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クレーが生涯挑み続けたピカソ

キュビスムではなく、キュビスムに触発された作品:パウル・クレー作「ピカソへのオマージュ ( Hommage a Picasso ) 」1914年、192、油絵、厚紙、38×30cm、個人蔵 Zentrum Paul Klee Bern

クレーとピカソ。これは意外な組み合わせだ。ベルンにあるパウル・クレー・センターでこのたび公開中の展示では、クレーが同時代人のパブロ・ピカソとどう向き合ったかをテーマにしている。

「一見、この2人の芸術家の絵は非常に異なっています」と、展示のキュレーターを務めるクリスティーネ・ホプフェンガルト氏は説明を始める。

ピカソへの対抗意識

 「しかし、この2人の画家にはすでに生前から共鳴するものがありました。2人とも同じようにラディカルな形であらゆる伝統を断ち切りましたし、その上、2人の間には交流もありました」
 とホプフェンガルト氏は2人の接点を挙げる。

 そして何よりも、クレーはほぼ彼の一生を通してピカソと向き合ってきたという。
「このことは、常にクレーがピカソから影響を受けていたということではありません。彼は同時にピカソに挑み、ピカソのパロディーも描いています。いずれにしろ、クレーにとってピカソは常に気になる存在でした」
 とホプフェンガルト氏は言う。

ピカソの模倣ではなく

 ピカソは時代をリードする芸術家だった。美術に携わる同時代の者なら誰もが彼の作品と向き合った。今回の「パウル・クレー・センター ( Zentrum Paul Klee ) 」の展示では、クレーがどのようにピカソの影響を消化したかを見せている。ここで一つはっきりすることは、ピカソを真似た者は随分いたが、クレーはこの「スペイン人」( ピカソが自ら言った言葉 ) のただの模倣者では決してなかったということだ。

 今回の展示は2人の芸術家の初期の作品から始まり、クレーの作品中に見られるピカソに対する彼の取り組みをテーマごとに取り上げている。そして最後に、展示は2人の後期の作品で締めくくられている。

 クレーとピカソはほぼ同年齢で、1879年生まれのクレーはピカソより2歳年上だった。2回だけだが、クレーとピカソは個人的に顔を合わせている。最初は1933年にパリのピカソのアトリエで、そして2度目は1937年にベルンのクレーのもとで。もっとも、最初の面会のことをその後ピカソは覚えていないと言い、2度目については「とにかく話すことがなかった」という当時のベルンの美術品収集家でこの会見をアレンジしたベルンハルト・ガイザー氏の言葉が今回のカタログの中に引用されている。

 しかし、個人的な付き合いよりも、2人が互いのそのつどの芸術的な取り組みを知っていたことの方が重要だった。ピカソが書き残した文章によると、クレーは小さな作品の巨匠であり、ピカソ自身は大きな作品の巨匠だという。もしこれが本当にピカソの言葉なら、かの「スペイン人」がクレーを高く評価していたことを示す。

キュビスム

 キュビスムを打ち出したことにより、ピカソとその仲間は20世紀初頭に芸術界から一線を画した。キュビスムとは、ある対象を複数の視点からとらえ幾何学的な形態に分割し1つの画面に描出する試みだ。パウル・クレーもまたキュビスムを避けて通ることはできなかった。今回の展示の中で、クレーの作品「ピカソへのオマージュ ( Hommage à Picasso ) 」がこのことを示している。この作品はかつてクレーが描いた唯一のピカソに対する賛辞だ。

 美術史専門家の中には、クレーにしてはこのような作品はかなりまれだとして、この絵はクレーの本心ではなく風刺的要素が隠されていると考える専門家もいたという。クレーが下書きにピカソのカリカチュアを描き、その上に絵を描いたとも考えられた。
「そこで、この絵をX線で調べてみたところ、絵の下には普通の下塗り以外に何もありませんでした」
 とホプフェンガルト氏は言う。

 もっとも、この作品は表面上はキュビスム絵画への共感を見て取れるが、構成はピカソのキュビスムからかなり離れているとホプフェンガルト氏は断言する。クレーはピカソのように一つの対象を取り上げ、それを個々の幾何学的な小面に解体するのではなく、幾何学的な形を用いて抽象的な構図を描く。
「キュビスムはクレーに大きな影響を与えました。しかし、彼はピカソのように単に静物や人物を描くのではなく、対象の基本的な構造を受け入れた上で彼独特のモチーフやイメージを組み立てます」
 もし、クレー特有の幾何学模様の作品だけを観るなら、キュビスムとは思わないだろう。
「この四角形から成る格子模様は1920年代を通してもまだクレーの作品に見られ、バウハウス時代にも見られるものですが、事実、これはキュビスムから導き出されたものです」
 とホプフェンガルト氏は言う。

ミノタウロスとウルクス

 ピカソにとって大きなテーマの一つが雄牛のミノタウロスだ。ピカソのベルン来訪後、クレーは「雄牛に対する懐疑 ( Skepsis dem Stier gegenüber ) 」という作品を描いた。カタログに書かれているように、この絵は「ピカソとの関係に対するクレーの見解」だ。

 その後、クレーは「ウルクセ ( Urchse ) 」を生み出した。ウルクセのもとになる単数形の「ウルクス ( Urchs ) 」はクレーによる造語で、家畜の牛から派生した言葉「ウール ( Ur ) 」と雄牛を意味する「オクセ ( Ochse ) 」、そしてベルン地方のドイツ語方言にある「ウルキッヒ ( urchig ) 」から生まれた。「ウルキッヒ ( urchig ) 」とは「自然のまま」「原始的な」という意味だ。

 このウルクセはミノタウロスのカリカチュアのように使われている。
「クレーのウルクセはピカソの攻撃的で不気味な雄牛とは対照的で、平和で愉快で少し愚鈍な感じがします」
 とホプフェンガルト氏は言い、これがピカソの強烈な雄牛を風刺したクレーのスタイルだという。

エヴェリン・コブラー、swissinfo.ch
( 独語からの翻訳、中村友紀 )

2010年6月6日から2010年9月26日まで「パウル・クレー・センター ( Zentrum Paul Klee )」 にて開催。オープニングセレモニーは6月6日に行われた。

画家パブロ・ピカソは1881年、スペインのマラガ ( Malaga ) に生まれる。
17歳の時に美術の勉強を中断しパリに赴く。そこで大画家の地位を確立する。
1973年、フランスのムージャン ( Mougins ) で死去。

画家パウル・クレーは1879年、ベルンに生まれる。
美術の勉強のためミュンヘンに赴き1993年までドイツに逗留する。
1920年からヴァイマール ( Weimar ) のバウハウスで教鞭をとり、その後、デッサウ  ( Dessau ) とデュッセルドルフでも美術を教える。
ベルンに帰郷後の1935年、皮膚硬化症を発症。1940年、スイスのロカルノ・ムラルト ( Locarno-Muralto ) にて死去。
クレーは生前に高く評価された芸術家だ。

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