ジュネーブの教会で「声明」が響きわたる 鎮魂と平和への祈り
高く澄んだ真言宗の「声明」の声がジュネーブ・サンピエール寺院の天井へと一気に駆け上り、共鳴し、ゆっくり降りてくる。そこへフルートの低い音が、さまざまな「存在」を辺りで遊ばせるようにメロディーで色彩を加える。ジュネーブで5月30日に行われたコンサート「バーゼル・フルート・トリオ&高野山声明」は、観客の心と一体になった静寂な祈りのひとときとなった。
「あのように声が高く上るときは、さまざまな仏様が一緒に喜んでくださっているのです」と藤原栄善僧正がコンサートの後でこう話す。さまざまな仏様と言いますと・・・?「ここ、教会ではキリスト様にも一緒にお祈りに参加していただくようお願いしました。そして亡くなられた方々も仏になられるように祈ったのです」
弘法大師が日本に持ち帰った真言宗のお経の声明(しょうみょう)は千年の歴史を持つ。その後さまざまな経緯をへて、今も「南山進流声明」として高野山を中心に脈々と受け継がれている。それは師匠と弟子の一対一の口頭伝承だ。遠くインドから伝えられた後日本で独自に発展したのか、時空を超越したような「メロディー」は、ヨーロッパのグレゴリア聖歌にも似て、すべての人の心に強く響く。あるスイス人の観客は「聖書の言葉が心に浮かんだ」と話した。
今回ジュネーブを皮切りにベルン、バーゼル、チューリヒ、ルガーノを回るこのコンサートには、日本各地から真言宗の僧侶12人が集まった。藤原僧正がその指揮を執る。若い3人のフルート奏者は、バーゼルで音楽を勉強した日本人。そして、この声明と西欧のフルートのコラボを発想したのは、若手音楽家育成の「アヤメ基金」をバーゼルで創設した野川等さん(71)だった。
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ジュネーブ・サンピエール寺院での南山進流声明とフルートの演奏
野川さんのレクイエム
「初めて高野山の南山進流声明を聞いたとき、日本の歌の起源である声明と西洋の楽器フルートはピタリと合うと思った。それは理屈でなく直観だった」と野川さん。すぐに、声明の録音を作曲家の平井京子さんに送り、声明とフルートの曲を依頼した。
この二つを組み合わせるのは、前代未聞の試み。だが、それは野川さんだからこそできた発想だろう。若くしてドイツで精神病理学を、次いで宗教学を学び「聖職につく資格を取得する寸前に妻との結婚でやめてしまい」、バーゼルに移ったという経歴を持つ。チェロを6歳で始めている。それに古楽(中世西洋音楽)にも造詣が深い。
そして日本の大磯の実家が真言宗だった。「幼いときいつもこの声明を聞いていた。声明の、特にこのフルートとの協奏を聞くと、田んぼのあぜ道で遊んでいた子どもが夕方家に帰る、そんな情景が浮かんでくる」。それは自分の幼いときの姿でもあると言う。
西欧の音と日本の音、それに伴う情感を深く体の中に積み重ね、精神面でも二つの世界の宗教・哲学を追求した野川さんには、その上で「戦争の犠牲で亡くなった父親のことが今も心に残っている」。その想いに、長崎・広島の原爆や津波、また世界の災害で亡くなった罪のない人々の姿が重なる。
それらをすべて包含し昇華させてくれるもの。それは「祈り」であり、音楽の形式にすれば「野川さんのレクイエム」だったのだろう。
「人はなぜ生きているのかと考えれば、結局親や先祖がいたからだと気づく。だから、こうしたコンサートでそれに気づき、1分でもいいから先祖に手を合わせること。それが先祖への恩返しになる。また、広島・長崎の原爆や東日本大震災で亡くなられた方たちにも手を合わせ鎮魂すること。それが亡くなった魂に対し安らぎを与えることであり、ひいては自分の安らぎにも通じる」
スイスでの公演はうれしいこと
コンサートは三部からなる。まず第一部は声明だけで20分。花を散らして場を清めるイメージの「散華」と、今回の祈りの趣旨を仏様にお伝えする「対揚(たいよう)」を唱える。対揚の中では「世界中の災害などで亡くなった方々の鎮魂、世界の平和、来場のみな様の幸福、日本・スイス国交樹立150周年の友好関係が今後さらに発展すること、こうしたことをお願いすると伝えた」と藤原僧正。
その後にフルートだけの独奏があり、休憩をはさんで第三部の供養があった。ここで平井さんの曲が使われたのだが、「自分たちはいつもの声明を唱えるだけ。それにフルートがついてきてくれる形」と藤原僧正。
そしてこう続けた。「声明は、いわゆるお客さんに聞いてもらうコンサートではなく、あくまで仏様にささげるお経。しかし真言宗は、宗教・人種の違いを超え、また人・動物・植物の違いも超え、生きとし生きるものをすべてを受け入れる。だから、仏様だけではなくキリスト様にもお祈りを聞いてもらい、スイス人のお客さんも受け入れてその幸福を願い、同時に亡くなった方の鎮魂を私たちと一緒に祈ってくださっていると考えています」
だから、スイスの教会で仏教の声明を唱えるという、(しかも日本・スイス国交樹立150周年を記念する)「一風変わったコンサートの申し出」が野川さんからあったときも、「すぐに引き受けました」。「ここ、キリスト教の教会で平和を願い鎮魂を唱えられることが本当にうれしいのです」と言う。
「真言宗はオープンなところがいい。そして、人間は何の宗教でもいいけど、支えになるものが絶対に必要だと思う」と野川さん。
コンサートの始めにこう話した。「150年前、スイス人と日本人がスイスの教会でこうして一緒に声明を聞くなど、誰が想像したことでしょう。今後の150年に思いをはせながら、一緒に鎮魂の祈り、平和への祈りができることを本当にうれしく感じています」
日本からドイツに留学。ドイツで精神病理学・精神分析を専攻し、その後ルツェルンの病院で麻薬患者のカウンセラーの仕事に就き、夜は宗教学を学びに大学に通った。
同時にアッぺンツェルンでベトナムの孤児を引き取り、スイスの学校に入学させる支援活動も行った。現在もこの支援活動を行いながら、若い音楽家を支援する「アヤメ基金」を創設。
2009年から、スイスで育った音楽家、ないしはスイスで音楽活動をする音楽家を日本に連れて行き演奏会を行う「SWISS WEEK」を日本で行ってきた。
今後の公演は以下の予定。
5月31日、ベルンのフランス教会(Französische Kirche)で17時開演。
6月1日、バーゼルのカジノ(Stadcasino Musiksaal)で16時開演。
6月3日、チューリヒの教会(Predigerkirche)で19時開演。
6月4日、ルガーノのコングレス広場(Palazzo del Congressi)で20時開演。
今回のコンサートは、日本・スイス国交150周年を記念するツアーの一環。スイスの前に日本で今年3月、声明の8人の僧侶とバーゼルで古楽を学んだ音楽家のグループ「アンサンブル・プロフェティ・デラ・カンタ」の9人が長崎、広島、高野山、東京などで公演した。
150年前、スイスからの使節団が日本に上陸した長崎を日本ツアーのスタートにしている。演奏開始前、長崎の原爆犠牲者のために平和公園の仏舎利の前で祈ったとき、祈りの後に見事な虹がかかったという逸話が残っている。
なお、真言宗の僧侶たちは、阪神大震災で亡くなった方の魂を慰めるため、法会以外の場所での声明を約12年前から行っている。
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