「まだ旅は始まっていない。おまえのも、私のも。まだふたりとも大きなできごとを前に控えている。・・・どこにいても、おまえを守る。おまえの大冒険の第一歩の証人であるには十分とは言えないけれどあらんかぎりの愛をこめて・・・」これは、第2次大戦で亡くなったドイツ兵がまだ見ぬわが子にあてた手紙だ。
このコンテンツが公開されたのは、
里信邦子(さとのぶ くにこ), swissinfo.ch
ジュネーブで11月29日、「六本木男性合唱団倶楽部」の団員約100人はオーケストラの唸るようなバイオリンに合わせ14の手紙を歌い上げた。最後に会場は数秒の静けさに包まれ、次いで割れるような拍手が沸き起こった。
戦争という不条理
「このドイツ人の詩だけは歌えない。どうしても歌えないのだと言う団員が数名いる。彼らはみんな、戦争で父の顔を見ることなく育った人たちだ」と作曲家の三枝成彰氏は言う。
19歳のとき読んだ『人間の声ー第2次世界大戦戦没者の手紙と手記』(高橋健二訳)に深く心を揺さぶられた三枝氏は、いつかこれを曲にしたいと考えていた。「そして50年かかり思いが形になった」
2010年同合唱団の10周年記念に作曲された曲「最後の手紙」は、『人間の声』に収録された約200通の手紙から14通が選ばれたものだ。兵士たちの国籍はドイツ、日本、イギリスなどすべて異なり、中にはトルコ人でフランスのレジスタンスのために戦死した兵士までいる。「ただ共通しているのはみんな若くして亡くなり、まだ見ぬわが子や、妻、そして母を想い、戦争という不条理を訴えながら、平和を、それもささやかな日常的平和を願っていたということだ」
9曲目には、「戦争中に四季が私の上を過ぎ、空の入り江を秋が溢れる・・・」と始まる韓国の詩人尹東柱(ユン・トン・ジュ)の手紙が選ばれている。尹東柱は朝鮮独立運動に参加し1943年京都で逮捕され、最後は福岡刑務所で獄死。人体実験で亡くなったともいわれる。27歳だった。14歳で少年兵となった中国人の手紙もある。
「国境を越えた悲劇ではある。しかし、第2次大戦で亡くなった人たちの半分はドイツ兵と日本兵に殺されたという事実は、この曲を作っていく過程で非常に重かった」と三枝氏は言う。
赤十字運動の創始者アンリ・デュナンの地で
「政治家がいくら平和を訴えても心を打たない。しかし、死を覚悟した普通の兵士一人一人の言葉は純粋で重く、心を揺さぶる。国境を越えた1人の人間としての叫びを集めたこの合唱曲は、まさに赤十字運動の創始者、アンリ・デュナンの敵味方なく兵士を救う人道の心に通じる」と国際赤十字・赤新月社連盟(IFRC)の近衛忠煇会長は言う。
実はこの合唱団の団員でもある近衛氏は、11月28日から始まった「赤十字・赤新月国際会議」の会期中にデュナンの地ジュネーブで、ぜひこのコンサートを実現したいと願っていた。
ところが、この計画の進行中に東日本大震災が起こった。近衛氏にとっては日本の大災害に援助の手を差し伸べてくれた世界の赤十字社に対するお礼の意味も、このコンサートに付け加わった。
私たちに平和を下さい
休憩時間がなく、一気に行われた1時間40分の演奏は、最後に「Dona Nobis Pacem (ドナ・ノビス・パーチェン/私たちに平和を下さい)」の曲で幕を閉じる。これは「チェロの為のレクイエム」と副題にあるように、低いチェロの音が静かに緩やかに、亡くなった兵士たちの魂を慰めるように、流れる。
「歌い始めた時は、歌詞を覚えるだけで精いっぱい。しかし、慣れるにつれ、歌詞の重みや意味、そしてメロディの意味が分かるようになり、内容の重さを超えたところになにか希望のようなものが感じられるようになる」と団員の1人は話す。
三枝氏は作曲を通じて「なぜ戦争が起こるのか、なぜ今も戦争は続くのか」を原始の人間の歴史なども紐解きながら考え抜いた。そして究極的には、世界が一つになるしか平和の道はない、そういう意味で欧州連合(EU)はその第一歩だと考える。
「ただ」と最後に語気を強め、「今、日本で起こっていることは戦前の日本と同じ。何も変わっていない。(福島原発事故に関し)政府もメディアも真実を言わない。福島の人は怒りの声を上げるべきだ」と付け加え、「平和は、ささやかな平和は、やはり監視していかなければ築けないものなのだ」と話す。
1999年、エイズ・チャリティの為に、編成された約20人の「元美少年合唱団」が母体。
解散を惜しまれ、2000年に再編成され現在の「六本木男性合唱団倶楽部」となった。
現在の団員数は236人。ジュネーブ公演には105人が来た。
三枝成彰団長のもと、日本を代表する財・政・文化界のメンバー、医者、弁護士、教師、サラリーマンなどさまざまな職種の人が集まっている。
年齢層も20代から80代までと幅広い。
年間10回のステージをこなす。海外公演も多く、今までに8カ国に行っている。
今回の「最後の手紙」は、言葉のテンポが極端に早いなど難曲で、週2、3回集まり計100回の練習を行ったという。
また、「最後の手紙」は1年前、サントリー大ホールで行われ、今回初めて海外で公演された。今回在日本スイス大使など、外国の大使たちからも絶賛され、、今後そうした国々を含む世界中での公演が期待されている。
続きを読む
おすすめの記事
国連オーケストラ、美しい音楽を奏でる人道支援活動
このコンテンツが公開されたのは、
昼間は世界の結核撲滅のために世界保健機関(WHO)で活動し、夜はオーケストラでチェロを演奏 ― そんな二つの顔を持つ医師がいる。彼は、国連の職員などで結成する国連オーケストラの一員だ。
クリスチアン・リーンハルト医師がWHOの伝染病学者としてインド、エチオピア、ベトナム、そのほかの結核リスクの高い地域に行くときは、チェロを持参することはない。
だが、新しい治療法を試すハードなフィールドワークを終えて夕方ホテルに戻れば、ノートパソコンを開いてイヤホンをつけ、楽譜をめくりながらオーケストラの楽曲を聞くこともある。国連オーケストラの団員であるリーンハルトさんの、次のコンサートに備えた練習のやり方だ。
もっと読む 国連オーケストラ、美しい音楽を奏でる人道支援活動
おすすめの記事
山田和樹、スイス・ロマンド管弦楽団との蜜月は続く
このコンテンツが公開されたのは、
ワルツのリズムに乗り、バイオリンを自分で弾くかのように指揮者の山田和樹さん(34歳)が体を揺らしている。シンバルの響きに、山田さんの両手も高々と上がる。曲の最後、指揮棒とバイオリンの弓が空中でピタリと一致し、止まる。一瞬の静寂。割れるような拍手。指揮者とオーケストラがこれほどまでに一体化した演奏は少ないのではないか?スイス・ロマンド管弦楽団の首席客演指揮者に就任して2年目を迎える。山田さんにオケの持ち味やオケとの「蜜月ぶり」、指揮者としての哲学などを聞いた。
ジュネーブのヴィクトリアホールで10月16日、18日、山田さん指揮でスイス・ロマンド管弦楽団が演奏したのは、リスト、スクリャービン、リヒャルト・シュトラウスなど、ロシア、ドイツの19世紀後半から20世紀前半の作品と、珍しいプログラムだった。
もっと読む 山田和樹、スイス・ロマンド管弦楽団との蜜月は続く
おすすめの記事
赤十字国際会議、福島も災害法強化の教訓に
このコンテンツが公開されたのは、
また、紛争地の犠牲者の法的保護や人道活動に従事するボランティアの法的保護など、法的側面から人道活動を守り国際人道法を強化していく。 「人道活動は今日困難を極めている。人道援助が以前にも増して求められているにもかかわらず…
もっと読む 赤十字国際会議、福島も災害法強化の教訓に
おすすめの記事
世界の小澤、渾身の指揮で観客を再び魅了
このコンテンツが公開されたのは、
大病から回復した小澤氏だが、今年の海外での指揮はこのジュネーブと7月6日のパリ公演2回に限られているという。 小澤氏の指導に応える 細身の体を黒い上着に包み、銀髪をなびかせながら舞台の上に現れた小澤氏をジュネーブの観客…
もっと読む 世界の小澤、渾身の指揮で観客を再び魅了
おすすめの記事
小澤征爾「教えたくなるのは本能」
このコンテンツが公開されたのは、
「スイス国際音楽アカデミー」は小澤征爾氏が創設した音楽講習会だ。フランス、ドイツや北欧の国々から選ばれた若いバイオリン、チェロなどのソリストが、弦楽四重奏の練習を10日間行う。練習の合間に音楽教育、音楽の本質などについて小澤氏に聞いた。
もっと読む 小澤征爾「教えたくなるのは本能」
おすすめの記事
「赤十字の父」アンリ・デュナン
このコンテンツが公開されたのは、
デュナン生誕の5月8日は「世界国際赤十字・赤新月社デー」。特に今年は、「赤十字国際委員会 ( ICRC ) 」創設の契機となったソルフェリーノの戦いから150周年、ICRCから生まれた各国の赤十字・赤新月社を統合する「赤…
もっと読む 「赤十字の父」アンリ・デュナン
おすすめの記事
原爆投下 ジュノー博士の勇気と信念
このコンテンツが公開されたのは、
「父は負傷者や犠牲者を救助するためには、いかなる手段をも使い、やり遂げる人だった」と、マルセル・ジュー博士の息子ブノワ・ジュノー氏は語った。
広島に原爆が投下された64年前の8月6日、赤十字国際委員会 のスイス人ジュノー博士は、連合軍の捕虜調査のため日本に向かう途中だった。到着後、原爆投下後の惨状に驚愕し、マッカーサー総司令官に15トンの医薬品提供を交渉、自らも広島に入った。原爆投下後に医療活動を行った「最初でただ1人の外国人医師」を、広島では「ヒロシマの恩人」と呼ぶ。
天性の性格
「外務省から見せられた写真と、自らが派遣した赤十字国際委員会職員が報告した惨状にショックを受け、本来の任務である連合軍の捕虜調査を一時休止し、父はただちに連合国軍総司令部 ( GHQ ) に医薬品輸送を掛け合った」とブノワ氏。当時、日本で緊急医薬品を所持していたのはGHQだけだった。 しかし、ブノワ氏によると、原爆投下後の惨状とその規模を絶対秘密にしておきたかったアメリカは、外国人医師が広島に入ることは外部への情報漏れを促すと、当初は拒否した。だが、ジュノー博士には交渉の切り札があったという。日本に入る前に、満州で拘束されていた捕虜、英雄ウェンライト中将の生存を確認し、それを日本到着後ただちにマッカーサー総司令官に報告していたからだ。 「捕虜待遇などを記したジュネーブ条約を批准していなかった日本軍は、当時簡単に捕虜に会わせなかった。にもかかわらず、それをやった男にマッカーサー総司令官は一目置いた。また情報提供に対し感謝していた。そこで医薬品とともに現地に行く条件で、ようやく承諾した」 こうした交渉能力に加え、ジュノー博士の性格があった。傷つき苦しむ人を目の当たりにし、救助の手を差し伸べると決めたら、相手がノーと言ってもオーケーを出すまで執拗に主張し続ける強い性格だ。 「人を救うためにはたとえ法的規定がなくとも方法を探る」という信念は、150年前ソルフェリーの戦いにショックを受け、戦場で苦しむ兵士を平等に救う国際的組織、赤十字国際委員会 ( ICRC ) 創設の必要性を説いて回ったアンリ・デュナンの精神に通じるとブノワ氏は言う。 「冒険の精神、限界に挑戦する勇気、体力、特に巧みな交渉力。そして政治的洞察力が赤十字国際委員会の職員すべてに要求される。しかし、人を助けることを使命と感じる天性の性格がなければ、アンリ・デュナンもあのような運動を起こさなかったし、父もあのような活躍をしなかったのではないかと思う」
限界に挑戦
「不可能ということを知らなかった。だから彼は実行した」というマーク・トゥエインの言葉はジュノー博士に当てはまると、赤十字国際委員会は記している。 1942年、ドイツの占領下にあったパリで、ロシアとポーランドの捕虜を訪問したいとジュノー博士はドイツ軍部に申し出た。もちろん断られたのだが、手元にあった糸で手品をし、「もし君たちに同じことができたら捕虜訪問はあきらめるが、できなかったら捕虜に合わせて欲しい」とドイツ側に要求。結局手品のできなかったドイツ人たちは捕虜訪問を許可したという逸話が残っている。 広島に関しても同じ精神でマッカーサー総司令官と交渉した。ジュネーブ条約を批准していなかったアメリカには、敵国に医薬品を送る義務はなかったが、ジュノー博士は上述のように、アメリカの捕虜の情報と保護を交換条件に使った。
「限界があってもその限界を乗り越えるにはどうしたらよいかと絶えず考え、可能性を追求するということこそ、父が赤十字国際委員会の後輩に残した最大の贈り物だ」とブノワ氏は言う。
医師として
1945年9月8日、ジュノー博士は15トンの医薬品とともに広島に入った。「医薬品や医療材料が極度に欠乏した状況下、サルファ剤などの薬品をはじめ、消毒薬や包帯などは、大変な治療効果を発揮し、1万人以上の命を救うとともに、絶望の淵にあった被爆者たちを強く勇気付ける」と、広島県医師会はジュノー博士の履歴の中で綴っている。 医薬品を広島県知事に引き渡すや、ジュノー博士は市内の救護所を視察し、また自ら治療にもあたった。「父は赤十字国際委員会の職員でありながら、生まれついての医師だった。傷ついた人を前にし、自然に膝をつき治療を始めた」とブノワ氏。広島滞在の4日間、ある中学校に収容された被災者たちを治療し続けたという。 一方医師として、この新しい爆弾の医学的な被害状況にも興味を持った。爆弾の引き起こす高熱、爆風、特に放射能について、現地の医師たちと話し合った。市内視察の際、「瓦礫の中に残っていた白い骨を手に取り、まるで弔うようにやさしくなでた」というマツナガ医師の言葉も赤十字国際委員会に記録されている。 日本滞在後ジュノー博士は、核兵器廃絶を機会あるごとに訴え続けたという。また、血液循環や膝の病気に苦しみ、座ったままでも仕事ができる麻酔学をロンドンで勉強し直し、その後1961年、ジュネーブ大学病院で治療にあたっていた患者が麻酔からさめるのを見守る中、心臓発作で逝った。 ジュノー博士の命日6月16日前後の日曜日に博士の記念祭を開催してきた広島県医師会のある関係者は、「博士のもたらした15トンの医薬品の大切さと現地での治療行為は、医者の模範として広島の医師たちの間で語り継がれてきた。記念祭は医療関係者中心の300人あまりの集いだが、今まで20年続けてきたし、今後も続いていくことは確かだ」と明言した。 「人道援助には、状況と必要に応じた柔軟な対応と判断が必要だということ。また、不可能を可能にする信念の大切さをジュノー博士は、後輩に残した」と赤十字国際委員会はジュノー氏について記している。里信邦子 ( さとのぶ くにこ )、swissinfo.chマルセル・ジュノー博士略歴
1904年、スイス、ヌシャテル州に牧師の息子として生まれる。1935年、ジュネーブ大学の医学部を卒業後、外科医になる。赤十字国際委員会 ( ICRC ) の最初の任務として戦禍のエチオピアに赴任。1936年、赤十字国際委員会からスペイン市民戦争に派遣される。1939年、第2次世界大戦中にヨーロッパ全土に渡って、連合軍と枢軸軍、両側の戦争捕虜を訪問。1945年、日本軍に捕まった捕虜の調査に、赤十字国際委員会駐日代表として日本に派遣される。広島には原爆投下後のほぼ一カ月後の9月8日に15トンの医薬品とともに訪れる。1946年、ジュネーブに戻り、医者としての活動に復帰する。次の年に自伝的著書『第三の兵士』 ( 日本語書名:『ドクター・ジュノーの戦い』 ) を執筆。1948年、新しく創設された国連児童基金 ( UNICEF ) のミッションで中国を訪問。1950年、麻酔学をロンドンで勉強。ジュネーブ大学に初めての麻酔科を開設。1952年、幹部として赤十字国際委員会に戻る。1961年、ジュネーブ病院で麻酔からさめる患者の治療中に心臓麻痺で死亡。享年57歳。1979年、広島県医師会や日本赤十字社は、博士をしのぶ関係者の協力で広島平和記念公園横に「ジュノー顕彰碑」を建立する。1990年6月。碑前にて「ジュノー記念祭」が執り行われ、以後毎年継続されている。今年2009年には20周年記念として、息子のブノワ氏が家族とともに記念祭に参加した。
もっと読む 原爆投下 ジュノー博士の勇気と信念
swissinfo.chの記者との意見交換は、こちらからアクセスしてください。
他のトピックを議論したい、あるいは記事の誤記に関しては、japanese@swissinfo.ch までご連絡ください。