ヒロシマから学ぶドキュメンタリー映画
フリーランスのドキュメンタリー映画製作者ドメーニグ 綾さん(39)はスイス人を父に、広島出身の女性を母に持つ。亡き祖父は、原爆が人体に与えた影響をよく知る1人だった。
現在ドメーニグさんは、祖父が体験したヒロシマから今の社会が何を学べるかを追求し、原爆や原発の放射能問題を通して人間や社会の内面に迫る記録映画を製作しようと調査を進めている。
ドメーニグさんの祖父、土井茂さんは広島に原爆が落ちたとき内科医として広島赤十字病院に勤めており、現地で被曝者の治療に当たった。「でも、祖父はその経験について一言も話さなかった。不思議だったこと、知りたいと思うことがたくさんあった」と、京都生まれで現在チューリヒに住む孫娘のドメーニグさんはしっかりした日本語で言う。
運命的なタイミング
ドメーニグさんはチューリヒ大学で文化人類学、映画学、日本学を学んだ後、チューリヒ芸術大学(Zürcher Hochschule der Künste)の映像学科に再入学した。卒業映画で祖父の足跡をたどる記録映画を製作しようと思ったが、テーマが大き過ぎて時間が足りず、断念。しかし、いつか必ず作りたいと思っていた。
日本では学生時代に別の映画を3本撮り、芸大を卒業した後、フリーランスとしてテレビ局や市のビデオ製作、映画の撮影や編集などに携わってきた。
そして2010年4月、広島への一時訪問を機に調査を始めた。訪問前、当時祖父と一緒に働いていた看護婦(現看護師)をインターネットで9人探し出し、広島で彼女らを訪ね歩いたが、残念ながら祖父と懇意にしていた人はいなかった。
だがこのとき、ドメーニグさんの関心は祖父から看護師自身へと移っていく。その中の1人内田千寿子さん(88)は、世界中のヒバクシャ(チェルノブイリ、その後のフクシマなど)を支援する広島県府中市の団体「ジュノーの会」のメンバーで、原爆投下後、自身も赤十字病院で救護活動中に被曝した。
ドメーニグさんは、原爆が人々の人生にどのような影響を与え、被曝者が今どのような生き方をしているかということに最も関心を持った。「内田さんは被曝後30年間闘病生活を続けたが、今は元気に畑で汗をかきながら麦を作り、それでパンを焼いて食べたりと健康的な生活を送っている」と感嘆する。
内田さんのそんな話を聞き、スイスに帰国してしばらくすると福島で衝撃的な原発事故が発生した。世界中の放射能に関する情報を集めていたドメーニグさんは、そのタイミングを「運命だと思った」と言う。たどろうとしていた過去と現在が思いもよらぬ形でつながった。
危機をチャンスとして
ドメーニグさんはその後も内田さんと連絡を取り続けた。また、広島の被曝者の治療に当たった医師として現在ただ1人生き残っている肥田舜太郎さん(95)とも出会った。祖父の過去を探す中で人と人との点がつながっていった。
取材を通して、ドメーニグさんは浜岡原発反対運動をしている人とも知り合った。そして、同じ脱原発派にもいろいろな考え方があることを知った。「福島原発事故後、肥田先生は、全員を疎開させることは無理だから、抵抗力を高める健康的な生き方をしていくべきだと言う。それに対してジュノーの会の人たちは、一刻も早く福島の人を疎開させるしかないと話す。いろいろな声を聞くが、最終的にはみんな迷っている」
しかし、今回の原発事故をある種のチャンスと見ることもできるとドメーニグさんは考えている。「内田さんが原爆体験によって目覚め、戦時中からの受け身のスタンスを捨てて自らの考えで行動するようになったように、今の人々もフクシマを契機に新しい意識を持つようになるかもしれない。日本の人々がこれからどんな風に変わっていくのか、あるいは世論が果たして変わるのかということも追っていきたい」
反原発映画を越えて
映画では、この内田さんと肥田さんが中心人物になる予定だ。ほかの登場人物もまた全員がこの映画の出発点であるヒロシマに関わる人々だ。「広島ですらも原爆のことが忘れ去られつつある。映画を通じて、原爆を経験した人が今どういうふうに生きているのか、どういうふうに考えているのか、また原爆が彼らの考え方をどう変えたかということを伝えたい」
肥田さんからはまたこんな話も聞いた。「戦後、米軍は日本人に対し、被曝者の病気に関する調査を一切禁じた。内部被曝に関する事実が隠蔽され、そのため放射能の影響でいろいろな病気が出ても、それを科学的に証明できなかった」。こうして広島には、被曝者でありながら国の援助を受けられない人が数多く存在することになった。「福島でこの歴史が繰り返される危険性をすごく感じている」とドメーニグさんは危惧する。
原爆、あるいは原発の一番の問題、放射能についてはインターネットで何週間もかけて調べた。そのとき、コソボやイラクにも劣化ウラン弾の使用で汚染されている地域がたくさんあることを知り、愕然とした。そして、「反原爆、反原発映画にとどまらず、このドュメンタリーでは根本的な問題、つまり私たち一人ひとりが負うべき責任について問いかけなければ」と思った。
原爆記念日は広島で
映画の準備費用はスイス政府や国営テレビ局などの助成金で賄っている。現在はまだ調査段階で、2011年には春と秋の2回日本でリサーチをした。今年2月に助成金申請の審査があり、これに合格すれば製作費用が支給される。
いずれにしても、今年の夏には2カ月間日本に滞在して本格的に撮影を進める予定だ。「原爆記念日の8月6日は絶対に日本にいて撮影したい。この歴史的な日に、ヒロシマの過去と現在のフクシマの危機との繋がりに関する発言を聞きたい」と話す声に力が入る。
映画は70分間から90分間、2013年3月にスイスの映画館で封切りしたいと考えている。まだ少し早いが、そのあとの計画を聞いてみた。「次のテーマはまだ決めていないが、今回の原発事故のことでとても考えさせられた。このテーマを続けていくかもしれない。私は、個人が負うべき責任と問題意識に強い興味を持っている。一人ひとりの意識が変わらないと何も変わらない」と語る。
日本との関係について聞くと、「日本は2番目の祖国。日本で生まれ、4歳でスイスに来たが、日本が好き。赤ちゃんのころに味わった日本固有の雰囲気が原体験として強く残っている」と言う。そして、「日本で映画を何本か撮って、もう撮らないぞと思ってもまた日本へ行ってしまう。どうしようもない」と笑う。
ヒロシマを語ろうとしなかった祖父への想いから出発した映画作り。製作準備中に、時代をすり抜けてフクシマへとつながった。現在新たに放射能に苦しみ脅かされる世の中にメッセージを発信する、このまだ名もない映画の完成が待ち遠しい。
1972年京都府亀岡市に生まれる。
チューリヒのギムナジウム(高校)を卒業後、フランスに語学留学。
1992年から2000年までチューリヒ大学で文化人類学、映画学、日本学を学ぶ。
1994年、日本に語学留学。
1996年から1997年まで一橋大学に留学。
2001年から2005年までチューリヒ芸術大学(Zürcher Hochschule der Künste)で映画/ビデオを学ぶ。
現在フリーランスとして、監督、カメラ、編集などで種々の映画・ビデオ製作に携わる。
5歳の子どもの母親。
「親方」、記録映画。1999年、37分間、DVD。
広島の下町で伝統工芸の仏壇彫刻の製作に携わる男性の姿を描く。
チューリヒ大学卒業制作作品。
第7回ロンドン民俗誌映画祭でJVC学生ビデオ賞を受賞。
「ひとり旅」、記録映画。2004年、21分間、DVD。
京都、鴨川のホームレスのポートレート。
チューリヒ芸術大学在籍中の作品。
「春いちばん」、フィクション。2005年、22分間、スーパー16ミリ/35ミリ。
スイス人と結婚する若い日本人女性の日本出発前の時間。
チューリヒ芸術大学在籍中の作品。
2006年、フランスのアンジェ映画祭でシネシネマ賞を受賞。
「変遷する埋葬文化(Bestattungskultur im Wandel)」、2006年。
チューリヒ市埋葬・墓地局の委託により、監督・編集を手掛ける。
「ルオ・ピンの素晴らしい世界(Die Wundersame Welt des Luo Ping)」、2009年。
チューリヒ、リートベルク美術館製作。共同編集者として参加。
2010年から長期プロジェクトのドキュメンタリー映画製作に関わる。
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