リビー・ヒーニー 量子物理学を芸術に融合した博士号アーティスト
反直感的な微小の規則で世界を眺める。そんな体験をさせてくれるのが、現在バーゼルのデジタルアートハウスで開催されている展覧会「Quantum Soup(仮題:量子スープ)」だ。イギリスのアーティスト、リビー・ヒーニーさんにとって、今回の展覧会はスイスでの初個展。大学で量子物理学を学んだというヒーニーさんに話を聞いた。
今、私たちが理解している現実は、ニュートンの法則や作用・反作用の原則で成り立っている世界だ。ここでは、上に動いている物が同時に下に向かって動くことはない。
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だが、このロジックが電子や陽子、光子、ボーズ粒子といった果てしなく小さな世界にも通用すると思っている人は、それが単なる思い込みだったことを知って驚くかもしれない。
量子物理学に働く反直感的な規則は、大学で量子物理学を学んだリビー・ヒーニー外部リンクさんにとっては三度の食事と同じくらい日常的だ。
swissinfo.chはバーゼルのデジタルアートハウス(Das Haus der Elektronischen Künste:HEK)外部リンクでヒーニーさんに会い、作品の根本を成すコンセプトについて語ってもらった。その1つが「量子の重ね合わせ」の原則だ。これによると1つの実体、つまり原子という粒子は、複数の矛盾する状態で同時に存在できる。
「私が量子だったら、ここにもロンドンにも同時にいられます。空中で止まることなく回転するコインのようなものです。そのコインは表でもあり同時に裏でもある。少なくとも、目を凝らして観察し出すまでは。じっと見つめていると、重ね合わせは消えてしまいます」
ヒーニーさんも学者とアーティストという2つの面を備え持つ。展覧会や世界観について尋ねながら彼女を「観察」していると、その両面が見え隠れする。それでいて、この2つの面は決してばらばらにならず、互いに強く結ばれている。
swissinfo.ch :あなたのアートで量子物理学が担う役割とは何ですか?
リビー・ヒーニー:量子物理学は私にとってプリズムです。これを通して、現実をノンバイナリーのクィア的なものとして眺めています。
このことがなぜ大事なのかと言うと、私たちが生きている今の時代は何事も二項対立に置かれ、個人主義に傾いているからです。左対右。お金を稼ぐ。私たち対あの人たち。でも、そうでなくてもやっていけるということを示したいのです。
量子コンピューターをアートの媒介として使ったのはあなたが初めてですが、どんな使い方をしているのですか?
量子コンピューターはもちろん自分で所有しているわけではありません。1億ポンド(約195億円)くらいすると思いますから。あ、スイスフランでしたね。ここはスイスでした!IBMは量子コンピューターを所有しているのですが、それを一般に開放していて、誰でもアカウントを開けるようになっています。
私は量子情報科学の博士号を取っているので、自分である程度プログラムを組めます。
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量子コンピューターは、「量子もつれ」と呼ばれている現象を作るために使います。その現象から生まれるものは、高次元の空間にある1つのオブジェといった感じです。いろいろな現実が同時に存在する多元宇宙を量子コンピューターの中に作ると言ってもいいでしょう。
この多元宇宙、つまりもつれた大きなオブジェは波動を生み出しているのですが、それが模様になって見えるようにコンピューターをプログラミングします。その後、このデータを使ってビデオを作ります。
このようにして、ここには32の動画が同時に存在しています。これは巨大な「量子の重ね合わせ」です。「量子もつれ」の波の動きによって、いろいろな動画が見えたり見えなかったりするのです。
☟IBMの5量子ビット量子コンピューターを使って創作したビデオ・インスタレーション「slime Qrawl」の一部
とりわけ大切に思っている作品はありますか?
バーチャルリアリティー(VR)作品の「Heartbreak and Magic(仮題:深い悲しみと魔術)」を作った時は、ある開発チームと一緒に仕事をしました。私もプログラミングをしますが、これはとても手のかかる作業で、多くの人が関わって一緒に作り上げるのです。
ある時から、自分たちが作った世界にいろいろな量子効果を加えていったのですが、VRバイザー(ゴーグル)を装着してみて、自分の作品が独り歩きをし出していることに気がつきました。この作品はもう量子宇宙になっていて、私やプログラムをした人たちの意図を超えていました。
それは摩訶不思議な世界で、見るとつい涙が出てきます。素敵で、わくわくさせてくれて……そして悲しい。人生の意味を、生と死の純粋な美しさと純粋な悲しさを捕らえていると感じるのです。
「Heartbreak and Magic」は2019年に自ら命を絶ったあなたの妹(または姉)に捧げる作品です。量子物理学はある意味、服喪を助ける存在だったのでしょうか?
進んで量子物理学に取り組もうとしたわけではありません。大事な人を突然失ってしまった人は皆、悲しみのあまり、これまでとは違う現実に入り込んでしまうことを知っています。
周囲の人々や普通の生活から切り離されたような気がするのです。世界は回り続けているのに、自分や家族はバブルの中に閉じ込められている、と。
愛している人が突然死んでしまったとき、脳はそれをよく理解できません。ほかの人はどうか知りませんが、私は全てに意味を持たせる方法を探さなくてはなりませんでした。
これは人類が歴史を重ねる中で、宗教を通じて行ってきたことでもあると思います。私は無宗教で、自分より大きく、またきっと答えを出してくれると分かっていた唯一の存在が量子物理学だったのです。
妹の葬儀が行われたのは1月でした。イギリスの真ん中、バーミンガムの近くで、灰色がかった暗く寒い日でした。
私は葬儀でスピーチをしたのですが、それを終えたとき教会の屋根から蝶が1羽、弧を描きながら舞い降りてきました。蛾ではなく、蝶でした。赤っぽい、色鮮やかな。
皆もそれを見ています。私の幻覚ではありません。妹は足に蝶のタトゥーを入れていました。もちろん、これは単なる偶然だったのかもしれません。でも……、1月のイギリスで蝶なんかいつ見ます?そんなこと、絶対にありえないでしょう。
偶然かもしれませんが、私にとってはこれは偶然以上の出来事なのです。妹は多元宇宙のどこかにいるのかもしれませんよね?
量子科学では、すでに知られている情報を消すことはできません。DNAの中の情報はいったいどこへ、私たちに関する情報はどこへ行くのでしょう?私たちは居場所を持たない何かに変わるのでしょうか?こういうことは全て間違っているのかもしれませんが、こう考えることで慰められました。
量子コンピューターを用いる理由の1つに、この技術のリスクとチャンスを指摘したいということもあるそうですが、具体的にはどのようなことですか?
大手テクノロジー企業は今や、人工知能やインターネットなどの手段を用いて、私たちに関する膨大な量のデータを収集しています。
少なくとも英国では選挙もすでに操作されており、EU離脱(ブレグジット)国民投票のオンライン請願でも同じことが起きています。
ソーシャルメディアを使っている時、自分が買おうとしているものを機械学習がどの程度予測するのか、私たちにはよく分かりません。量子コンピューティングはそんな「監視資本主義」を指数関数的に加速していくと思います。
でも、逆に良い面もあります。微視的な系統や生物学的な系統など現実に存在するシステムのモデルを作るときには、未来の量子コンピューターはデジタルコンピューターでは絶対に不可能な精度でモデル化できるでしょう。
光合成に対する理解はたぶん、模倣できるくらいにまで深まると思います。
「Q is climate (?)(仮題:Qは気候〈?〉)」という作品では、このようなテーマを扱っています。研究者やテクノロジー企業は、「リチウムイオン電池の新世代を作ることは可能だ」と言っています。
でも、廃棄物や採掘、土地の破壊、グローバル・サウスの人々が被る影響については、何一つ考慮していません。
私は自分の作品で、ポジティブなものとネガティブなものの循環ではなく、その代わりになるものを示したいと思っています。誰もが利益を得られる、別の未来です。私たちは2元のカテゴリーではなく、多元のカテゴリーで考えることもできるのです。そして、互いに深く「entangled(もつれている)」ことを認識できるのです。
あなたのアートはそれを達成するための手段なのですか?
私は研究者でもありますが、そこでの経験によると、研究者は自分たちが作り上げたツールにとても満足しています。でも、それが世界に与えうる影響までは考えていません。
アートを手段化したくはありませんが、アートはこのようなもう1つの語りを知らしめる新しいイメージや討論にふさわしい空間だと思います。
とは言え、そこは量子物理学について講義する空間ではありません。私はそういうことを求めているのではないのです。ただ、このことに関心を持ってくれるように皆を鼓舞したいと思っているのです。
量子物理学は小難しい分、摩訶不思議でもあります。今は機械学習や人工知能(AI)が話題になっていますが、これからは量子物理学の時代になるに違いありません。
独語からの翻訳:小山千早、校正:ムートゥ朋子
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