スイスの薬価改革案 値決めの秘密性を強化するのはなぜ?
スイス連邦議会は医療費削減を目指し、薬価制度の改革案を審議している。ただ一部の医療関係者は、改革はかえって医療費の高騰を招くとして猛烈に反対する。
スイス全州議会(上院)は6月中旬、医療費の膨張に歯止めをかけるための包括的な対策案(第2次医療費抑制包括策外部リンク)を可決した。薬価を押し下げ、高額になりがちな新しい医薬品を入手しやすくするための改革が盛り込まれた。
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連邦内閣(政府)と国民議会(下院)が改革案を審議中だが、公衆衛生関係者や法曹界からは早くも改革案の一部に批判の声が上がる。コスト抑制効果を欠くだけではなく、長期的には薬価上昇を招き、世界的な薬価に影響を与えかねないというのが批判の理由だ。
議論の背後には何があるのか。ポイントをまとめた。
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改革案では何が提案されている?
抑制策の一つは、いわゆる価格モデル(管理された参入協定)を医療保険法に盛り込むことだ。価格モデルとは、医療保険が適用される「専門薬リスト外部リンク」への掲載に当たってスイス連邦保健庁と製薬企業の間で取り決める条件のことを指す。
価格モデルにはさまざまな種類がある。最も一般的なのは、売上高が合意された金額に達した場合に製薬会社が薬価を割引・返金する「数量割引」だ。もう一つは、薬の性能に応じて薬の対価を支払う成功報酬型で、長期的な臨床的証拠がほとんどない遺伝子治療など新しい高額医薬品の場合に用いられることが多い。特定の患者に治療効果が現れた場合にのみ、保険会社が製薬会社に償還する。
議会で審議中の改革案は、こうした価格モデルを法律で定めることの他、薬価に関する情報を非公開にできる内容も盛り込まれている。国民が最終的な薬価や合意条件を知ることができなくなることを意味する。
もう一つのコスト抑制策として、新薬をより早く患者に提供できるようにすることも議論されている。これにより患者はスイスの医薬品認可機関「スイスメディック(Swissmedic)」が承認すれば直ちに治療を受けられ、保健庁と製薬会社が価格や条件で合意するまで待つ必要がなくなる。保険会社は、定められた期日まで製薬会社が設定した価格を支払うことになる。医療への即時アクセスを保証するドイツをモデルにしている。
こうした改革が提案された背景には、高額な新治療法の登場で交渉が複雑化していることがある。欧州製薬団体連合会(EFPIA)の調査によると、2023年にスイスで承認された新薬が専門薬リストに掲載されるまでに、平均301日かかった。2015年の平均42日から大幅に伸び、法定制限の60日を大きく上回る。
改革により医薬品をより早く入手できるようになるが、専門家からは最終的に価格上昇をもたらすと警告する声もある。諸研究によると、既に服用されている医薬品について価格を再交渉したり市場から撤退したりすることは非常に難しい。チューリヒ大学のケルスティン・ノエル・ヴォキンガー教授(法学・医学)は、このため最初に決まった価格が最終価格になることが多いと指摘する。
ヴォキンガー氏はswissinfo.chとのインタビューで「ドイツのモデルを真似るべきではない。医薬品への迅速なアクセスは保証されるが、スイスの医療費や家計への負担は増すだろう」と語った。2011~22年に保険適用の対象に追加された医薬品を基に試算したところ、ドイツモデルを採用した場合、スイスの医療費は年間6億5500万フラン(約1100億円)増えるという。
現行法でもスイス医療法は第71条で保険外使用を定めている。医師は未交渉の医薬品でも特別に入手を要求できる。
なぜ薬価の秘密保持を推進するのか?
連邦政府が2022年に薬価改革案をまとめたのは、有権者に医療費抑制策の考案を迫られていたためだ。2022年6月の国民投票で医療費抑制を狙った2法案が否決されたことを受け、連邦政府は医療保険料の上昇など家計負担の緩和策を早急に提案する必要があった。
医療費において、薬剤費は主な節減対象の一つとされている。10万フランを超えながら臨床的証拠の限られている医薬品が市場に出回り、医療保険会社にとって新たな課題を生み出している。
欧州を中心に多くの国で、財政の膨張を抑えながら新医薬品を提供するための価格モデルが導入されている。ある調査では、高所得国・欧州連合(EU)41カ国のうち28カ国が管理された参入協定を結んでいる。
スイスは個別のケースで価格モデルの設定に同意する事例もあるが、さらに定着させるには法的根拠が必要だ。
製薬会社が非公開を条件に、値引きやその他の価格モデルに同意することが増えている。秘密保持により、各国のさまざまなニーズに合わせた価格戦略を策定できるというのが企業側の主張だ。
エリザベット・ボーム・シュナイダー内務相は上院の審議で「革新的な医薬品を今後も提供し続けるためには、価格モデルの機密性は不可欠だ」と訴えた。「機密性がなければ、価格が高騰し、保険料の高騰を招く可能性がある」。企業がスイスで新しい医薬品をまったく販売しない、あるいは市場投入が遅れるリスクがあるとも強調した。
政府は、数量割引の活用で約4億フランを節減できると見積もる。ある調査によると、2017年に価格モデルを導入した11カ国では、新薬に対して20~29%の割引が受けられた。
改革案はなぜ論争を巻き起こしているのか?
チューリヒ大学のケルスティン・ノエル・ヴォキンガー教授(法学・医学)は、価格モデルや払い戻し契約が問題にならない場合もあるが、秘密主義の強化には眉をひそめる。ドイツでも秘密裏のリベートを医療法に盛り込むかどうかが議論されている。
ヴォキンガー氏はswissinfo.chとのインタビューで、「ある種の『囚人のジレンマ』に陥っている」と語った。「ある国が『秘密にすれば価格が安くなる』と考えて自己中心的に振舞えば、他の国も透明性を保つ意欲を失いシステム全体が機能しなくなる」
スイスは、世界で最も透明性の高い薬価制度を誇る。保健庁と製薬会社の間で価格が合意されると、その価格は専門薬リストに掲載され、他の国々の参考に供される。逆にスイスは国内の交渉でも、参考となる国々の価格を参照している。
世界保健機関(WHO)は、非公開リベートは医薬品価格を歪ませる可能性があるとして、強く反対している。スイスは2019年、各国に正味価格に関する情報を共有し、データ共有の向上を支援するよう求めたWHO決議を支持した。
秘密主義の強化はこの流れに逆行する。スイスのNGOパブリック・アイで医療行政を担当するパトリック・デュリッシュ氏は、スイス政府は製薬会社との交渉で弱い立場に立たされると指摘する。「透明性は高まるべきで、低くなってはいけない。製薬業界は、新特許薬の定価をどこでも高く保つという非公開リベートから利益を得ている」
ヴォキンガー氏が主導した調査によると、スイスではリベート対象の医薬品の数が2012年の1品目から2020年10月までに51品目に増加した。うち少なくとも14品目については、リベートの額や製薬企業に支払われる価格に関する情報が公表されていなかった。
透明性がなければ、保健庁が本当に交渉に成功したかどうかを判断しづらい。スイス社会民主党(SP/PS)のフラビア・ヴァッサーファレン議員は上院での審議で、「結局のところ、報告されている節約効果が実現するかどうかは、かなり不明確で不透明なままだ」と主張した。
管理された参入協定を最初に導入した国の一つであるイタリアで昨年12月に発表された報告書では、価格モデルが医薬品支出の削減につながったという証拠はほとんど見つからなかった。ヴォキンガー氏はその理由として、透明性が高い場合よりも価格交渉で製薬会社が高額を提示しやすくなることを挙げる。また価格モデルは交渉を長期化させ、新薬の参入を遅らせる傾向があるという。
スイス連邦データ保護局のエイドリアン・ロブシガー局長は過去、透明性の低下は一般公開の原則に反するとして反対を表明している。
ヴォキンガー氏は、最終的には説明責任の問題だと指摘する。「社会と患者には、治療にいくらかかるかを知る権利がある」
編集:Balz Rigendinger/ts、英語からの翻訳:ムートゥ朋子、校正:宇田薫
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