アルツハイマー新薬、スイスは承認するか?
20年ぶりのアルツハイマー病の新薬レカネマブの評価が揺れている。米国や日本など承認した国もあれば、リスクが上回るとして反対する欧州の機関もある。スイス当局は年内に承認するか否かを決める見通しだが、天秤はどちらに傾くだろうか。
記憶力と思考力を徐々に奪うアルツハイマー病は長きにわたり研究者を手こずらせてきた。製薬企業は治療薬開発に巨額を投じているが、少なくとも20年間、新薬は出ていない。
この状況を変えたのは、日本のエーザイと米国のバイオジェンが開発した早期アルツハイマー病治療薬レカネマブ(商品名:レケンビ)だ。記憶機能低下の症状と推定原因の両方に作用する初めての治療薬で、昨年7月に米国食品医薬品局(FDA)が世界で初めて承認。日本、中国、韓国も追随した。
スイス・ローザンヌ拠点のバイオテック企業「ACイミューン(AC Immune)」の創設者で最高経営責任者(CEO)のアンドレア・ファイファー氏は「昨年はアルツハイマー病研究にとって大きな前進の年だった」と話す。同社は20年以上、アルツハイマー病の治療薬開発に携わってきた。「薬が市場に出ない期間が長く続いたため、アルツハイマー病は治療の可能性すらないと思われ始めていた」
だが、レカネマブ誕生の喜びは欧州では長くは続かなかった。欧州医薬品庁(EMA)の審査委員会は7月、同薬には脳の腫れや出血など安全性の懸念があり、リスクが恩恵を上回るとして、承認を控えるよう勧告した。
その1カ月後、英国の規制当局は同薬を承認したが、医薬品の費用対効果を評価する英国国立医療技術評価機構(NICE)は、年間2万6500ドル(約390万8500円)の薬価(米国の場合。英国は非公開)が効果に比して高すぎるため、償還を勧めないと提言した。
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スイスの医薬品承認機関スイスメディック(Swissmedic)は今年末までに決定を出す見通しだ。国内の患者はその日を心待ちにするが、対立する様々な意見がある中、決断は一筋縄ではいかない。生命に関わるアルツハイマー病は完全に解明されておらず、この数十年間大きな進展はない。当局はレカネマブの効果とリスクを慎重に見極めなければならない。
スイスメディックの決定は、現在そして将来の何十万人ものスイスのアルツハイマー病患者に影響するだけでなく、製薬企業が同病の新治療薬開発にどれだけ投資すべきかの判断材料となる。
アルツハイマー病は認知症(認知機能の低下がみられる疾病の総称)の一種で、進行性の記憶障害と認知機能の低下を特徴とする。世界の認知症の中で最も大きな割合を占める。
世界では現在5500万人以上が認知症に苦しんでおり、その約7割がアルツハイマー型だ。非営利団体「アルツハイマー・スイス」によれば、スイスの患者は15万6900人に上り、 2050年には31万5400人に達すると予想される。
アルツハイマー型認知症患者の記憶力や思考力は徐々に低下し、進行すると簡単な作業さえできなくなる。世界保健機関(WHO)は、同病に掛かる医療コストを年間約1兆3000億ドルと見積もる。
薬の効果とリスク
レカネマブへの見解が分かれるのは、アルツハイマー病の治療薬開発がいかに困難であるかの表れだ。病気の原因を決定付ける確実なエビデンスも、アルツハイマー病の有無や進行度を測る血液検査もまだない。
レカネマブ以前の薬は記憶障害などの症状を緩和するだけだった。だが記憶障害が生じた部分は修復できないため、症状が出てしまった後では手遅れだ。
ファイファー氏は「早い時期に、つまり脳機能障害が出る前に治療する必要がある」とし、そのためには「その患者がアルツハイマー病に罹るリスクがあるかどうかを、症状が出始める15〜20年前に見極めなければならない」と話す。
そのため製薬企業は、アルツハイマー病患者の脳内で起こっている現象の解明に注力した。患者の脳を調べると、アミロイドβ(ベータ)と呼ばれる毒性タンパク質が異常に多量に検出される。脳内で凝集・沈着したアミロイドβタンパク質は大きな塊(プラーク)となり細胞機能を妨げる。レカネマブはこのプラークに作用する新しいタイプの薬だ。
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だが脳内プラークの量を薬で減らせても、記憶機能の低下を防ぐ効果があると結論付けるには不十分だ。脳内プラークがあってもアルツハイマー病を発症しない人もいるし、プラークを減らすが記憶・認知機能の低下には何ら効果を示さない薬もあるからだ。
レカネマブの特徴は、プラーク除去に加え、症状の進行を遅らせる効果があることだ。1700人以上の早期アルツハイマー病患者を被験者として実施された同薬の主要な臨床試験外部リンクでは、認知機能の低下をプラセボ(偽薬)に対して18カ月で約27%遅らせる効果が認められた。
科学コミュニティは、同病の治療を飛躍的に進歩させたとして、この結果を高く評価した。だが規制当局にとっては、患者が受ける恩恵をどう解釈するかがネックになっている。レカネマブで病気の進行を抑制できる期間は5カ月程度に過ぎず、医者も患者も効果に気付くことすらできないかもしれないとする専門家もいる外部リンク。
非営利団体「アルツハイマー・スイス」広報担当のジャクリーヌ・ヴェットシュタイン氏は「レカネマブの薬効成分は、アルツハイマー病の初期段階に毒性タンパク質の脳内沈着を抑制し、病気の進行を遅らせる。だが病気を治すことも進行を止めることもできない」とメールで回答した。
副作用も考慮しなければならない。臨床試験の結果では、レカネマブの投与によって脳の腫れや微量の出血が認められた。軽度の頭痛を起こし、場合によっては死亡することもあるという。
同薬を承認した米FDAは、レカネマブは安全で有意の臨床効果が認められるとした。一方、欧州EMAは「レカネマブが患者にもたらす恩恵は、リスクを上回るほど大きくない」と見解が異なる。
英国のように、規制当局が承認しても費用対効果が優れないことを理由に健康保険機関が償還を却下するケースもある。米国のレカネマブの薬価は年間2万6500ドルだが、隔週の点滴とフォローアップに掛かるコストは含まれていない。
承認が開発投資を促進
バイオジェンでアルツハイマー病治療薬の開発に携わった神経科学者で、チューリヒ拠点の非営利団体「ウィメンズ・ブレイン財団」を率いるアントネーラ・サントゥッチョーネ・チャダ氏は、恩恵とリスクのバランスは、アルツハイマー病研究のより大局的な視点から見るべきだと話す。
「レカネマブは、恩恵よりもリスクの方が高いことは理解している。だがそれは、治療の手立てが見つからないこの破壊的な疾病の研究を前進させるために支払うべき代償なのかもしれない」
米国拠点の医薬品開発・医療サービス大手企業「アイキューヴィア(IQVIA)外部リンク」によれば、過去10年間で200件以上の研究が、後期臨床試験(大勢の患者を被験者として薬の効き目を調べる段階)で中止・失敗している。
アイキューヴィアは、アルツハイマー病治療薬の開発コストを約56億ドルと見積もる。がんの場合は約7億9360万ドルだ。
ACイミューンのファイファー氏は、米FDAのレカネマブ承認は企業に投資価値があることを示すメッセージだったと話す。レカネマブは今年、3億6100万ドルの収入を生み出す見込みだ。
ファイファー氏は「これらの新薬は完璧ではないかもしれないが、多くの患者の認知機能の低下を遅らせる効果は出ている」と話す。「少なくともある程度の効果が認められる薬が承認されなかったら、誰が次のアルツハイマー薬の開発に投資しようと思うだろうか?」
レカネマブの承認から1年後、米FDAは米イーライリリーが開発した第2のアルツハイマー病治療薬ドナネマブ(商品名:ケサンラ)を承認した。英国、欧州、オーストラリアでは現在審査中だ。
世界中の臨床試験データを公開する米国政府のプラットフォーム「ClinicalTrials.gov」には、アルツハイマー病に関連する127種の薬を対象とした160件の臨床試験が登録されている。血液検査による診断方法の開発や、アミロイドβ以外のタンパク質や炎症に作用する新薬の開発も進む。
AC イミューンではこの20年間、脳内プラークの除去能力のある免疫細胞を利用した免疫療法や診断テストの研究開発に取り組んできた。現在、5種の薬について臨床試験が進行中だ。アルツハイマー病の原因についても探究を続けている。
「アルツハイマー病に関するあらゆる研究によって、より多くのことがわかってきている。この知見を土台に、次世代では更なる高みに迅速に到達するだろう。安全性も高まるはずだ」とファイファー氏は展望する。
日本の武田薬品工業とAC イミューンは今年5月、アルツハイマー病治療薬に関するライセンス契約を締結した。この契約により、武田薬品工業は臨床試験中の免疫療法の1つに関する全世界の独占的オプションおよびライセンスを取得した。ACイミューンは契約一時金として1億ドルを受け取り、成功に応じて最大21億ドルの支払いを受ける。
治療の機会とスイスの決断
スイスメディックへのレカネマブの承認申請は昨年5月にエーザイから提出されているが、決定がどちらに転ぶかは未知数だ。スイスメディックの広報担当者はswissinfo.chの取材に対し、未決定事項についての詳細は答えられないとした。承認申請から決定まで1年以上かかるのは珍しいことではない。
欧州連合(EU)に属さないスイスは欧州EMAの決定に左右されず、独自の判断を下す。スイスメディックは専門家の協力を得て、製品が「有効性、品質、安全性の点で要求を満たすかどうか」を精査している。
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スイスメディックが昨年承認した新薬は申請の84%(41種の薬)で、米FDAと同程度の割合外部リンク(84 %、 55種の新薬)だった。
レカネマブの効果が限定的だとしても、スイスのアルツハイマー病患者は承認を心待ちにしている。現在、スイスで同薬を使用するには自費輸入するしかない。
アルツハイマー・スイスのヴェットシュタイン氏は「長年の研究によって、少なくとも初期段階で病気の進行を遅らせる薬がやっと誕生した」と話す。レカネマブはアルツハイマー病の進行を止めることはできない。「それでも早期に薬を投与できれば、患者にはより多くの時間が残される」
編集: Virginie Mangin/ds、 英語からの翻訳:佐藤寛子、校正:宇田薫
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