インド・モダニズムの証人 ル・コルビュジエの「パンジャブ・アルバム」
インドの都市空間は何世紀にもわたる侵略と植民地支配の跡を残す。1950年代、インド・パンジャブ州で新都市チャンディーガルの建設に従事したスイス人建築家ル・コルビュジエが使っていたスケッチブックには、自由を掴んだ独立当時のインドの雰囲気がスナップショットのように捉えられている。そのファクシミリ版「Le Corbusier Album Punjab 1951(仮訳:ル・コルビュジエ、パンジャブ・アルバム、1951)」が1月、出版された。
古代文明のゆりかごの1つ、インドは1947年、大英帝国から独立し国として産声を上げた。
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それと同時にパキスタンも死者200万人、難民1800万人を出す混乱の中、インドから分離独立した。分割のトラウマを経験した新生インドの指導者たちは、「世界最大の民主主義国家」のビジョンを形にするため、都市建築の改造を構想した。
インドの初代首相ジャワハルラール・ネルーが1951年、スイス人建築家ル・コルビュジエを招いてパンジャブの新州都の設計を依頼したのには、こうした背景があった。パンジャブは印パ分割の結果、州面積の半分を失っていた。
ル・コルビュジエは当時、モダニズムのアートと建築の世界で既にレジェンド的存在となっていたが、この挑戦を拒むことはできなかった。それは疑いもなく、20世紀の都市計画と近代建築における最も野心的な実験の1つだったのだ。
モダニズムの野心
ル・コルビュジエによるモダニズム都市の建設は、ゼロからスタートした。家具付きアパート、政府庁舎、映画館、学校などを完備した都市が計画された。
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このプロジェクトは、当時の近代建築の可能性に関する水準を決定的に引き上げることになった。次に同種のプロジェクトが行われたのは10年後で、ブラジルの首都ブラジリアの建設だった。この時設計を担当したのは、ル・コルビュジエの後輩でニューヨーク国連ビルのプロジェクト(1948〜52)でパートナーを務めたオスカー・ニーマイヤーだった。
建設予定地を訪れた最初の数週間、ル・コルビュジエはノートにメモやスケッチ、個人的な考察を書き留めた。現地当局者や都市プランナーらとのミーティング中には概略図なども描いた。
チャンディーガルの開発については、1950年代以降多くの研究が世に出た。だが、プロジェクトの初期段階については未知の部分が多い。政府関係者と建築家から成る小さなチームは、わずか数日でチャンディーガルの青写真を完成させた。その際彼らはどんな問題と向き合ったのか。それを再構築するための主要な資料が、パリのコルビュジエ財団外部リンクが保管するル・コルビュジエの「パンジャブ・アルバム」だ。これはまた、ル・コルビュジエによる地域の環境に関する優れた観察記録でもある。
インドでル・コルビュジエが足跡を残したのはチャンディーガルだけではない。チャンディーガルに比べれば地味だが、アーメダバードを始め北インドの諸都市で建築プロジェクトを手がけている。
15世紀初頭から繊維貿易の中心地だったアーメダバードには、70もの織物工場が点在していた。ル・コルビュジエは1950年代初頭、織物工場主協会本部ビルの設計を依頼された。1952年から1954年にかけて建てられたこのビルは、60年近くにわたり同協会の拠点の役割を果たした。しかし、90年代に入る頃には一部で荒廃が進んだ。
英国統治との決別
ネルー首相がル・コルビュジエを招聘(しょうへい)した背景には、英国統治が全国に残した植民地時代の痕跡を払拭(ふっしょく)するという意図があった。特に主要都市が対象とされた。
コルカタ(旧カルカッタ)は東インド会社によって建設された。コルカタ入植の最初の記録は1690年だが、発掘調査で2千年以上前の住居跡が見つかっている。
ムンバイ(旧ボンベイ)は、18世紀以降独立までの間に英国人建築家らにより徹底的に改造された。今も新古典主義やビクトリアンゴシックの建物を多く残している。世界で最もビクトリア朝的な都市であり、英国本土の都市さえしのぐという声もある。
デリー(オールドデリー及びニューデリー)も侵略者が作った都市だ。13世紀にイスラム勢力が襲来し、その後中央アジアのムガル帝国の歴代皇帝らの支配の下、現在オールドデリーと呼ばれる一帯の礎が築かれた。英国の支配下に入ったのは1803年だ。王冠の宝石と呼ばれたデリーは1931年、英領インド帝国の首都に制定された。無秩序に広がった都市圏は、宗主国の下で大規模に改造された。
独立インドの建築や都市の設計・改造に招かれたのが欧米の建築家やプランナーだったという事実は、今日の視点からは新たな文化的植民地化の始まりにみえるかもしれない。だが当時は、インドを世界的な近代化の流れに統合しようという、むしろ野心的な試みだった。
そのビジョンに賛同したル・コルビュジエは、自ら経験したインドの現実–古くから伝わる生き残りのための技術や哲学、信仰–をモダニズムの枠組みと融合すべく、全力を注いだ。 妻に宛てた手紙にはこうある。「この街は、樹木の街、花と水の街、ホメロスの時代のようなシンプルな家が並ぶ街、そして少数の、数学のルールに従った、最上級のモダニズムを体現する立派な建物がある街になるだろう」
ル・コルビュジエは、チャンディーガルを人体になぞらえデザインした。「頭」(キャピトル・コンプレックス)、「心臓」(中心街)、「肺」(オープンスペース)、「知性」(学校)、「循環系」(道路網)、「内臓」(工業地帯)といった具合だ。都市のコンセプトとして「生活」「労働」「身体と精神のケア」「循環」という4つの基本機能をベースに置いた。
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チャンディーガルは1960年代初めまでにその大部分が完成した。プロジェクトに伴い58の村から2万人以上が移転しなければならなかった。
建築という戦場
20世紀半ばにル・コルビュジエを始め欧米の建築家たちをインドに呼び寄せたのは、革新の精神だった。しかし、現在のインドは、建築の舞台でそれとは逆のキャンペーンを繰り広げている。
ナレンドラ・モディ首相は2014年の就任以来、西側の「文化戦争」のインド版を演出しながら、ヒンドゥー民族主義に沿ったアジェンダを推し進めてきた。その狙いは反対勢力の抑圧、そして国内最大の少数派であるイスラム教徒の権利剥奪だ。イスラム教徒は約2億1300万人でインドの人口の約15%を占める。
ヒンドゥー民族主義運動は過去に執着する反面、その過去には空想も混じる。例は枚挙にいとまがない。モディ首相は、植民地時代の遺産と取り組む中で、全国の通りや都市の改名を進めてきた。首都デリーの看板プロジェクトは、英国統治時代の記念碑や官庁群を改造して首都の景観の一新を図る「セントラル・ビスタ」再開発計画だ。
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モディ首相はまた、ヒンドゥー寺院外部リンクの新設や改修を、「ニュー・インディア」外部リンク創造計画の一環であるとも公言している。「古代の遺産を守り精神的・文化的な栄光を回復すると共に、近代的大志の実現に向け前進できる国」というのがニュー・インディアのコンセプトだ。
最近では、デリーの地下に眠るとされる神話上の都市インドラプラスタ外部リンクの遺跡探しを巡り、政府内で議論が盛んだ。これまでに何層もの古代集落が発掘されたが、紀元前4世紀頃に編纂(へんさん)された建国の叙事詩「マハーバーラタ」に登場するこの伝説の都市の痕跡は、まだ見つかっていない。
その一方で、独立初期にモダニズムがもたらした成果の多くは、当時のビジョンの求心力の低下を反映するように、明らかな風化の兆しをみせている。
「Le Corbusier Album Punjab、1951」編集:Maristella Casciat、出版: Lars Müller Publishers外部リンク、チューリヒ、2024年
英語からの翻訳:フュレマン直美、校正:宇田薫
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