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オリンピックに挑戦する難民アスリート 

トレーニング中のハブトム・アマニエルさん
トレーニング中のハブトム・アマニエルさん SWI swissinfo.ch

スイスに住む2人の難民アスリートが「難民選手団」の一員としてパリ五輪出場を目指している。難民選手団は2016年のリオ五輪時に創設され、10人が出場。21年の東京五輪には29人が出場した。 

スイスに来る前のハブトム・アマニエルさん(33)にとって、五輪は雲の上の存在だった。エリトリアで12人の兄弟と育ち、プロアスリートになることは手の届かない夢に思えた。 

「ランナーになりたいとは思っていましたが、私の住んでいたのはとても小さな村で、そのようなシステムはありませんでした。クラブもなければ、コーチもいなかったんです」と振り返る。「主なランニングは学校に行くことでした。片道10キロメートルの」 

軽量のランニングギアを身に着け、受け入れ先のスイス・ヴォー州にあるトレーニング施設でswissinfo.chの取材に応じたハブトムさん。スイスに移り住んで以来、状況は変わったという。 

パリ五輪出場を目指し、スイスを拠点にトレーニングに励む難民アスリートはハブトムさんのほかに3人いる。五輪まであと2カ月。国際オリンピック委員会(IOC)の難民選手団として出場し、故郷スイスにメダルを持ち帰りたいと思っている。 

10代でアスリートの道に 

ハブトムさんがトレーニングを始めたのはスイスに到着してからだが、難民アスリートたちの多くは、出身国ですでにスポーツ選手として活躍した経歴を持つ。 

シリア出身のバドレディン・ワイスさんは、14歳のときに初めてアレッポの地域自転車競技大会に出場した。7人兄弟の末っ子であるバドレディンさんがサイクリングを始めたきっかけは家族だったという。 

「兄の自転車を拝借したんです」。スイスの首都ベルンの静かな通りにあるカフェで、33歳のバドレディンさんは苦笑まじりにそう話す。「時々、兄とはけんかになりました」 

18歳の時、シリアのジュニアライダーとして初めて世界選手権に出場。その功績が認められシリア代表入りした。「僕の夢はオリンピックに出てプロになることでした」と言う。しかしその夢は、2011年以来シリアで続く内戦によって断たれた。 

バドレディン・ワイスさん。自分の自転車と
バドレディン・ワイスさん。自分の自転車と SWI swissinfo.ch

亡命を余儀なくされる 

民主化と政権交代を求め、広場を埋め尽くした民衆の抗議行動「アラブの春」は北アフリカと中東を席巻した。シリアでは抗議デモは暴力的に鎮圧され、国はほどなくして内戦状態に陥った。 

バドレディンさんの友人たちの中には命を落としたり、あるいは軍隊に入隊させられたりする人もいた。誇りに思っていた代表団の半数が殺された。「同じ年、同じ夢、同じ情熱……そういう人たちが死んだと突然、聞かされたんです」 

バドレディンさん自身も紛争の被害を受けた。内戦の戦闘員たちが2014年、バドレディンさんが大学通学で利用していたバスを攻撃したのだ。それがきっかけでバドレディンさんは国を離れることを決めた。国境を越えてレバノンに入り、トルコ、ギリシャを経由してスイスに向かった。 

ハブトムさんの場合は、エリトリア政府の抑圧的な政策が理由だった。強制的にエリトリア軍に入隊させられたハブトムさんは、軍隊内の腐敗について上官に質問し、無期限の刑務所収監の身となった。「出口はなかった。ここで死ぬか、ここを去るか、どちらかだと感じました」 

辛くもエリトリア兵の手を逃れ、徒歩で3日間かけて国境を越えスーダンに入った。そこからヨーロッパに向かった。 

旅は往々にして危険を伴う。違法な密入国業者たちが、さまざまな噂を頼りにハブトムさんやバドレディンさんのような難民を見つけ出し、報酬と引き換えに国境越えを手助けする。 

国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)スイス・リヒテンシュタイン事務所代表のアンニャ・クルグさんは「時として人命の代償を伴う残忍なビジネスになる」と話す。ブローカーたちは、難民の命よりも自身の財布の中身を気にするからだ。 

「彼らは銃を持っていて、話せば撃たれる」とハブトムさんは振り返る。国境越えの密輸車両から、一緒に旅をした何人かが引きずり出され殺されるのを見た。 

新しい人生 

ジュネーブ空港を発った怪しいほど静かな列車の中でバドレディンさんが最初に目にしたのは、レマン湖を眼下に空へ向かって伸びるアルプスの峰々だった。ギリシャから空路でスイスに入り、ローザンヌへ。自転車競技のキャリア初期にできたシリア人の友人宅に身を寄せる旅程での出来事だった。 

当初はベルギーでの定住を希望していたが、すぐにスイスでの難民申請を決めた。スイスの秩序と清潔さ、中立性と平和への評判に惹かれたからだ。 

数カ月の旅を経て、彼は定住先を見つけた。「新しい人生の始まりだった」 

安全な国にたどり着いたという当初の高揚感は大きかったが、試練は終わらない。難民の多くは厳しい難民申請制度に直面し、全員が新しい国での生活に適応しなければならない。 

最大の難関の1つは、新しい言語でのコミュニケーションを学ぶことだ。4つの公用語があり、さまざまな方言が存在するスイスではそれが特に難しい。 

このような状況で、スポーツは難民がホスト国に溶け込んで言語を学び、自律の感覚を取り戻すための貴重な手段となり得るとUNHCRのクルグさんは説明する。 

当初、フランス語もドイツ語も話せなかったバドレディンさんは、すぐに小さなアマチュアのサイクリングチームに参加した。「サイクリングはとても助けになりました。毎日スイス人と一緒に過ごし、1時間か2時間は話していました」。スイス・ドイツ語の方言ですらすらとそう説明する。「国やルール、そして言葉さえも、どんどん理解できるようになったんです」 

スイスからパリ五輪を目指すハブトム・アマニエルさん
スイスからパリ五輪を目指すハブトム・アマニエルさん SWI swissinfo.ch

ハブトムさんは、ランニングを通じて地元の人たちとつながった。スイス人のアスリートとコーチが立ち上げたランニング・グループには、難民や地元の人たちが頻繁に訪れていた。「そこで多くの人と知り合うことができました。スイスでの社会生活にとても役立っています」と話す。 

グループのサポートにより、ハブトムさんのランニング技術は着実に上達した。夢は、昔と変わらずオリンピックに出場すること。しかし、ある障害が立ちはだかった。 

チーム探し 

国際オリンピック委員会(IOC)難民選手団のマネージャー、ゴンサロ・バリオさんによれれば、五輪に出場するためには、アスリートはどこかの国を代表しなければならないと説明する。そのためハブトムさんやバドレディンさんのような難民は、宙ぶらりんの状態に陥った。 

スイスに逃れた彼らは、出身国の代表にはなれない。正規難民ではあるがスイス国民ではないため、スイス代表にもなれない。「彼らのスポーツキャリアはそこで止まってしまう。これは本当に問題だった」とゴンサロさんは説明する。 

それを解決するためにできたのが、難民選手団だ。2016年に創設された難民選手団は、難民アスリートが五輪の舞台で戦うことのできる史上初の試みだった。 

その後、IOCの難民オリンピック財団(ROF)、財団による難民アスリート奨学金が設立され、ハブトムさんやバドレディンさんを含む世界中の70人の奨学金保持者に、トレーニングや生活費として毎月1500ドル(約23万円)が支給されることになった。 

IOCの本拠地ローザンヌのオフィスから取材に応じたゴンザロさんは、「目指したのは難民に精鋭集団のなかで競技する機会を与え、世界中の何百万人もの難民や避難民を代表し、鼓舞することでした」と語る。 

2016年のリオ五輪では、IOCによって世界中から10人の難民アスリートが難民選手団として出場。4年後の2020年東京五輪の開会式では、29人の難民アスリートが行進した。そのうちの1人がバドレディンさんだ。パリ五輪に何人の選手が難民選手団として出場するのか、まだ発表されていない。 

バドレディンさんは、自転車競技の男子個人タイムトライアルで38位に入賞。五輪に出場した史上2人目のスイス拠点難民となった。「家族も友人もとても誇りに思ってくれました。とても特別な思いでした」と言う。 

バドレディンさんは国外に逃亡し、政府から義務付けられた兵役から逃れたことでシリアで指名手配された。逃亡してからの数年間、家族の大半に会えなかった。父親は彼がスイスに到着したときに他界した。「私の望みは、父が隣にいて、『やったぞ、オリンピックだ』と言ってくれることでした」と語る。 

「サイクリングはとても役に立った。毎日スイス人と一緒にいて、1時間でも2時間でも話していました」と、バドレディンさんはスイスドイツ語の方言で説明する
「サイクリングはとても役に立った。毎日スイス人と一緒にいて、1時間でも2時間でも話していました」と、バドレディンさんはスイスドイツ語の方言で説明する SWI swissinfo.ch

改善は続く 

IOCの支援はあるが、難民アスリートは依然、困難に直面し、場合によっては特定の競技への参加を禁じられることもある。 

オリンピックを運営するのはIOCだが、各競技を統括し、小規模な国際大会を組織する独立したスポーツ連盟も存在する。 

IOCが承認する42の国際スポーツ連盟のうち、難民の出場が明確に認められたカテゴリーを有する団体は現在13しかない。 

そうでない連盟が運営する小規模大会に難民アスリートが参加することは不可能だ。そのため、難民選手は不利な立場に置かれている。 

より高いレベルで競うためには、より低いレベルで競うことも必要だとバドレディンさんは指摘する。小規模な大会に参加することで、選手たちはトレーニングを積み、経験も得られる。それが最終的にオリンピックの舞台での成功につながるという。 

たとえ出場がかなっても、難民選手は開催国への入国を拒否されることがある。これは政治的な理由や、国境警備隊が彼らの難民資格を理解できずに追い返すことがあるからだとゴンザロさんは説明する。 

ハブトムさんとバドレディンさんはIOCの支援に心から満足しているが、奨学金だけでは完全なプロ選手としてトレーニングにいそしむことはできないという。 

毎日のトレーニングの傍ら、ハブトムさんは住宅塗装の仕事をし、バドレディンさんは週に1日、中世の面影を残すベルン旧市街のスポーツショップで働く。 

とはいうものの、バドレディンさんはこの資金援助によって、よりサイクリングに集中できるようになったと言う。彼は現在、リヨン拠点のチームで定期的にトレーニングを積み、スイス代表チームと協力して大きな大会に参加している。 

また、資金援助によってさまざまなレースに参加できるようになり、最近ではグラスゴーで開催されたサイクリング世界選手権の混合チームリレーで14位に入賞した。 

ハブトムさんにとって、パリ五輪出場は究極の夢の実現だ。「日がな夢見ていることです。そのことばかりを考えています」と微笑む。「最大の目標です。何が何でもかなえて見せます」 

編集部注:この記事は英語版(原語)で4月に配信された記事です。現時点で、パリ五輪難民選手団にはこの2選手の名前は入っていません。

編集:Virginie Mangin/ds、英語からの翻訳:宇田薫、校正:ムートゥ朋子 

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