放牧された動物たちのいる日常 – スイスの酪農
「牛は犬と同じくらい賢いんだよ」これは酪農家の言葉ではなくて、IT会社の社長によるものだ。スイスの田舎では、大会社の社長でもなんらかの形で牛や山羊などが手の届く範囲にある暮らしをした事がある。今日は牧歌的という言葉がとてもよく似合う、家畜と共存する田舎の日常についてご紹介しよう。
ある晴れた日、私は敷地から道路を隔てたところにある洗濯干し場でシーツを乾かした。きちんと畳んで籠に入れ、いざ自宅へ戻ろうとした時に、隣家の牛の行列に出会ってしまった。大人しい動物とはいえ、大きいし立派な角もあるので刺激しないように大人しく待っていた。そこに好奇心に満ちた一頭が私の方にやってきた。私はどうなるのか少し緊張して籠を自分の前に抱えていた。「こらこら、戻りなさい」と愉快な奥さんが声を掛けてくれたので、牛は私から離れていった。でも、その時には洗ったばかりのシーツは牛の涎で湿っていた。そんな小さい事件が珍しくないのが、村の生活だ。
家畜がいつも身近にいるということは、ハエや糞もおなじみの存在になる。通勤路や駐車場も牛が歩くところには必ず糞が落ちる。都会に暮らしているとハエや糞は不衛生で嫌なものとして排除の対象になるしかないだろうが、ここではそれは生活の一部になる。素手で触ることはないが、草食動物の排泄物は大切な肥料としてエコロジカル・サイクルの一部に組み込まれている。農家は巨大な機械で糞尿を畑に撒いていくし、庭の薔薇を丹精する隣人も、散歩道に落ちている馬の糞を大事に集めるのだ。ハエの存在も、この田舎では都会よりも受け入れられている。もちろん食べ物のところにいれば追うが、ハエが皿に停まったからといって、その食事を捨てて新しいものに変える人間はいない。ここの人たちは滅菌には無頓着なのだが、感染症の被害の話はあまり聞かない。多少の雑菌にはびくともしない免疫力がついているのだろう。私ももちろん郷に入っては郷に従っている。
村を歩けば、人間と同じくらい多くの動物をみかける。村のかなりの面積は草原で、酪農家は日ごとに違う場所に家畜を移動させていく。放牧されている家畜たちが移動する時には、綱などをつけることはない。大きく道から逸れれば犬が吠えたり牧童が杖で叩いたりして誘導することはあるが、そうでなければ家畜たちのペースでゆったりと移動させていく。都会で交通を止めるのは渋滞や赤信号だが、田舎では道を横断する家畜の群れであることも多い。かなり長いこと停まっていなくてはならないこともあるのだが、人びとも慣れているのかエンジンを切って大人しく待っている。
家畜ごとに放牧のしかたも異なる。例えば羊は年間を通して家の側で放牧されている。夏は夜間も外に出したままなので、今ではかなり珍しいことになったが「狼がでた」という話で被害に遭うのはたいてい羊である。山羊の場合、山の中では誰も人間のいない状態で放牧されている場合もあるが、村の裏手で放牧するような場合には山羊追い人がつくようである。それでも自由に出歩いてしまった山羊に薔薇の茂みを荒らされたというようなエピソードも時おり耳にする。
牛は、厳しい冬のあいだは牛舎の中から一歩もでないで過ごす。雪が溶けると若草の生えはじめた草原でゆったりと草を食むようになる。そして、夏になると「山の放牧地」を意味するアルプ(Alp)に大半の牛たちを連れて行く酪農家もいる。伝統的に高山で牛を預かるのはゼン(Senn)と言われる牧人たちだ。牛の乳を絞り、放牧させている間にバターやチーズなどを作る乳業のスペシャリストである。どの家がどれだけの乳を出したかによって出来上がった乳製品の分配を決めるのだそうだ。
牛のいない間、家畜の持ち主である酪農家ものんびりとできるわけではない。この間に農作業をしたり、冬の飼料となる干し草づくりをしたりして忙しく過ごすのだ。
九月の晴れた日に、アルプから牛が帰ってくるのは、ちょっとしたお祭りのようになっている。どの牛たちも花飾りをつけてもらい、カウベルをガランガランと鳴らしながら行列して歩いてくる。たくさん乳を出した牛が大きな花飾りをつけてもらっていた。
牛たちが帰ってくると陽射しが弱くなり、樹々が黄色く色づきはじめる。大人の背丈よりも高かったトウモロコシや黄金の波のようだった麦畑もすっかりと刈り取られて更地になる。酪農家でない私のような村の人びとも「ああ、今年も夏が終わったな」と実感することになる。こうして放牧のリズムにあわせて村の季節は移り変わっていく。
ソリーヴァ江口葵
東京都出身。2001年よりグラウビュンデン州ドムレシュク谷のシルス村に在住。夫と二人暮らしで、職業はプログラマー。趣味は旅行と音楽鑑賞。自然が好きで、静かな田舎の村暮らしを楽しんでいます。
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