スイスでハプスブルク家ツアーはいかが ( スイスめぐり -9- )
何世紀もの間、西欧と中欧のかなりの部分を統治していたオーストリア・ハプスブルク家。その勢力はスペインからオランダ、ハンガリーにまで及んだ。この統治は第1次世界大戦まで続いたのだから、つい最近までオーストリアは超大国だった。
さて、ハプスブルク家によるオーストリアが大国だったのは歴史の教科書に載っているが、元々スイスのアールガウ州 にあるハプスブルク城がその名前の由来だという史実はあまり知られていない。しかしここには、歴史的に魅力のある輝かしい過去が残っている。
ハプスブルク家をめぐるツアーで最初にやって来るのは、当然このお城だ。現代的な住宅地が並ぶ何の変哲もない村に、11世紀のお城が建っているとはちょっと想像できない。しかし、この村のすぐ裏の丘に、城主が住んでいたのだ。そしてこの場所こそが、後に権力を欲しいままにしたハプスブルク家の発祥の地である。彼らは短い間だったが、スイス北部の大部分を統治していた。
鷹の巣
ハプスブルク城の塔のてっぺんまで、長くて急な木の階段を一歩、一歩、登って行く。やっとたどり着くと、そこは全部の四方が見渡せる司令塔の眺めだった。息を呑む絶景だ。
案内してくれたのは、ユルク・シュトゥシ・ラウターブルクさん。彼によると、昔ここを統治していたハプスブルク家の人々もここからの風景に感動したという。なぜならこの見通しの良さのおかげで陸上・水上の商業的な行き交いを全部監視することができたのだ。
実際の状況を把握すれば税金も課しやすくなる。これが彼らの富の源泉だった。敵から侵略を受けそうになった時も、川が防御となった。「ハプスブルク」とは「鷹の巣」という意味だ。
「彼らがこんな高い所に城を構えたのは偶然ではありません。地理学と歴史は密接に結びついています」とラウターブルクさんは言う。彼は地元民であり、歴史家であり、スイス軍事図書館の館長でもある。
このように戦略的に有利な場所にいても、ハプスブルク家はスイス連合に何度も敗れた。13世紀から14世紀のことだ。この結果、とうとうハプスブルク家は土地を手放し、今ではこの土地はスイスのものになっている。
14世紀も終わり頃になると、ハプスブルク家の名前は、スイスよりも他の欧州地域で大きくなり始める。しかし、現代のスイスでもハプスブルク家の威光は残っている。スイスの街角に、数々のお城に、教会に、修道院に、ハプスブルク家の面影を見ることができる。
ハプスブルク家の王様が暗殺された場所
ケーニクスフェルデン ( Konigsfelden ) ・フランシスコ修道院も、初期のハプスブルク家の領主、アルベルト一世のモニュメントとなっている。彼は1308年にここで暗殺された。修道院の中に入ると、ラウターブルクさんが、高い祭壇を見せながら説明してくれる。
まさにこの場所でアルベルト一世は殺されたのだ。「ここで彼は暗殺者の手によって刺殺されました。そして私たちが『汝、王国にいませり』とお祈りの言葉を口にするとおり、イエス・キリストが降臨するシンボルとしてここに祭壇があるのです」
祭壇は、14世紀前半に作られた美しいステンドグラスに囲まれ、神々しく輝いている。当時、ハプスブルク家の人々は王様の死をここで悼んだ。
ラウターブルクさんは、ステンドグラスを通して光が屈折しながら入ってくる様子を指さした。「あそこの窓はある意味、ここで起こった血なまぐさい歴史を現しています」
また、この修道院には、修道院の本堂の壁に迫ってくるスイス軍と戦って死んだ騎士たちを追悼する像も残っている。
ハプスブルク家の納骨堂
しかし、ここで何と言っても重要なのは納骨堂だ。ここには代々のハプスブルク家の人々が埋葬されていたが、後に骨はオーストリアに移送された。幾人かの観光客が、納骨堂の周りをゆっくり歩いて、ここに眠っていた有名な家族のことを記した古代の文書を読んでいた。
中世の時代、スイスとハプスブルク家は何度も激しい戦闘を繰り返してきた。しかし、ラウターブルクさんによると、スイスがいつもハプスブルク家の過去に敬意を払ってきたことは、驚くにあたらない。
「私たちはいつも自分たちの歴史に誇りを持ってきました。これはプライドの問題だけではありません。スイスは、全国で同じ言葉を話すわけではありませんし、文化だって違います。同じ王朝に仕えていたわけでもないのです。けれども、歴史だけは、共通のものとして存在しているのです」
「私たちスイス人は、自らの意志で一緒に住もうと決めた人々の集まりです。これは私たちの歴史の至るところで実感することができます。だから、歴史的なものは、大切に取ってあるのです。私たちの先祖の誰かが、また違う先祖の誰かと戦って血を流したからといって、歴史的建築物を破壊することにはなりません。歴史的なものは、私たちにとって非常に意味のあるものなのです」
19世紀になると、オーストリアに移住したハプスブルク家の貴族たちが観光客としてスイスを訪れた。この中にはフランツ・ハプスブルクも含まれる。ローマ帝国の最後の皇帝であり、オーストリア帝国の最初の皇帝だ。この場所で、全てが始まったのだ。
ハプスブルクの城には丁寧に修復されたダイニング・ルームがあり、ここには代々のハプスブルク家当主の肖像が飾ってある。
フランツ・ハプスブルクの肖像を見上げながら、ラウターブルクさんは語る。「彼は1815年にここを訪問しました。当時、スイス国民から温かい歓待を受けたようですよ」
「彼は今、私たちがしたことと全く同じ事をしました。ハプスブルク城を訪ねて、それからケーニクスフェルデンに行って」
swissinfo、デイル・ベヒテル 遊佐弘美 ( ゆさ ひろみ ) 意訳
ハプスブルク城とケーニクスフェルデン ( Konigsfelden ) はチューリヒから一日観光で手軽に出かけることができる。城は丁寧に修復され、屋外のパテオを持つ素敵なレストランで、丘が連なる絶景を楽しむことができる。また、この他にもミューリ ( Muri ) 修道院などハプスブルク家に関係する観光名所がいくつかある。スイス全土のハプスブルク家ゆかりの土地についての情報や観光ガイドツアーのホームページは関連サイトをご参照下さい。
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