スイス四つ目の言語 – ロマンシュ語
「アレグラ(Allegra)!」— 「あなたの幸せをお祈りします」という意味の挨拶を目や耳にしたら、あなたはロマンシュ語を話す地域にいる。ローマの時代からアルプスの山間部で話されてきた言語で、国の言語として認められているのはスイスでだけ。母語として話す人数は減る一方で、ユネスコの消滅危険度評価では「危険」と位置づけられている。今日は、この言葉を話す地域に住んで、言葉を守りたい人たちの想いと葛藤に触れて思った事を綴ってみたい。
私の住むグラウビュンデン(Graubünden / Grigioni / Grischun)州では三つの言語が使われている。ドイツ語、イタリア語、そしてロマンシュ語である。今日取り上げるのは、そのロマンシュ語。私は、スーパーマーケットで、同僚の電話での会話で、それから旅先などで耳にする機会もかなり多いのだが、イタリア語に似た響きを持つ、けれど明らかに別物の言葉である。日本ではまず耳にする機会はないので、どのような言葉か知りたい方もおられるのではないだろうか。ここでロマンシュ語の挨拶をご紹介しよう。こんな感じだ。(後述するロマンシュ・グリシュン語)
こんにちは! bun di!
こんばんは! buna saira!
おげんきですか? co vai?
楽しんでくださいね! bun divertiment!
お休みなさい! dorma bain!
さようなら! sta bain!
今、私が身近でロマンシュ語の会話を聴いていて面白いと思う事の一つは、途中に語幹や文法の似ているイタリア語ではなく、ドイツ語の単語が混ざる事だ。ローマ時代からある観念や物事については独自の単語を持っているのだが、その後にできた観念や新製品はドイツ語から取り入れているのだ。それは日本語における外来語と似ている。
以前ブログに書いたように、ローマ帝国の属州であった頃に公用語として使われていたラテン語は、アルプスの山間部に残り独自の形で変形し現在のロマンシュ語となった。と、言っても「NHK標準日本語」や「正規ドイツ語」のような正書法のはっきりした言語となったわけではなく、まずは村々でそれぞれの口語が発展した。これはどの言語でも同じで、たとえばドイツ語も全ドイツの正書法が定められるまで、それぞれの国や地域で少しずつ異なった形で使われていた。この正書法は、ルターが彼の地域の方言ではじめて出版したドイツ語訳聖書が基本となっている。
宗教改革の時代にはロマンシュ語もただの口語としてではなく、書き言葉として主に五つの形に発展した。「イディオマ ( Idioma ) 」と呼ばれるそれらは一般には方言とされているが、独立言語と言った方がいいかもしれない。他の言語と大きく違ったのは、それぞれを話す人びとの数が極めて少なかった事だ。加えて、かなり近年になるまでこの地域に住むドイツ語を話す人びとの圧力で教育が制限されてきた事情があった。家ではロマンシュ語で話していても、学校に入るとドイツ語での授業となり、読み書きはドイツ語の方が得意という人が多くなってしまったのである。
かくしてロマンシュ語の存続が危ぶまれるようになり、グラウビュンデン州とスイスは近年になってからロマンシュ語の保護政策を打ち出した。この言語を話す地域での小学校教育をロマンシュ語で行う事になり、公共放送や教育メディアなどを設立するにあたって五つのイディオマから少しずつとって作った人工の書き言葉ロマンシュ・グリシュン語 ( Romansh Grischun )を作り、それを公用語に定めたのである。1982年の事だった。現在でも、これが教科書や公共放送や新聞などで使われているのだが、すこぶる評判が悪い。なぜなら寄せ集めの言語で、この言語を家庭で話している人は一人もいないからだ。つまり、私が上で書いたような挨拶は、正確には人びとの口からは出ていない。イディオマごとの別言語を保存しようとする「プロ・イディオムズ ( Pro Idioms ) 」という動きもある。
実際には、ドイツ語圏でも正書法と普段話している言語は一致していない。スイス方言のドイツ語は私にとってはドイツ語と似て非なる別言語のようなもので、ドイツ人でも意味が分からない人がたくさんいる。けれど、新聞や役所の通達などはすべてドイツで使われているのとほぼ同じドイツ語で行う。あまりに方言が多く、地方分権の好きなスイスといえどもいちいち正書法など煩雑で作っていられないからだろう。いずれにしてもそれはかなり昔からそのように定まっているので、今から方言による正書法が必要だという運動は起こらない。
しかし、ロマンシュ語圏ではこれは過去の問題ではなく現在論議中の葛藤なのだ。統一したロマンシュ・グリシュン語を推進する人たちも、イディオマを保存したいという人たちも、根底にあるのは「ロマンシュ語を次世代に残したい」思いである。どちらが正しいのか、どの方向へと向かうかは、今の時点ではわからないし、この言語には詳しくなくさらに異邦人の私には判断のしようもない。願うのは、この言語を残したいと願う人びとの熱意が後世にまで伝わり、地方の独自性を愛するスイスのごとく、この言葉が生き続けていく事だ。
ソリーヴァ江口葵
東京都出身。2001年よりグラウビュンデン州ドムレシュク谷のシルス村に在住。夫と二人暮らしで、職業はプログラマー。趣味は旅行と音楽鑑賞。自然が好きで、静かな田舎の村暮らしを楽しんでいます。
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