ジバンシィと結んだ「深い信頼関係」 スイス人テキスタイルデザイナー、エーリヒ・ビーレ
パリ・オートクチュールで活躍したスイス人テキスタイルデザイナー、エーリヒ・ビーレ氏が6月、死去した。その少し前に同氏は記者のインタビューに応じ、ユベール・ド・ジバンシィやイヴ・サンローラン、オードリー・ヘプバーンらとの親交に彩られた人生を振り返った。
記者がビーレ氏と初めて会ったのは、チューリヒの旧市街ニーダードルフ地区で行われた同氏のシルクスカーフ展だった。今春には同氏の自宅やアトリエ、あるいはチューリヒの老舗レストラン、クローネンハレなどで数度にわたりインタビューする機会を得た。
アトリエには、ジバンシィのドレスをまとったオードリー・ヘプバーンやマイケル・コースに身を包んだアナ・ウィンターらの写真が多数飾られていた。もちろんテキスタイルはどれも自身のデザインだ。同氏は6月18日、死去した。
インタビューでビーレ氏は、イヴ・サンローラン、ユベール・ド・ジバンシィ、オードリー・ヘプバーンとの出会いや、一時住んでいたニューヨークを離れた理由について述懐した。
swissinfo.ch:テキスタイルデザイナーになったきっかけは?
エーリヒ・ビーレ:学校を卒業後すぐ、オートクチュールでは最も有名な絹織物商社の1つ、ルートヴィヒ・アブラハムに実習生として入社しました。そのおかげでまだ若い自分にもパリ・ファッション界の扉が開きました。
アブラハムのパリの子会社社長で1968年からは単独オーナーとなったグスタフ・ツムシュテーグがチューリヒのレストラン、クローネンハレを所有していたので、レストランの上にあるアトリエを使えることになりました。
特定の作風に縛られるアーティストと違い、デザインの場合は毎日何か違うことができる。私は常々そこに魅力を感じていました。
あなたの仕事にとってパリの存在は大きかったのでは?
パリは芸術の世界であり、ファッションの世界であり…世界そのものでした!
60年代から80年代にかけてのパリの日常はとても刺激的でした。一時期私はスイスから毎週のようにパリを訪れ、サンジェルマン・デ・プレ広場のカフェに通っては飲み物を片手に人々を観察しました。広場ではストリートミュージシャンが演奏したり、パントマイムのアーティストが通行人の後をつけて動きを真似たりしていました。
私はこの街に触発され、影響を受けたのです。それと同時に私も街に影響を与えました。
視覚的には赤のドレスよりも柄物の方がパワフルです。記憶にも残りやすい。イヴ・サンローランのシルクスカーフが発売されると、私のデザインは世界中に広まりました。
あなたはキャリアをスタートしてまもなくイヴ・サンローランとの仕事を始め、それは彼が引退するまで続きました。サンローランのコレクションへのあなたの影響とは?
テキスタイルデザインに幾何学模様を取り入れたのは私です。1950年代のパリでは小さな柄や花が主流でした。
当時は例えばクリストバル・バレンシアガならばスズランやドットを使っていたでしょう。一度バレンシアガのメゾンを訪れたことがありますが、その時彼にシルクスカーフを数点作るよう頼まれました。ショーウィンドーがかなりさびれていて、スカーフを飾ることでイメージチェンジを図ったのです。バレンシアガは大きな幾何学模様を使った構図をとても気に入ってくれました。
サンローランのために作ったシルクスカーフには別種の幾何学模様を使いました。参考にしたのは画家ヨハネス・イッテンです。私はイッテンからフォルムと色が及ぼす作用や気分への影響を学んだのですが、彼、ひいてはそのバウハウスのスタイルから受けた影響の大きさを自覚したのは、ずっと後になってからです。
あなたはチューリヒのアブラハムで2年間働いた後、北米に移りました。旅立ちの理由は?
私の実家はルツェルン湖畔にありましたが、まるで荒野のような環境でした。園芸に使う支柱でテントを作り、その中でインディアンさながらに寝起きしたりしました。ずっと米国に憧れて育ったのです!
私はアブラハムを辞めるとニューヨーク行きの船に乗りました。そしてカナダでスキーのインストラクターとして働きながら伝手を頼って連絡を取り始めました。
例えばある大手の印刷会社ですが、定期的に社員をチューリヒに派遣してアブラハムから生地を仕入れ、ニューヨークでこれらのテキスタイル――私がデザインしたものもありました――を印刷物に転写してプリントしていました。私はブロードウェイにあるアトリエに通ってこの会社を手伝いました。
そこではあるデザイナーから和紙にワックスを塗る面白い技法を教わりました。当時まだ無名でお金に苦労していたアンディ・ウォーホルが、スケッチを売りに来ることもありました。彼はテキスタイルを使った実験をしていて、私にもアドバイスを求めました。近くにあった彼のアトリエ「ファクトリー」にも何度か足を運びましたよ。
全体として米国人は欧州人よりもオープンで気さくだと感じました。
それでも戻ってきたのですね。
ベトナム戦争のせいです。そのため飛行機で帰国することになりました。新しいワックス技法の知識と、欧州にはまだなかった鮮やかな色のスケッチを携えて。
その後、以前アブラハムで上司だったグスタフ・ツムシュテーグと連れ立ってパリのイヴ・サンローランを訪ねたのですが、その時彼は私からスケッチを取り上げようとしました。メゾンの入り口まで来ても「ここで待つように」などと粘りました。彼はそれまで一度も私をイヴ・サンローランに会わせたことがなく、他のデザイナーからも私の存在を隠していました。しかし、米国生活でかなり自信をつけた私は、入り口へと進みました。私のスケッチを見たサンローランは飛び上がらんばかりに喜びましたよ!
サンローランは、これらの作品を新しいコレクション「Les africaines(仮訳:アフリカ人たち)」に採用しました。彼を一躍有名にしたコレクションです。黒人モデルがパリのランウェイに初めて登場したことでも話題になりました。
1960年代半ばまでシルクスカーフはほぼエルメスの独壇場でしたが、イヴ・サンローランが市場に参入すると大ブレークしました。ありとあらゆる機内免税や免税ショップがサンローランのスカーフを扱いました!
エーリヒ・ビーレは1941年ルツェルン生まれ。2024年6月18日にチューリヒで死去した。チューリヒのテキスタイル専門学校でヨハネス・イッテンに学ぶ。卒業後はルートヴィヒ・アブラハムの社員として、後にはフリーランスとして、バレンシアガ、ディオール、イヴ・サンローラン、シャネル、ジバンシィなどのメゾンでデザインを手がける。1976年以降ジバンシィで様々なポストを歴任。91年バリーに移籍。96年アブラハムを買取り02年の破綻まで同社の経営に当たった。14年、スイス文化庁のグランプリデザイン賞を受賞。
イヴ・サンローランは癇癪持ちだったとか。身をもって経験したことはありますか?
私自身はありませんでしたが、スタッフや彼のパートナーのピエール・ベルジェから聞いて知ってはいました。イヴは夢の世界に生きていたのです。しょっちゅうアヘン窟に消えてはピエールに連れ戻されていました。ピエールはイヴの共同創業者としてビジネス面を切り盛りしていましたが、それに対する感謝は一切ありませんでした。私はピエール・ベルジェ抜きにイヴ・サンローランは存在しえなかったと確信しています。
ユベール・ド・ジバンシィとは意気投合しましたね。
初対面から友情が芽生えました。ユベールは傑出した人物でした。私は彼を通じて多くのクチュリエやアーティストと知り合ったのです。彼が夏休みに入ると私はドローイングを持って(南仏)フェラ岬の彼の邸宅を訪ね、一緒に仕事をしました。彼の方も私と私の家族を訪ねに(スイスの)アールガウまで来てくれました。
ユベールは私の子どもたちが大のお気に入りで、他の人はめったに入ることの許されないアトリエにも出入りさせていました。私はアトリエでオードリー・ヘプバーンに紹介されたことがあります。彼女は物腰も模範的なら優雅さでもお手本のようでした。一度チューリヒからルツェルンに向かう列車の中で見かけたことがありますが、彼女は私に気づくと「以前お会いしましたよね」と話しかけてくれたのです。スターからいわばすれ違いざまに認識してもらったのはそれが初めてでした。
ヘプバーンはビュルゲンシュトック(ルツェルン湖を望むホテルリゾート)に向かう途中だったのでしょうか?
そうです。ホテルのプールで何度か見かけました。私の当時の恋人はビュルゲンシュトック・ホテルのオーナーの娘でしたから。
ジバンシィとヘプバーンの関係をどう表現しますか?
プラトニックラブですね。
では、あなたとジバンシィとの友情は?
圧倒的に深い信頼関係です。
あなたは挫折も経験しましたね。
私は1996年にアブラハムを引き継ぎましたが、同社が倒産寸前だったとは知りませんでした。そのためにバリー(スイスの有名靴ブランド)での魅力的な仕事も辞めたのに、2002年までに何もかも失ってしまいました。貯金も年金も山の別荘も、そして最後には妻までも。彼女はこの波乱を生き延びられませんでした。
私に残されたのは頭脳と才能だけでした。グスタフ・ツムシュテーグの経営方法について、今は疑念しかありません。狡猾(こうかつ)で不透明でした。
クリエーターとして生きることはとても困難です。あなたが成功できた理由は何だったのでしょう?
私の人生の多くは偶然の産物です。今も使っているワックスの技法をニューヨークで学んだこともそうです。ワックスはすぐに乾いてしまうため咄嗟(とっさ)の判断力が鍛えられます。
しかし、殻を破って何かに賭けることをためらわなかった点、これは偶然ではありませんでした。
私は一心に働きました。何かに魅了され夢中になればエネルギーが湧きます。決して重荷には感じません。パリに行った当初、どれだけ稼げるかはどうでも良かった。大事なのは誰のために働き、そこから何が生まれるのかという点でした。そして、評価されることもです。
編集:Benjamin von Wyl、独語からの翻訳:フュレマン直美、校正:宇田薫
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