ローザンヌ国際バレエコンクール 人生をダンサーたちに捧げて
「ダンサーを助けることが私の人生の使命だ」と、ダンサーの登竜門「ローザンヌ国際バレエコンクール」の創設者フィリップ・ブランシュバイグ氏はきっぱりと言った。
9月30日は第38回同コンクールの応募締め切り日。今年も日本から多くの若いダンサーが応募した。英国ロイヤル・バレエ団のプリンシパル、吉田都氏も同大会のかつての受賞者だ。ブランシュバイグ氏は今、若いダンサーを育てる仕事を終え、ダンサーたちの第2の人生を助ける仕事に専念する。
物理学科の学生がダンス
「ダンサーは現代の消費生活とは対極にある、いわば修道僧に近い生活を送る人たちだ。踊るためにのみ生きている。こういう道を歩む人を援助したかった」
とブランシュバイグ氏はコンクール創設の動機を語った。
この動機の背景には、一緒にコンクールを創設した妻のエルビールさんが、プロのダンサーだったこともあるが、本人も物理学を専攻する学生だったにもかかわらず10数年間ダンスを学んだことがある。
文学、音楽、美術、哲学など多分野に興味を持つブランシュバイグ氏は、前世紀初頭にロシア・バレエ団 ( バレエ・ルュス ) を創設した多才なセルゲイ・ディアギレフに感銘し、憧れていた。「ディアギレフに近づくには、ダンスとは何かを理解する以外にない」と連邦工科大学チューリヒ校 ( ETHZ/EPFZ ) の学生だったときにダンスを始めた。
未来の妻エルビールさんに出会ったのは、ダンスの夏季講習に出かけたカンヌのダンス学校の鏡の前だった。
トップの審査員、審査の透明性、改革
出産などを契機にプロの道を断念したエルビールさんとブランシュバイグ氏は、「舞踏芸術基金」を1969年に創設し、1973年に参加者50人で「第1回ローザンヌ国際バレエコンクール」をスタートさせた。
しかし、崩壊の危機はすでに第2回目の大会に訪れた。さまざまなコーディネーションがうまくいかず、優勝者の発表に1時間もかかり、観客はしびれを切らして帰り始めた。「もうこれで終わりだ」と思ったという。
救い主は現在の会場「テアートル・ド・ボーリュー ( Théâtre de Beaulieu ) 」の提供者マルク・ミュレ氏だった。結局コンクールがうまくいくには、十分な数の着替え室、練習場などインフラが整っていることが基本だ。また、英国ロイヤル・バレエスクールが、コンクール入賞者奨学金を受け入れると言ってくれたことも重要だった。
「ロイヤル・バレエスクールは、生まれたばかりの赤ん坊のようなコンクールに信頼性を与えてくれた」
とブランシュバイグ氏は今でも当時の学長マイケル・ウッド氏に感謝している。
また、ブランシュバイグ夫妻は創設当初から、次のような基本は決して崩さなかった。審査委員には、必ず世界のバレエ界のトップだけを呼ぶ。審査基準は明確で、透明性が高くごまかしがないこと。コンクール後には必ず反省会を開き次回に生かすことの3点だ。これは現在の後継者にもきちんと受け継がれている。
特に、反省会を開き改革を続けていくことは、すべての基本だとブランシュバイグ氏は考える。これは、1000人の従業員を抱える時計部品メーカーの最高経営責任者 ( CEO ) としてのマネージメント哲学からきている。さらに、経費は必ずスポンサーからのお金を使い、自分のお金はパーティー代など以外は一切出さない。「出すと、コンクールを私物化しダメにしてしまう」という信念を持つ。
吉田都氏や熊谷哲也もコンクール受賞者
1956年から仕事で毎年訪れた日本には特別の思い入れがある。当時日本では外国から来るオーケストラなどには十分なお金を使うが、日本国内で西欧文化にかかわるダンサーなどへの援助はほとんどなかった。
「この国の若いダンサーを助けなくては」と思ったブランシュバイグ氏は、東京でもコンクールを1989年に開催した。また、審査員には必ず1人の日本人を入れるようにした。世界の第一線で活躍する吉田都氏や熊谷哲也氏が育ったのは、コンクールのお陰だと人から言われると心から嬉しく感じる。
しかし、1998年には25年間務めたコンクールの会長を辞任。
「歳を取れば取るほど賢明になるというのは神話だ。もっと長く居座ったらコンクールをダメにしてしまうと思った」
からだと言う。
共に歩んできた妻のエルビールさんが2年前亡くなった。それでも81歳の現在、プロとしての人生が3、40歳までと短い、ダンサーたちの第2の人生を助ける仕事に奔走する。ダンス学校やカンパニーは心理学者を置き、引退の精神的準備や新しい職業の適性テストなどを行うべきだと力説する。「ダンサーは厳しい訓練に耐えてきた努力家だ。必ず第2の人生でも成功する」と信じているし、実際、弁護士などになったダンサーも知っている。
11月にはこうした点で先駆的なカナダのトロントのダンス学校に公演の旅に出かける。
1928年8月、スイスに生まれる。
1949年、連邦工科大学チューリヒ校 ( ETHZ/EPFZ ) で物理学専攻の学生だったとき、ロシア・バレエ団 ( バレエ・ルュス ) の創設者セルゲイ・ディアギレフに感銘しダンスを始める。
1950年、夏季講習が行われたカンヌのダンス学校で、未来の妻エルビールさんに出会う。
1969年、「舞踏芸術基金」を創設。ローザンヌ国際バレエコンクールの構想が始まり、モーリス・ベジャール氏も協力する。ブランシュバイグ氏はこの年までは、時計部品メーカーの最高経営責任者 ( CEO )として企業運営に専念。日本には1956年から毎年、ビジネスで訪れている。
1973年、「第1回ローザンヌ国際バレエコンクール」がスタート。
1986年、時計部品メーカーを売却。ローザンヌ国際バレエコンクールに専念する。
1989年、日本でローザンヌ国際バレエコンクールの決勝大会が開催される、同コンクールを広めるための同様な企画が、ニューヨークで1985年、モスクワで1995年に開催された。
1998年、25年間育ててきたローザンヌ国際バレエコンクールの会長を辞任。後継のスタッフに譲る。
2007年、妻エルビールさん死去。
2009年、以前から手掛けてきた、引退後のダンサーの第2の人生を援助するため活躍を続ける。
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