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オリンピック休戦 神々しい理想に突き付けられた厳しい現実

銃
Alamy Stock Photo/Credit: McPHOTO / Alamy Stock Photo

国際オリンピック委員会(IOC)と国連が今月開かれるパリ夏季五輪に当たり、ロシアとウクライナ間の休戦を呼び掛けている。1992年以降、こうしたオリンピック休戦原則が慣例的に出されているが、守られた例は少ない。

5月初め、中国の習近平国家主席はエマニュエル・マクロン大統領とパリで会談し、パリ五輪期間中の休戦を呼び掛けることで合意した。IOCのオリンピック休戦原則は1993年以降、五輪開催年ごとに国連総会で議題として取り上げられ、決議が採択されている。

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ロシア側はこれまでのところ、休戦の提案を拒否していない。休戦は五輪開幕1週間前の7月19日から、パラリンピック閉幕1週間後の9月15日までだ。

しかしロシア政府は「ロシアが通常、こうしたアイデアやイニシアチブを使うのは、再編成と再武装をするためだ」とくぎを刺した。

国際戦略関係研究所(IRIS)のリサーチ・ディレクターでロシア専門家のルーカス・オービン氏は、「ウクライナとの戦争で優勢なロシア軍は、自分たちのスケジュールで動いており、休戦の提案を必ずしも好意的にとらえていない」と言う。

ロシア政府はこれまでのIOCの措置を屈辱的なものととらえている。オービン氏が事例として挙げるのは、ロシアとベラルーシの選手たちが自国代表として競技に参加できないことだ。

オリンピック・ムーブメント(オリンピック精神を推し進める運動)は、一時的ではあれウクライナ戦争の停戦という、他の国際機関がなしえなかったことを成功させるのだろうか?あるいは中東のような他の紛争地域でも?

古代オリンピック。紀元前500年頃の像の台座のレリーフ
古代オリンピック。紀元前500年頃の像の台座のレリーフ KEYSTONE/SZ Photo / Scherl

休戦というより安全通行権

オリンピック休戦の起源は古代ギリシャにさかのぼる。IOCのウェブサイトによると、この「休戦」(ギリシャ語で「エケケイリア」)の間は「選手、芸術家、その家族、そして一般巡礼者たちがオリンピックに参加するため、あるいはオリンピックを観戦するために安全に移動し、その後それぞれの国に戻ることができた」。

オリンピック・ムーブメントに詳しいローザンヌ大のパトリック・クラストレス教授(歴史学)は、「現代的な意味での休戦というよりは、戦時の安全通行権のようなものだった」と説明する。「当時のギリシャは恒常的な戦争状態にあった。平和という概念が生まれたのは、紀元前4世紀のペロポネソス戦争の後になってからだ」

つまりオリンピック休戦は19世紀末に五輪が復活して以来、「新たに作られた伝統」だという。

近代オリンピック創成期の1892年、後にIOC第2代会長(1896年~1925年)となるフランスのピエール・ド・クーベルタン男爵はソルボンヌ講堂で行った講演で、スポーツを通じた平和への信念を語った。「ボート選手、ランナー、フェンシング選手を輸出しよう。そこに未来の自由貿易がある。欧州の古い壁の内にそれが導き入れられる日、平和の大義が新しく力強い存在を確立するだろう」

しかし、ド・クーベルタンが描いたアマチュアスポーツの世界は、一握りの社会的エリートに限定された。

クラストル氏は「労働者や女性、植民地帝国の支配下の民族が将来のオリンピックに参加するとは当時は想像すらされなかった」と言う。

白地に5つの円のシンボル

しかし、1896年にアテネで開催された最初の近代オリンピック大会以降、地政学的、さらには軍事的な懸念がド・クーベルタンのスポーツ平和主義を陰らせた。

アテネ大会の開催は、「国家の完全性を取り戻そうとするギリシャの努力の証として、また1821年に独立戦争とともに始まった使命の継続物として理解されなければならない」と、歴史家のクリスティーナ・クーロウリ氏は現在ルーヴル美術館で開催されているオリンピズム展のカタログに記している。

ちなみに、IOCの初代会長(1894~1896年)を務めたディミトリオス・ヴィケラスは、急進的な民族主義グループ「National Society」のメンバーだった。

1896年にアテネで開催された近代オリンピック第1回大会の様子
1896年にアテネで開催された近代オリンピック第1回大会の様子 KEYSTONE

20世紀の世界大戦中、オリンピック休戦の話は、例えド・クーベルタンがそれを思い描いていたとしても、ほとんど出なかったとクラストル氏は言う。ド・クーベルタンは、休戦の証として白地に五大陸を象徴する5つの円を描いた。

サマランチの休戦宣言

1990年代初め、オリンピック・ムーブメントはうまくいっていなかった。1980年代には、米国のボイコット(80年モスクワ大会)、ロシアのボイコット(84年ロサンゼルス大会)が続いた。1992年、旧ユーゴスラビア紛争のさなか、国連はセルビアとモンテネグロの選手に対し、バルセロナオリンピックを含む国際大会への参加を禁止した。

クラストレス氏は、カタルーニャ出身のフアン・アントニオ・サマランチIOC会長(当時)が「『自分の』オリンピックの危機を察した。国連の決定を変更するために、国際外交、特にスイス外交のあらゆる手段を尽くした」と話す。

国連との緊密な協力のもと、IOCはセルビアとモンテネグロの選手の競技参加を可能にする中立旗を考案した。そしてIOCは、1994年のリレハンメル冬季大会でオリンピック休戦を提案した。世界の地政学に影響を与えようとしたのだ。

国連もまたスポーツに関心を持っていた。人々がまだ世界平和と「歴史の終わり」を信じていた1990年代においては、「ウィンウィン」の取引だった。

コートダジュール大学のジュリー・トリボロ教授(公法学)は、国連は「今後、スポーツをソフトパワーの本格的な道具にする」と示唆する。コフィ・アナン国連事務総長(当時)は2001年、スイス人のアドルフ・オギ元連邦内閣閣僚を「開発と平和のためのスポーツ」特別顧問に任命した。

ピエール・ド・クーベルタンIOC第2代会長(1896~1925年)は、スポーツを通じた平和を信条としていた
ピエール・ド・クーベルタンIOC第2代会長(1896~1925年)は、スポーツを通じた平和を信条としていた KEYSTONE/© Maurice Branger / Roger-Viollet

存在を消した財団

2000年、IOCは国際オリンピック休戦財団(FITO)と国際オリンピック休戦センター(CITO)を設立した。法的な本部はローザンヌ、事務所はアテネに置いた。

しかし不思議なことに、インターネット上では、このFITOがヴォー州の商業登記簿から抹消されていることが分かる。

ローザンヌのIOC本部は「FITOの創設者であるIOCとFITO理事会のメンバーは、FITOを2020年に解散することを決定した」と説明する。「これは2団体の業務を合理化し、CITOの全権限、機能、活動を単一の団体に移管するという業務上の理由だ」

CITOは平和のためのスポーツをテーマにしたキャンプを開催している。「ギリシャ色の強いこの組織は、全てのオリンピック大会を自国開催することを常に夢見てきたギリシャに対するIOCの譲歩だ」とクラストレス氏は言う。

30年前に始まったオリンピック休戦協定は毎大会開催前に決議が採択される。しかし実績は乏しい。

2008年の北京五輪中にはロシアのジョージア介入が起こった。2014年のソチ冬季五輪は、ロシア軍のクリミア征服を阻止できなかった。そして2022年の北京冬季五輪期間中に、ロシアがウクライナで「特別作戦」を開始した。

オービン氏は「他の国際紛争も同様だ。例えばイエメンではこの『休戦』による影響は皆無だった」と話している。

仏語からの翻訳:宇田薫、校正:大野瑠衣子

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