みんなも応援しよう! 全長2000キロの国境を歩く旅
IMAX社のヒット映画作品「 The Alps~挑戦の山~ 」の主人公ジョン・ハーリン3世が、世紀の冒険を開始するためにスイスに帰ってきた。今回の冒険では、アイガー登攀が易しく見えるかもしれない。
「約2000キロメートルあります。しかし、登り下りを考慮するとおそらくもっとあるでしょう」と広げたスイス地図を前にハーリン3世は語った。
バーチャルスイスの旅
アメリカ人の熟練登山家で作家のハーリン氏は、スイスの国境の全長を自力で歩いて辿る3カ月間の冒険に旅立った。この冒険の構想は、スイス国境の「目と鼻の先」を歩き続け、物資を供給するときに村へ立ち寄るというものだ。
ハーリン氏を待ち受ける挑戦は大きい。上には凍てつく標高4000メートル級の山頂の連なり、下には音を立てて流れるライン川、そしてジュラ山脈の穏やかな峰々と、ハーリン氏は山を登り、川ではボートを漕ぎ、汗を流す。そして数週間後には、6月23日に出発したヴァレー/ヴァリス州のレザン( Leysin ) へ反時計回りで戻ってくる予定だ。
「山にいるときが一番くつろぎます。そしてスイスは山の本場です。わたしはずっと長い間この旅をしたいと思っていました」
旅の途中でハーリン氏は、登山家仲間、科学者、歴史家やそのほかの人々に ( もしかしてあなたにも ) 会って話を聞き、スイスを一つにまとめている地理的、政治的、文化的な国境から国を観察し、その姿を正確にそして繊細に描く予定だ。
読者はハーリン氏の動向をwww.swissinfo.ch/harlinで追いかけることができる。ハーリン氏は、レポート、写真、短いビデオを毎日送り、それらをいつどこで撮影したか地図上に正確にタグを付けるために、スマートフォン3台、予備の電池、ソーラー式充電機、HDカメラなどの小道具を多数持参する予定だ。GPS搭載のスマートフォンのおかげで、彼がどこにいるか読者はほとんどいつでも知ることができる。
「ジョンは、最高のスイス大使です」
と今回の旅の手配に協力したスイス観光局のローランド・バウムガートナー氏は語った。
「彼のレポートを見た人々は、この素晴らしい景色の観光に訪れようと思うようになるでしょう。ドン・デロン ( Dent d’Hérens ) の上やマッターホルンなどではなく、ゴルナーグラート ( Gornergrat ) のような場所に電車で登って景色を楽しむかもしれません」
素晴らしい冒険
現在54歳のハーリン氏は、冒険旅行やスイス訪問を全くしたことがないわけではない。1966年にハーリン氏の父親がスイスで挑戦した冒険は、彼の人生を変える出来事となった。
のちに出版され、IMAX社の映画にもなったこの物語は、ハーリン氏が子ども時代を過ごしたヴォー/ヴァリス州のレザンの家から始まる。1960年代初期にハーリン氏の母親にレザンのインターナショナルスクールで教える話が舞い込んだ。一方、ドイツのアメリカ空軍基地で働いていた父親のジョンは、アルプスを大胆なルートで登攀した有名人だった。
「一度『スイス、ジョン・アイガー』と宛名書きされたハガキを受け取ったことがあります。少年たちにとってここに住むことは夢でした。父はわたしをマッターホルンへ連れて行きたいと思っていましたが、それは実現しませんでした」
ハーリン氏が9歳の時、父親はアイガー北壁の最も難しいルートに挑んだが、ロープが切れたため、転落して死亡した。それから約40年後にハーリン氏は、同じルートを登るために映画の撮影隊とともにスイスへ戻ってきた。
ハーリン氏の映画は、素晴らしい風景とストーリーでヒットした。彼は過去数年間、映画のプロモーションのために世界を飛び回った。しかし、山の頂上で俳優が演じ、何回も再上演された映画とは異なり、スイスインフォの国境物語の旅は100パーセント本物だ。
「今回はあまり個人的でないストーリーを伝えることを楽しみにしています。これは実に優れた中身の濃い冒険です」
早く、そして軽く
間もなく出発予定のハーリン氏は、今回のような冒険に必要となる所持品の山の中から本当に必要なものを選別するのに忙しい。レザンの友人が提供してくれた居間の床は、ピッケル、アイゼン、超軽量級のテント、キャンプ用コンロ、電気量販店よりも沢山の電子機器で覆われている。
「わたしはここに来る前に、メキシコの自宅の裏山でトレーニングを積んできました。標高3000メートルまで登って、非常に鍛えられました。ところが重さ35パウンド ( 約16キロ ) 相当のバックパックを背負ったとたんに、どこへ行くにも2倍時間がかかるようになってしまったのです。軽くしなければなりません。本当に軽く」
また、これからハーリン氏には難しい時もあるだろうが、忍耐強くなければならない。嵐が来ることも、必需品が底を突くことも、太陽が出ない日もあるだろう。食料や水の供給に村まで降りてくるために1日以上かかることもあるかもしれない。
吹きさらされた山の頂上に立ち、登攀を待つ峰々の波を見渡すときが一番幸せな男のように、ハーリン氏の顔には深いしわが刻まれている。しかし、彼のようにアウトドア活動の経験が豊富にあっても、今回のプロジェクトには数多くの挑戦が待ち受けている。
地理的な挑戦は、イタリアとグラウビュンデン州の間をつなぐブレガリア ( Bregaglia ) のようなむき出しの尾根を安全に進まなければならないことだ。シャフハウゼン近辺には、くねくねと曲がり、来た道を逆戻りさせられるような国境がある。また、ハーリン氏はドイツ語を忘れてしまった上、フランス語よりスペイン語がうまく話せるという問題もある。
しかし最も難しいことは、妻と14歳の娘と長い間離れ離れになることだ。ハーリン氏は
「二人はこれをくれました」
と言って小さな防水性の缶を開けた。中には小さな紙が沢山入っていた。
「それぞれに番号がふってあって、毎週それを順番に読むことになっています」
ハーリン氏は早く缶を開けて、最初のメッセージを読みたいと待ちきれないようだ。そこにはまさに父親や夫が聞きたいと思うような言葉が書いてある。
今のところホームシックにかかる暇はない。朝になったら、陰りつつある地平線に向かって歩きだす予定だ。
「この旅は面白くなるでしょう」
とハーリン氏は言った。そして彼はそうするつもりだ。
ティム・ネヴィル 、レザンにて swissinfo.ch
( 英語からの翻訳、笠原浩美 )
現在のスイスの国境に越えられないものはない。スイスの国境は、異種の言語と宗教、そして地理上の異なる地域を横断する。
1798年から1815年にかけて国境線に多数の変化があった。
1798年、都市ジュネーブはフランスのミュルーズと同盟を結び、フランスに編入された。1802年には、フランスが介入し、ヴァリス/ヴァレーがヘルヴェティア共和国から切り離され独立国となり、1810年、フランスのシンプロン県に編入された。
ヴァリス/ヴァレーにはグラン・サン・ベルナールとシンプロンという二つの峠ルートがあったため、フランスにとって重要な地域であった。
同じように盟約者団にも領地が増えた。以前はオーストリアの領地だったフリックタール(バーゼルの東部、ライン川沿いの地域)は、1799年フランスに占領され、その後盟約者団の領地となった。フリックタールは調停法が施行されるまで主権を持った地域だったが、アールガウに編入された。フリックタールは現在もアールガウ州の一部である。
オーストリアとフランスは、1799年から1800年にかけてグラウビュンデンを巡って争った。1801年、フランスが最終的にグラウビュンデンを獲得し、スイス盟約者団の16番目の邦とした。1797年にナポレオンが統合したチサルピナ共和国の領地は、スイス盟約者団に返還されなかった。
( 出典:スイスワールド )
スイスとイタリアは岩と氷で形成された国境で隔てられているため、科学者は気候の変動が独特の影響を及ぼすと考える。
スイスとイタリアの間の750kmの国境線の約10%は、両国を隔てる尾根の高い部分を目印として制定されたが、氷が解けて尾根の形が変わった場合、国境線も変化することになる。最長100mも移動する地点が数カ所あるとスイストポ ( Swisstopo / 連邦地理局 ) は予測する。
スイストポは国境を書類上で決定したが、現在の地図上の国境線を実際の地理的座標に一致させなければならない。
氷河の後退に伴い国境も変更されなければならないが、現時点まで変更は実施されていない。
スイスの地形学サービスのダニエル・グートクネヒト氏は、岩の表面が露出し始めたため、スイストポは新たな国境を決めるために必要となる恒久的な地点を定めることができると指摘する。
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