ブール・サン・ピエールという村
2014年の夏は本格的な暑さの訪れがないまま、私の住むヴォー州レザンでは秋風が吹き始めています。太陽不足だった夏を補ってくれる秋になることを期待する今日この頃です。今日は古代からアルプス越えの交通路であった峠道(グラン・サン・ベルナール道路)沿いにあるスイスの村、ブール・サン・ピエールを中心にグラン・サン・ベルナール峠までの道のりを紹介したいと思います。
グラン・サン・ベルナール道路はスイス南西部ヴァレー(ヴァリス)州のマルティニ(Martigny、標高471m)からイタリア北西部ヴァッレ・ダアオスタ州のアオスタ(Aosta、標高583m)までを結ぶ街道で、グラン・サン・ベルナール峠(Col du Grand Saint-Bernard、標高2469m)でスイスとイタリアの国境にあるアルプス山脈を越えます。
この峠越えのルートは、先史時代にすでに存在していた形跡があり、ローマ時代になってからも、ローマ教皇ステファヌス2世(753年)やカール大帝(800年)自身も通ったほか、兵士や商人など多くの人々が往来した峠道であると同時に、イギリスのカンタベリーを起点とする巡礼路「フランシジェナの道(Via Francigena)」が、ローザンヌ(Lausanne)からマルティニを経由して、この峠を越えてイタリアのローマまで続くため、今も昔も巡礼者の峠道でもあります。990年には、カンタベリーの大司教シジェリコがローマ教皇との接見の際にこの道を通り、この巡礼路についての紀行文を書きました。
中でも1800年のナポレオンの峠越えは、その規模の大きさで良く知られる有名な歴史上の出来事となっています。ナポレオンとその4万人の軍隊が滞在した場所は、グラン・サン・ベルナール道路沿いにあるスイス側の峠道最後の村、ブール・サン・ピエール(Bourg-St-Pierre、標高1632m)だったのです。
人口200人足らずのこの小さな村にはナポレオンが宿泊した建物が今も残っていて、「第一統領ボナパルトここに投宿する。1800年5月20日」と記された記念額が正面玄関の右横にあります。当時は宿屋でしたが、現在は民家になっていて建物の中から家族団欒の声が聞こえてきました。
1800年5月半ば、ナポレオンが率いたのは4万人の軍隊と3千頭の馬。この地域に滞在した間に消費した食料品は、ワイン2万1千724本、チーズ1、5トン、肉800キロと言われています。さらに、ナポレオンはブール・サン・ピエールの村に4万5千334スイスフランの借財(1984年5月20日付ニューヨーク・タイムズ紙による内訳は、未返還の炊飯用具80個、大砲を搬送するための丸太3150本、根こそぎ倒された木々2037本、地元の労働者に対する賃金、となっている)を残したのでした。
1980年代になって、ブール・サン・ピエール村の住人たちはナポレオン自身が書いた署名入りの借用証書を再度フランス政府に提出しました。その結果、1984年5月20日、ナポレオンのグラン・サン・ベルナール峠越え184周年を記念して大きな銅製のメダルと、故ミッテラン大統領の感謝状がブール・サン・ピエールの村に贈られて、金銭的な返済はなかったもののナポレオンが負った債務は決着がついたのでした。
村の役場前のガラスの掲示板には、峠越えをする騎乗のナポレオンを刻んだ銅製メダル、ナポレオンがブール・サン・ピエール村の人々に宛てて書いた署名入りの借用証書(写し)や、故ミッテラン大統領からの直筆の感謝状(写し)など、興味深い展示を見ることができます。
ブール・サン・ピエールの村からグラン・サン・ベルナール峠に向かう途中に、トゥル湖(Lac des Toules)のアーチ式コンクリートダムが見えます。1964年に開通したグラン・サン・ベルナール・トンネル(有料)に向かわずに、途中で右側にそれて旧道のグラン・サン・ベルナール道路を進みます。この辺りまで来ると森林はなくなり、景色は一変します。この先、待ち受けているのは標高2469メートルの峠まで続く上り坂です。
この街道沿いにはナポレオンの峠越えの様子を描いた看板とともに「ナポレオンとその軍隊の通過を記念する。1800年5月20日」と書いた記念プレートがところどころに立ててあります。目印はナポレオンの帽子なのですぐにわかります。
車ですと楽にグラン・サン・ベルナール峠に到着することができますが、看板にある当時の様子を描写した絵には、騎乗の兵士や徒歩の兵士、武器を運ぶ兵士が、長い列を連ねて急勾配の坂道を登っている姿が描かれています。5月の標高2000メートルを超える山々には、まだまだ雪が残っていたであろうことを思うと、この214年前の峠越えがいかに兵士たちにとって危険で体力を消耗するものだったかが想像できます。
グラン・サン・ベルナール峠に立つと、年間265日は凍結しているといわれるグラン・サン・ベルナール湖が見えます。スイスとイタリアにまたがる湖です。そして峠を通過した後のグラン・サン・ベルナール道路は、イタリアのアオスタまで下り坂となります。この峠にはアオスタ大聖堂の助祭長ベルナール・ド・マントンが、峠道に出没する強盗に襲われた人々や悪天候で遭難した人々を救助する目的で1050年頃に建設したホスピスがあります。
このホスピスで1660年頃から遭難者の救助に活躍していた山岳救助犬の話は大変有名です。ナポレオンがグラン・サン・ベルナール峠を越えた年の1800年に生まれた、バリーという名前のセントバーナード犬がいました。非常に優秀な救助犬でその生涯で40人の命を救ったとされています。峠ではバリー財団の運営するセントバーナード犬の犬舎もあり見学することができます。
ナポレオンとその4万人の軍隊はグラン・サン・ベルナール峠を越えて北イタリアに侵攻し、1800年6月14日、マレンゴの戦いで窮地に追い込まれながらもオーストリア軍に対し劇的な勝利を収めたのでした。この勝利の陰にはアルプスの峠越えで命を失ったたくさんの兵士たちの犠牲もあったのです。
小西なづな
1996年よりイギリス人、アイリス・ブレザー(Iris Blaser)師のもとで絵付けを学ぶ。個展を目標に作品創りに励んでいる。レザンで偶然販売した肉まん・野菜まんが好評で、機会ある毎にマルシェに出店。収益の多くはネパールやインド、カシミア地方の恵まれない環境にある子供たちのために寄付している。家族は夫、1女1男。スイス滞在16年。
JTI基準に準拠
swissinfo.chの記者との意見交換は、こちらからアクセスしてください。
他のトピックを議論したい、あるいは記事の誤記に関しては、japanese@swissinfo.ch までご連絡ください。