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梵鐘がもたらした縁

大井権現太鼓の演奏の後、次々に舞台に上がって太鼓をたたくジュネーブの観客 swissinfo.ch

ジュネーブ市と東京の品川区が友好憲章を交わして今年で15年。9月16、17日の両日、品川から大井権現太鼓保存会40人を含む、総勢70人の親善団が訪れ、ジュネーブで記念式典を繰り広げた。

品川区の品川寺 ( ほんせんじ ) の梵鐘 ( ぼんしょう ) の数奇な運命が、この友好関係を作り上げたという。

 ジュネーブ国連ヨーロッパ本部の入り口、世界中の国旗がはためく中を歩いていると、「ゴーン」と梵鐘の音が響き、はっとすることがある。これがすぐ横のアリアナ美術館の庭にある品川寺の梵鐘のレプリカである。明治初期、政府の神仏分離政策により、廃仏棄釈運動が起こり、多数の寺が閉鎖され、何千体もの仏像や鐘が壊されたという。そうした中、ある日、品川寺から梵鐘が消えた。そして、それが発見された時、相互理解、尊敬、友情が国境を越えて生まれた。

梵鐘の数奇な運命

 現在のアリアナ美術館はジュネーブの美術コレクター、ギュスターブ・レビリオによって1863年創設された。あらゆる美術ジャンルに興味を示したレビリオは1873年、「アアラウの鋳造所が東洋美術品を大砲に鋳直している」と聞き、そこに赴き、「美しい東洋の鐘」を買い付ける。その後、この鐘は美術館の庭に据えられ、開館と閉館の時を告げていたという。

 1919年、一人の日本人留学生が、これが真言宗品川寺の行方不明の梵鐘だと気づき、同寺の仲田順海住職に知らせる。1928年、順海住職はジュネーブ市に事情説明と返還を願う手紙を書く。

 1929年、梵鐘のない寺の意味を理解したジュネーブ市は返還を承知し、鐘は1930年、品川寺に戻った。一世代を経て、順海住職の息子、仲田順和住職は60年後の1991年、梵鐘返還のお礼にそのレプリカをジュネーブ市に寄贈する。それが現在アリアナ美術館の庭にある梵鐘である。

「ジュネーブ・品川友好協会」

 1870年代という時代に、梵鐘が日本から、どういう経路でスイスドイツ語圏のアアラウの鋳造所に辿りついたのか、誰も分からない。

 けれどそれが見つかった時、ジュネーブ側の「自分と異なるものを理解しようとした」態度はすばらしい。世界の多くの博物館、美術館が、ピラミッドの宝物など他国の文化物を返還しないことを思うとき、これは例外的な態度であろう。また、御礼にレプリカを寄贈しようとした順和住職の心とそれを支えた品川区民の心も美しい。

 区民はこぞってレプリカ鋳造費の募金をしたという。1992年、レプリカに魂を入れる「新梵鐘開眼供養式」には真言宗醍醐寺と品川寺の僧侶が多数ジュネーブを訪れた。これを契機に、相互理解で結ばれたジュネーブ市と品川区は友好憲章を取り交わし、「ジュネーブ・品川友好協会」が誕生した。

今後は?

 「ジュネーブ・品川友好協会」は、その後5年毎に、品川とジュネーブで相互に親善団を送り合い、友好の記念式典を行ってきた。10年目の2001年には、200人ものジュネーブ市の親善団が品川を訪れている。15年目の今年は品川から70人の親善団が到着し、太鼓演奏、剣道、弓道などの実演を行った。

 「記念式典は素晴らしい交流の機会です。けれど他に、この協会が力を入れているものに、ジュネーブと品川の青少年の交流があります。今年の夏、品川から16人の若者 ( 15〜18歳 ) がジュネーブで2週間のホームステイをしました。来年はジュネーブの若者が同数、品川に行きます。今まで90人もの若者が日本に行きました」と同協会会長、アン・クレール・シューマッハー氏。

 「将来、一度日本でホームステイをした若者が日本での長期滞在を望むとき、それを実現する手助けができたらと考えています。若者こそ異文化を吸収し、深い意味での交流を実現してくれると思います」とシューマッハー氏は続ける。20世紀初めの「梵鐘の縁」は21世紀にも途切れることなく続いているようだ。

swissinfo、 里信邦子 ( さとのぶ くにこ )

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