爆薬眠るスイスの村 緊張漂う静けさ
今から約70年前、スイスのミトホルツ村で弾薬庫が爆発し、当時としては世界最大の非核爆発事故が起きた。それ以降は危険がないとされてきたが、事態は2018年に急転。連邦国防省は昨冬、村を10年間閉鎖すると発表した。住民たちに胸の内を聞いた。
ベルナーオーバーラント地方のミトホルツ村には家や農場が高原に点在する。スイスの絵葉書にあるような景観を妨げるのは、観光業でもなく、車の往来だけだ。しかしこの人口170人の村はもう長くは存在しない。住民は2030年にここから避難し、10年間は戻れないことになっている。「10年後はどうしていると思いますか?」。就職面接でよく聞かれるこの質問への答えは決して一つではない。しかしミトホルツの住民の場合は違う。彼らは10年後には出て行かなければならない。ミトホルツは消える運命にある――少なくとも10年間は。
未来に空白期間が生じることになった理由は、今から70年以上前、住民の大半が生まれる前に起きた大惨事にある。スイス軍は第二次世界大戦中、岩盤の中に地下弾薬庫を建設した。1947年12月19日、そこで保管されていた約7千トンの弾薬と爆薬の一部が爆発した。この事故は地元の方言で爆音を意味するクニュッチュ(Chnütsch)と呼ばれ、長い間、世界最大の非核爆発とされた。犠牲者は9人に上った。
長年、もうリスクはないと考えられてきた。しかし連邦国防省は昨冬、ミトホルツを10年間閉鎖すると発表。爆発物を安全に取り除くには住民の退避が不可欠とした。その段階に至るまであと10年かかる。作業現場と一般道の通り抜けを確保するには、まずは道路の拡張工事および準備作業を行う必要があるからだ。旧弾薬庫の残骸が爆発はしないまでも、村の存在に改めて疑問符を突きつけている。
連邦国防省は住宅を買い上げる方針を示しており、現所有者の子孫に先買権が付与される可能性は高い。ただ不明な点は多い。ミトホルツの住民が住宅を手放す代わりに受け取れる補償額はいくらだろうか?彼らは今後、どこに暮らせばよいだろうか?ミトホルツの不動産価格は近隣地域よりも安い。
アンネリース・グロッセン氏(50歳)、庭師、基礎自治体フルティゲン参事会参事
グロッセン氏はミトホルツに唯一残るレストランにファイルを持ってきた。そのうちの1つには表紙に「なんてかわいそうな村」と書かれている。これは事故当時のミトホルツの様子を表現しようとした古い弔いの詩の題名だ。
現在は近郊のフルティゲンに暮らすが、ミトホルツで育ち、あの大惨事を身近に感じてきた。母親は爆発事故できょうだい数人と祖母を亡くした。「祖母は泣いている3歳児を抱え、家の外に飛び出した。家に戻って残りの人たちも救おうとしたが、辺り一面に炎が広がっていた。祖夫は弾薬庫の上方にある山小屋から一部始終を見ていた」
爆発事故は家族の間であまり会話に上らなかったが、一家にとっては決定的な出来事だった。長い間、学校の授業でも、村の生活でも、この事故が話題になることは一切なかった。大惨事から50年目を迎えた1997年、参事会参事だったグロッセン氏の母親は公式の追悼行事を自治体で企画した。グロッセン氏はこの行事に向けて資料の一部をまとめ、フォルダーやファイルを持参した。その中には捜索隊や生存者の写真のほか、アンリ・ギサン将軍をはじめとする陸軍指導部が追悼訪問したときの写真などがあった。ギサン将軍は当時のミトホルツの遺族にとって非常に大きな意味を持つ人物だった。
爆発事故のニュースは、はるか遠く米国のボストンまで届いた。しかし当然ながら遅れがあった。スイス当局の公式記者会見でさえ事故発生当日から3日後に行われたぐらいだった。「今だったら全く違っただろう。現在ならすぐに心のケアチームがかけつけ、その場で遺族の対応に当たる。しかし1940年代当時、この面に関して遺族は放っておかれるだけだった」
車で村を通り抜けるドライバーの多くは小さな記念噴水に気付かない。「この噴水は村人にとって重要なもの。毎年12月19日はいつも最初に母、次に私か隣人の順番でロウソクに火をつける」。グロッセン氏は事故から75年目の日に再び住民の集いを行う予定でいた。「そこで追悼行事は終了し、事故は歴史の一つになるはずだった。そんな中、2018年6月18日がやってきた」
その日、旧弾薬庫が今も危険な状態にあることが通知された。連邦国防省は「崩壊した施設の一部の中、および施設前のがれきの山の中には合計約3500トンの弾薬と爆薬数百トン」が埋まっていると発表。これは1947年に世界最大の非核爆発を引き起こした爆発物の量に相当する。
グロッセン氏によれば、人々は常に、若干の不発弾は地面の下に潜んでいるかもしれないと考えていた。「どれだけの規模かは知らなかった。だが山の中に埋もれる全てのものに爆発性が高いことが徐々に分かってきた。50キロの航空爆弾まであるとのことだ」。だが問題の焦点はそこではないという。庭師であり、自由緑の党所属の地方政治家のグロッセン氏は爆薬専門家さながらこう語る。「問題は小さな榴弾(りゅうだん)だ。連鎖反応を起こす可能性がある」
ミトホルツでは過去が再び現れ、迫りくる未来が要求を突き立てる。グロッセン氏は言う。「何も知らないほうが良かったと言う人もいる。一時期はこのこと以外話せなかったという家族もいる。今後の計画が分かり次第、これからの予定を決めると言う人もいる」
ウルス・カレン氏(64歳)、元施設長
ウルス・カレン氏は2010年まで山の中にある施設の責任者を務めた。取材は地下道入口のすぐ前で行われたが、そこを同氏が訪れたのは30年間務めたポジションを辞職した2010年以来、2度目だ。施設周辺の地下道や横坑は1947年の爆発の影響で一部が崩壊、スイス軍は53年に施設の拡張に着手した。化学研究所や病院にする計画もあったが、82年に軍医薬品センターに改築された。この改修工事には岩盤の爆破も行われた。カレン氏によれば、2018年までは毎年最大130人が同時に兵役を行い、簡単な医薬品や日焼け止めクリームなどのスキンケア用品を生産していた。同氏は上司の命令で、床一面にさびた爆発物が散らばる「第8号室」に外国軍の代表団を案内することもあった。そこは人気の見学場所だったという。
カレン氏はすでに30年以上前に、自分にも職員にも客人にも危険がないことを書面で確認していた。回答の内容には安堵した。今から思えば危ういことだった。当時は疑うことを知らなかった。「書面で受け取っていたし、ここには専門家もいた。私はそれらを信用していた」。「そうした中、当時でも懸念材料があったことを証明する古い書簡が出てきた」。当時、それについては知らされなかった。「それぐらいは最低限出来ただろうに」
同氏をみれば、スイス軍での仕事に誇りを持っていたことがよく分かる。だが同氏が当局から謝罪の言葉を聞いたことは一度もなかった。1986年の書簡には「爆発の危険性は小さい」ことが証明されていた。連邦国防省広報官にカレン氏の主張をぶつけたところ、当時の状況評価では「職員に危険が及ぶ可能性」は推測できなかったとの書面回答が返ってきた。現在、地下道入口の頑丈な門は固く閉ざされている。門の後ろでは民間の警備員と警報装置が警備にあたる。swissinfo.chは見学を申し込んだが、安全上の理由で拒否された。
カール・シュタイナー氏(63歳)、郵便配達員
「本当に確実なものは何もない」と、住民全体が参加する利益共同体、IGミトホルツのカール・シュタイナー会長は言う。当局は避難に関して決定的な答えをまだ出していない。地元の方言ではeの音を伸ばし、iがほとんど聞こえないため、同氏の苗字は「シュテーナー」と発音される。そんな「シュテーナー」氏が語るように、ベルン州のこの山間部には不確実なことが多いようにみえる。ミトホルツではこの数十年間で雪崩や洪水が起きた。同氏はそれらの出来事について立て板に水の口調で話す。巨大なアルプス縦断鉄道計画(NEAT)に際しては1990年代、工事のために自分の土地の3分の1を当局に売却しなければならなかったという。
しかしこれまでの出来事はどれも今回の避難とは比べ物にならない。家屋は空き家となり、風景に溶け込む庭には雑草が生い茂り、農場は放棄されるのだ。「30頭の牛がいては簡単にはやり直せない」とシュタイナー氏は言う。農家と家畜の今後については不明で、自身も蜂のコロニー12郡を置いていかなければならないという。母親は爆発事故を経験し、ここ数年の出来事にかなり不安になっている。母親にはただ平穏無事に暮らしてほしいと思う。ミトホルツの人々が戻ってこられる20年後、同氏は高齢になっている。「その時にはもうここに戻る必要はない。子供たちが家を引き継いでくれたらと思う」
肝心の問題に対する答えがまだはっきりしない限り、IGミトホルツが足並みをそろえて行動し、交渉し、質問することが重要だと同氏は考える。この団体は村を一つにまとめることに成功したようだ。問題について話し合っているのは、唯一残る飲み屋に時々やってくる客だけではなく、ミトホルツの住民全員だ。やがて消える運命にある村が、避難を機に一つになった。
ヴェルナー・ロアートさん(67歳)、年金生活者・元重機ショベルオペレーター
「昔はいくつかレストランがあって、商店は2軒もあった!母さん、最後の店はいつ潰れたっけ?」。ロアートさんは同じテーブルの隣に座る妻のアリスさんに尋ねる。だが自分で「15年前は確実だな」と答える。爆発当時はまだスーパーの「コンズーム」があった。「母はそこで働いていた。爆発後、店が再開することはなかった。もし状況が違っていたら、今、ここにもっと多くの人が住んでいただろうか?」
外では2匹の犬が檻の中からこちらに向かって吠えている。ここでは誰の邪魔にもならない。ロアート夫妻の家はブラウ湖にほぼ近い村の外れにある。当初は避難区域外だった。しかし2回目の調査で、ロアート夫妻も出ていかなければならないことが分かった。
ロアートさんは生まれてこの方、ずっとこの家で暮らしてきた。「ここを出たいと思ったことは一度もない。自分はこの村の人間だ!」。近隣の観光地カンデルシュテークで職業訓練を行い、1つの会社に49年間勤め上げた。同じく約50年前、父親が狩猟事故で亡くなった。母親のために家に残り、ヤギやヒツジの世話を手伝った。アリスさんと所帯を持つと、家の改築を自分の力だけで行った。出来ることならここは出たくない。なぜ行政は単純に「村を1週間閉鎖し、全てを管理下で爆破」させないのかと疑問に思う。連邦国防省によると、爆破処理をした場合でも「弾薬の大半」は爆発せず、谷間に大量の不発弾が散らばる可能性が高いという。
ロアートさんには爆破処理以外にも独自のアイデアがいくつかある。しかし深追いはしない。「出ていかなければならないなら、出ていく。ここに残ってどうしようというのだ」。村に戻ることは考えていない。娘には家を継いでほしいと思っている。
ハイジ・シュミートさん(37歳)、基礎自治体の上級職員
ハイジ・シュミートさんは前出の村人たちとは違う年代だが、同様に成り行きに身を任せている。人が自宅に近づくと、南米旅行で買ったTシャツを着た子供たちがすぐに走り寄ってくる。家のベランダにはスコットランドの国旗が掲げられてる。ミトホルツの中ではこの一家の暮らしはかなり国際的だ。この谷でほぼ一生暮らす人もいる一方、シュミート家の子供たちはチリに行ったこともある。夫婦そろって大の旅行好きだという。「だけどここに根を下ろしている」
この家は夫の両親から譲り受けた。リフォームから10年経った今でも木の色は明るい。ガーデンハウスだけがまだ完成していない。「これは当面このままにしておく」とシュミートさんは言う。「今は状況が不安定だから」
「私たちの場合はちょうど選択肢がそろったところ。この地域に留まるか、全く違うことをするかを考えている」。全く違うこととは、国内の違う土地に引っ越したり、1年間ほど国外に移住したりすることだ。しかし一家はそのようなことはしないと決めた。幼稚園に上がる直前の子供たちがいるため、今はそうした挑戦をする時期ではないと判断した。「本当はここでの暮らしと同じような暮らしがしたい」
夫は仕事的にも家系的にもミトホルツに根差している。ハイジさんは生まれ育った近郊のフルティゲンで自治体の上級職員として働く。ミトホルツでは誰もが今持っているものは出来るだけキープしたいと考える。夫妻も例外ではない。しかしそれは叶わない。夫妻も他の住民と同様に過去に巻き込まれた。どのような状況にいるのかも分からないまま、中期的な未来への対応を迫られている。
連邦国防省は9月中旬、「具体的な手順」について「今後数週間のうち」にIGミトホルツと話し合い、「その後、各家の状況について初回の視察を行う予定」だとswissinfo.chの問い合わせに回答した。
(独語からの翻訳・鹿島田芙美)
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