・ガヨソさんは、この問題と向き合う中で映画が非常に重要な役割を果たしたと語った。
エルスナーさんは、自殺ほう助に対する芸術のアプローチは、政治的・社会的な議論とは異なり、相反する価値観を包摂すると話す。「芸術は、安楽死したいという願いをサポートする裏で、親族が抱える苦しみも描く」
芸術はアンビバレンスさを求め、法律はそれを克服することを目指す。だがアーカイブはあくまでも中立な立場を堅持する。リサーチ用の資料置き場に徹し、どちらかの立場をことさら支持するようなことはしない。
芸術は意図しない政治的議論に帰結することもある。2003年のカナダ映画「みなさん、さようなら」(アカデミー賞国際長編映画賞受賞)は、主人公が最後に致死量のヘロインを注射されて亡くなる。
それから10年以上の時を経て、カナダは積極的安楽死を合法化した。この映画は、繰り返し政治的議論の中で取り上げられたが、必ずしも死ぬ権利を訴える材料としてではない。むしろ過酷で非人道的な公的医療制度を描いている点だった。
スイスとサルコカプセル
スイスの近年の安楽死議論は、主にデス・ツーリズムの論点が目立つ。
病気の夫と一緒に死にたいという健康な女性の自殺を手助けしたとして罪に問われたジュネーブの医師ピエール・ベックさんの裁判は、国内メディアの注目を集めた。連邦最高裁判所は昨年3月、自殺ほう助が犯罪となるのは利己的な動機に基づく場合にのみ、として無罪判決を下した。この件で、自殺ほう助に対するスイスのリベラルな立場が改めて浮き彫りになった。
アシステッド・ラボのプロジェクト・メンバーであるマルク・ケラーさんは、この一件をもとに、「愛を理由にした安楽死は認められるべきか」について論じた本外部リンクを昨年11月に出版した。
スイスでは昨秋、シャフハウゼン州で自殺カプセル「サルコ」を使った世界初の自殺ほう助が行われた。これを機に、スイスでは自殺ほう助に関する議論が再燃した。サルコはスイスで行われている医師介入型の手法とは異なり、カプセルの中に入ってボタンを押すだけで死ぬことができる。医師は事前の精神鑑定を除き介入しない。
「ここでの論点は自殺ほう助に医療従事者を介入させるべきか否か、ということだ」とエルスナーさんは言う。スイス人作家ヴィンセント・ゲルバーが2016年に出版した短編「SuissID(スID)」(短編集「Futurs insolites外部リンク」収録)は、電話による自殺ほう助サービスを描いている。自殺ほう助を希望する人は、ニーズや予算に応じて、カタログから好きな方法を選べる、というものだ。
このディストピア的な物語は、自殺ほう助の商業化に焦点を置くが、それと同時に先進国が抱える現状の複雑さも捉えている。スイス、ベルギー、カナダなどは、「死の権利」に対するリベラルなアプローチがどこまで許され、どの時点で自殺ほう助が自殺推進に変わるのかという問題に直面している。
編集:Balz Rigendinger、独語からの翻訳編集:宇田薫、校正:大野瑠衣子
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