難病SMAの高額治療薬 トルコ政府と患者たちの攻防
遺伝性の難病、脊髄性筋萎縮症(SMA)患者が多いトルコ。スイスの製薬大手ノバルティスが開発した治療薬「ゾルゲンスマ」の購入費を賄うため、多くの家族がクラウドファンディングを立ち上げる。政府がゾルゲンスマの承認を渋る理由を探った。
リュツガー君(4)は産まれたその日から命に関わる病気と闘っている。生後1カ月で最重度のSMAと診断された。次第に筋肉が萎縮し、手足が動かなくなっていく遺伝性の難病だ。生後6カ月未満で症状が現れた場合、治療を受けなければ2歳まで生きられないとされる。
両親はリュツガー君の診断が下りるとすぐ、為すべきことを悟った。息子の命を救える遺伝子治療薬「ゾルゲンスマ」の購入費用を集めるため、クラウドファンディングを立ち上げた。目標額は210万ドル(約3億7000万円)。ゾルゲンスマは米国や日本など数十カ国で承認済みだが、トルコの保健当局は法外に高い薬価を正当化するには有効性の証拠が不十分だとして、承認を見送っている。
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親族間で結婚するケースの多いトルコでは、他の国よりもSMAが発症しやすい。推計外部リンクによると、世界で新生児1万人に1人がSMAを持って産まれるが、トルコでは6千人に1人だ。トルコ保健省外部リンクは、国内でSMAを抱える乳児・成人は少なくとも3千人に上ると推計する。毎年150人にSMAの診断が下り、その大半は新生児だ。
ゾルゲンスマが承認された国で1回の点滴を受けるだけで子どもが自力で座ったり食べたりできるようになるのを、トルコのSMA患者の親たちは指をくわえてみるしかない。自分の子どもを助けたいと切望する何百人もの親が、リュツガー君のようにクラウドファンディングで治療費を調達した。トルコの平均年収は約3万2000ドル。ゾルゲンスマは多くの患者家族にとって手の届かない存在だ。
「ツイッターもインスタグラムも赤ちゃんの写真で溢れていた」。SMA治療薬の入手を巡る課題について修士論文を書いたトルコ人研究者、ミネ・サネム・オズカンさんはこう話す。「(トルコでは)路面電車にも、SMAの赤ちゃんの写真に口座番号を添えた募金広告が掲示された。感情を揺さぶられた」
SMAは、生存運動ニューロン(SMN)タンパク質を作る指令を出すSMN1遺伝子の欠損・変異によって発症する。SMNタンパク質の不足は運動ニューロンを阻害し、進行性の筋力低下を引き起こす。
すべてのSMA患者は、SMN2と呼ばれる「バックアップ遺伝子」を少なくとも1つ持っている。この遺伝子のコピー数が多いほど、SMAの重症度は低く、発症も遅くなる傾向がある。
SMAは発症年齢と運動機能によって4類型に分類される。
Ⅰ型:自立して座ることができず、通常6カ月未満の乳児に発症
Ⅱ型:自立して座れるが歩行はできない
Ⅲ型:自立して歩ける
Ⅳ型:自立して歩ける。成人型
最も多いのはⅠ型、SMA患者の45~60%を占める。Ⅰ型乳幼児は通常、人工呼吸器と栄養補助なしでは2歳までに命を落とす。
医学的には治療を受けるのが早いほど効果は高い。だが多くの国でSMAは新生児スクリーニング検査から除外されている。
クラウドファンディングを募るツイートは政治家をタグ付けし、リツイートを求めた。中にはフェイスブックやインスタグラムでトルコの俳優やサッカー選手の賛同を得て、支援の裾野を広げた案件もある。
目標額を達成できた家族は、ゾルゲンスマが承認されているドバイやハンガリー、米国に飛ぶ。一部の患者団体によると、治療のために海外渡航した乳児は100人以上と推定される。リュツガー君もその1人だ。2020年9月、リュツガー君は生後14カ月で家族に連れられて米サンアントニオ小児病院に行き、ゾルゲンスマの点滴を受けた。その1年後、自力で座ったり立ったりできるようになった。
だが資金が集まる前に亡くなった子どももいる。ゾルゲンスマの対象年齢や体重制限を超えたり、筋肉劣化が進みすぎたりして服用できなくなったケースもある。
世論の圧力
情に訴える寄付運動は激しい世論を巻き起こした。ゾルゲンスマを承認し、全額保険適用にするようトルコ政府に圧力をかけた。だが政府は頑なに譲らない。
トルコ保健省がSMAの新しい治療法を検討する科学審査委員会を設置したのは2020年。委員会は当初、ゾルゲンスマの承認を勧告するには安全性と有効性の証拠が不十分だと判断した。
2021年の審査でも同じ結論を下した。委員長を務めるファフレッティン・コジャ保健相は患者家族に向け、宣伝される効果が十分に立証されていない治療法のためにクラウドファンディングを立ち上げないよう呼びかけた。3度目に承認を見送った2023年、保健相は「我が国の子どもたちがモルモットに使われることを政府は許容しない」と強調した。
他に選択肢がほとんどないSMA患者が速やかに治療を受けられるよう、ゾルゲンスマは米国と欧州では優先審査で承認された。米国で承認前の治験に参加した患者は40人未満。多くの乳児が運動機能に大きな変化を得たものの、効果がどのくらい持続するかについてのデータはない。
トルコ初のSMA患者団体「トルコSMA財団」の創立者エジェ・ソイヤー・デミール氏は「政府はゾルゲンスマが高すぎるとか、資金がないと言ったことは一度もない」と指摘する。息子のチャガン君が生後数カ月の時に最重度のSMAと診断された後、同財団を設立した。ノバルティスに新たな証拠データを提出するよう圧力をかけるためだ。
保健省は「SMAは他に治療手段がなく、2歳までにゾルゲンスマを投与しなければ死亡する」という一部のクラウドファンディングの主張にも異議を唱えた。
トルコ当局は、米バイオジェンが販売するSMA治療薬「スピンラザ」をすでに承認し、保険適用に同意していた。スピンラザは遺伝子治療ではなく、当初は服用対象も限られていたが、病気の進行を遅らせる効果が証明されていた。
ノバルティスは2023年3月と2024年初頭、発症前にゾルゲンスマを投与した場合の長期的な利点と安全性を調べた臨床試験の結果を追加発表した。だが複数の治療法を比較する研究はまだない。
科学と政治
トルコ保健省がゾルゲンスマを忌避する背景には、科学的証拠の不足だけでなく政治的な事情もあったとオズカン氏はみる。クラウドファンディング運動は、公平・公正性に関する疑問を提起し、世論を二分した。
デミール氏は、僻地に住んでいたりクラウドファンディングを立ち上げるノウハウがなかったりして治療を受けられない患者もいると指摘する。チャガン君は米国でゾルゲンスマが承認されたときには既に対象年齢を超えていたため、スピンラザの治療を受けている。「全ての人が公平に入手しやすい治療」を目標とすべきだ、と訴える。
コジャ保健相は政府方針を貫き、製薬会社を非難する。2021年の声明で、「大きな問題は、道徳の枠を超え我が国を無能と見せかけることで、製薬会社を擁護することだ」と糾弾した。2023年にも、政府は「トルコの家族の希望が商業目的で利用されることを許さない」と繰り返した。
ノバルティスのマーケティングも敗因の1つだ。SMA有症率が高いにもかかわらず、トルコ人患者を1人も臨床試験に参加させなかった。未承認国の患者の一部に無料で薬を提供する「早期アクセスプログラム」でもトルコは対象外だった。
これは「ルール通りに勝負した」(オズカン氏)バイオジェンとは対照的だ。同社はトルコと無償投与契約を結び、スピンラザの承認前にトルコで臨床試験を実施した。
スイスの製薬大手ロシュが開発したSMA治療薬「エヴリスディ」は2023年、トルコの治療ガイドラインへの追加が承認された。臨床試験にはやはりトルコ人患者が加わっていた。エヴリスディの米国価格は年間10万~34万ドル。ゾルゲンスマが1回限りの静脈内注入であるのに対し、生涯にわたり毎日服用する必要があるエヴリスディ治療はさらに高額となる可能性がある。
治療の代わりに予防
ノバルティスの広報担当者はswissinfo.chに対し、トルコ政府との協議の詳細は守秘義務上明らかにできないが、トルコ保健当局と合意に達していないことを遺憾に思うと語った。
またノバルティスはトルコの保健当局と連携し、トルコのSMA患者にとって「柔軟で持続可能かつ手頃な入手手段」を見出すべく尽力を続けるとメールで述べた。
SMA患者団体は、クラウドファンディング運動や政界が反応したことでその名が普及し、前向きな変化をもたらしたと話す。SMAが新生児スクリーニングの対象に追加され、症状が現れる前に診断を受けて治療できるようになった。
2022年には妊娠前遺伝子診断(キャリアスクリーニング)も可能となった。両親のどちらかに遺伝子変異がある場合、着床前遺伝子診断(体外受精に似た手順)に国の保険が適用される。赤ちゃんがSMAに罹患していないことが確認できれば、治療も不要というわけだ。
「トルコ政府は、SMAを治療するより未然に防ぐ方がはるかに安上がりであるとみなした」(デミール氏)
編集者:Nerys Avery/vm/ts、英語からの翻訳:ムートゥ朋子、校正:宇田薫
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