手つかずのアルプスの自然を体感 – スイス国立公園
「スイスと言えば自然豊かな国」というイメージがあった。でも、そのイメージにある自然が、人工的なものであったことに気づいたのは、実際に住むようになってからだ。今日は、その見慣れた光景ではなくて、スイス本来の自然を体験できるスイス唯一の国立公園について書いてみたいと思う。
日本に住んでいた頃「スイスの自然」と言われて私が最初に思い浮かべたのは、アルプスの白い山岳を背景に、太陽の光の降り注ぐ牧草地で牛たちがのどかに草を食む光景だった。広い牧草地は視界を遮るものもなく、ずっとむこうまで見渡せる。家畜を夏の間、山岳地で放牧する習慣があるため、かなり標高の高い地域でも、開けた牧草地がたくさん見られる。それは、人の手で変えられた光景だ。人びとが木を切って、森を切りひらき、草を刈って維持している姿なのだ。
自然そのままのアルプスを見られる場所は、今ではとても限られている。主に自然公園として保護された地域だ。その中でも一番の面積を誇るのが、グラウビュンデン州ウンターエンガディン(Unterengadin)にあるスイス国立公園(Swiss National Park / Schweizerischer Nationalpark / Parc naziunal svizzer)外部リンクだ。
1914年8月1日に設立され、昨年百周年を迎えたスイスで最初の国立公園は、現在のところ唯一の国立公園でもある。ツェルネッツ(Zernez)、シュクオール(Scuol)など五つの市町村に属する170.3㎢、標高1400mから3173mまでの森林、草原、そして岩場からなる地域で、およそ100種類の野鳥と30種類のほ乳類などが、野生の状態で生息している。
1908年、スイスの経済成長とともに恐ろしいスピードで進んでいた開発という名の自然破壊に驚異を感じた人びとが、この地域の一部を地主から買い取って自然保護区を設置する計画を立てた。そして、不足する資金を集めるために、スイス自然保護協会(Schweizerischern Bundes für Naturschutz 現在の Pro Natura)外部リンクを設立した。そして、協会は、もっと広範囲の保護区を設けることを連邦政府に要請しスイス国立公園が設置された。
その目的は、自然の保護、研究、そして情報提供である。人為の影響を受けない自然の植生と野生動物を守ることに加えて、既に開発に晒されて変化していた植生が人為の影響を禁じることによってどのように復元しているのかを観察し、これまで知られていなかった野生動物の生態も研究し、その情報を一般市民へとフィードバックしているのである。
国立公園の入口にあたるツェルネッツには国立公園センター(Nationalparkzentrum Zernez)があり、誰でも訪れることができる。
国立公園内には21のハイキングルートがある。国立公園センターでは、ハイキング希望者に地図やルートの情報などを提供し、禁止事項や注意点などを説明してくれる。
さらに、館内には国立公園の活動や、ハイキングでは簡単に見ることのできない動植物の生態について学ぶことのできる博物館「Naturama」がある。四季の動物たちの貴重な映像が大きなスクリーンで常時映写されている他、近くには寄れない野生動物の大きさや生態を実感することのできる展示はとても興味深い。
実際に国立公園に入り、その風景をよく眺めると、見慣れたスイスの山岳地帯とは違う光景を目にすることができる。
例えば、牛や山羊など家畜の姿が見当たらない。鬱蒼とした針葉樹が視界を遮り、すぐそこにあるはずのアルプスの白い峰々もほとんど見えない。他の山間部ではすぐに市町村が片付けてしまう倒木や土砂崩れなどもそのままになっている。
だが、この少し荒々しい光景でも、まだ本当の山林の姿にはほど遠い。そうなるにはまだ何百年という時間が必要だ。一度は絶滅し、イタリアから輸入して放したアイベックスなど、草食ほ乳類の個体数は増えているが、絶滅した肉食ほ乳類がいないので、かつての自然そのままの生態系とは言えない。
ハイキング道以外を歩くことや、ペットを連れて歩くこと、車輪の使用は禁じられている。国立公園に限らず、スイスの自然保護区では野生の動植物を捕獲・採取して持ち帰ってはいけないのだが、ここでは石一つ、枯れ枝一つを持ち帰るどころか、その場所を変えることすら厳禁なのだ。
そんな中で、ここを一般の人びとのハイキング道として開放していることの意味を考えた。人間の出入りや、それに必要な車道の存在は、自然の回復にはマイナス要因のように思える。それでも、あえて人びとを受け入れるのは、、ごく普通の人たちに関心を持ってもらいたいからだと思う。
自然回復のためのプロジェクトは、今でも百年前に立ち上げた人たちの意志を継いで続いている。地味で気の遠くなるような時間のかかる努力だ。そして、今後もずっと続けていかねば意味のないことなのだ。年間15万人ちかくにもなる国立公園の訪問者一人一人がそれを意識して、日常生活においても自然保護を心がけることができれば、それは地球の自然保護の観点ではプラス要因になる。
運がよければ、アイベックスやシャモア、またはマーモットなど珍しい動物を見ることができるが、そうでなくても普段見ているのとは違う風景を見ながら、自然と共生することについて考えるのもいい経験になるだろう。
ソリーヴァ江口葵
東京都出身。2001年よりグラウビュンデン州ドムレシュク谷のシルス村に在住。夫と二人暮らしで、職業はプログラマー。趣味は旅行と音楽鑑賞。自然が好きで、静かな田舎の村暮らしを楽しんでいます。
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