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判決を堂々無視 欧州人権裁の「過干渉」に高まる不満

欧州人権裁判所
仏ストラスブールの欧州人権裁判所(ECHR)。不満を抱く政府も多い Keystone / Christian Beutler

スイスが欧州人権条約を批准してから半世紀。条約の番人である欧州人権裁判所(ECHR、仏ストラスブール)は今年、スイスに人権侵害の判決を突き付けスイス国内に大きな議論を呼んだ。ECHRへの反発はフランスや英国などでも起こり、判決を無視する動きが広がっている。

欧州人権条約外部リンクは過去50年、絶えずスイスの国民的話題であり続けたわけではない。しかし2024年は事情が変わり、まるで金婚式を祝うかのように突然注目を浴びた。同条約を司るECHRの判決が論争を呼んだからだ。ECHRは4月の判決で、スイスの気候政策に生存権を侵害されているとの高齢女性団体の訴えを支持した。これを気候正義における先駆的な判例とみる人もいるが、スイス議会などは司法積極主義の乱用と受け止めた。

注目を浴びることで、ECHRの存在感は高まったのだろうか。ローザンヌ大学のエヴリン・シュミット氏の答えは「理屈上はイエスだが、実際はノー」というものだ。こうした裁判の結果、ECHRと人権条約の働き外部リンクが知られたり、人権法と環境論議の関係外部リンクに対する認識が高まったりする可能性はある。

しかし実際は、すぐに論争が過熱してしまう。同氏は「複雑な判決文を冷静に論じるサイトより、『外国人裁判官による干渉』だとか『直接民主制と国際法の衝突』だというナラティブ(情報戦に用いられる物語性)のほうがクリックを稼ぎやすい」と指摘する。

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スイス国内で判決への強い反発が起こることはシュミット氏の想定内だった。「気候変動は機微に触れる問題だ。社会の根本的な部分につながり、私たち全員に関係がある」ためだ。さらに、スイスではECHRをめぐる対立的な議論がたびたび起こっており、スイス国内法を国際法の上位に位置付けようとする2018年の国民投票が否決されたあとも紛糾している。

シュミット氏の最新の論文外部リンクにあるとおり、この半世紀のスイスのECHRとの付き合い方には「両面性」がある。当局や連邦判事、大半の議員はおおむね好意的だが、反対派はときに、そもそも「人権の優等生」とされるスイスになぜECHRが必要なのか、と疑問を呈してきた。

反抗姿勢が露骨に

一方、4月の判決に対するスイス当局の反応はシュミット氏にとって本当に驚きだった。連邦政府は8月、スイスは気候変動対策の責務を果たす方向に進んでいるとの見解を示し、ECHRの結論を一蹴した。この政府見解が真実かどうかはさておき、同氏が衝撃を受けたのは、政府が判決の法的拘束力に従うと明言しなかったことだ。「批判するが従う」という姿勢は過去に何度も示してきたが、今回はさらに臆面なく判決に反抗していた。

ECHRの正当性に関わる問題は近年、スイスだけでなく域内各地で生じている。ECHRは46カ国が加盟する欧州評議会の所属機関であり、その欧州評議会は今、全般的な「国際法廷への反発外部リンク」や戦争への対応に直面し、厳しい時期にある。

最も顕著な課題はロシアだ。ECHRは少なくとも10年間、ことあるごとに同国政府の人権侵害を非難していた。代表例は、ロシアが拘束・収監した反政権指導者のアレクセイ・ナワリヌイ氏の釈放を求めたことだ。また、欧州評議会は2022年3月、ウクライナ侵攻を始めた直後にロシアを除名した。軍事独裁政権下にあった1970年代のギリシャ以来、わずか2例目の処分だった。

ロシアに対しては数千件の裁判が保留されている。判事らは審理を続けているが、ロシア政府との関係断絶で影響力は望みにくくなっている。

アレクセイ・ナワリヌイ氏
2024年2月にロシアの刑務所で死亡したアレクセイ・ナワリヌイ氏。2018年、欧州人権裁判所で撮影 Council of Europe / Sandro Weltin

各国の反発

ポーランド憲法裁判所は2021年、ECHRには同国憲法に矛盾する部分があるとの判決外部リンクを下し、論争を呼んだ。ワルシャワ大学のアダム・プオシュカ氏によれば、ポーランド政府が政権に忠実な人物を裁判官に任命してきたことに対し、ECHRが欧州人権条約違反との判決を下したことへの対応だ。同氏は「ECHRの合憲性を槍玉に上げたのは、判決に従わない方針を国際的に正当化する方便だった」と説明している。

2023年12月に発足したポーランド連立政権は、ECHR判決を履行する意思を明示した。しかしプオシュカ氏によると、ポーランド裁判所の人事や運営に大きな変化は起こっていない。新政権の意思は明確だが、大統領の拒否権など、現実にはさまざまな障害があるためだ。

旧共産圏以外にも反発は広がる。フランスは2023年、ECHRによる仮差し止め命令外部リンクを無視し、イスラム過激派と見なした人物をウズベキスタンに送還した。

また、人権分野の実績に優れる英国(下図参照)でさえ、問題を抱えている。2022年6月、リシ・スナク首相(当時)はルワンダ難民送還への仮差し止め命令に対し、「外国の裁判所が何を言おうと飛行機は離陸する」と断言した。結局、送還計画は国内裁判所が中止させた。

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改革の要求

スイスの気候政策に対する判決を「完全な勇み足」と評したスナク氏を含め、英保守党の歴代トップにはECHRからの脱退論を唱える向きさえあった。脱退は行き過ぎだとしても、穏健派の批判が勢いを増す可能性がある。英経済紙フィナンシャルタイムズ(FT)は4月の記事で、ECHRは「自己救済」や、「各国の主流派政府への圧力を助長しない方策を見いだす」ことが必要だとし、「権限を狭める」ことを改革案として提示した。スイス議会の中道右派も同じ考えで、連邦内閣が他の加盟国と共に「中核的任務」に焦点を当て直すようECHRに働きかけるべきだとする動議外部リンクを連邦議会に提出している。

ECHRには改革が必要なのだろうか。プオシュカ氏は、ECHRはすでに適応を進め、権限の適用範囲を狭めていると述べ、FTなどの提案は事実を見落としていると指摘する。2021年に発効した欧州人権条約の議定書は、2大原理である「補完性の原則」(各国政府を人権保護の主な担い手と位置付けること)と「評価の余地」(条約義務を満たす方法について各国に裁量を与えること)を強化した。

英リバプール大学のコンスタンツィン・ゼツェロー氏も、ECHRによる最近の判決は、より「慎重」になっていると指摘する。その理由が新たな議定書であれ、加盟国からの批判的な声であれ、ECHRは対立を望んでいないとみる。

欧州人権条約
1950年に欧州評議会が起草した欧州人権条約。聖典のように重視されてきた Council Of Europe / Jacques Denier

一線を引く

ゼツェロー氏はスイスの気候政策をめぐる4月の判決について、ECHRが一線を越えた例外的な事例だと指摘。ECHRは今のところ気候関連の事案を裁くのに適した体制にない、とやや批判的にみている。一方、いざ訴えがなされれば「現代有数の根本的な人権課題をECHRが無視するわけにはいかなかった」。。履行方法でスイスに最大限の裁量を与えながら、気候訴訟で「最初の一歩」を踏み出そうとした――ゼツェロー氏は判決をこう位置付ける。

ECHRの未決事案はこの10年で16万件から6万7千件に減ったが、さらなる削減を求める声も出ている。ゼツェロー氏は、市民団体による提訴にも議論の余地があると指摘する。スイスの気候訴訟における高齢女性団体を例に挙げ、「直接」の被害者でない人々による人権侵害の訴えは認められるべきか、と疑問を呈した。

「中核的任務」に専念せよとの主張にも留意すべき点がある。たとえば、具体的に何を「中核」とするのだろうか。欧州人権条約は時代に合わせて解釈すべき「生ける文書外部リンク」とされてきたが、「中核」を定めることで、この柔軟性が損なわれる恐れがある。ゼツェロー氏は、通信技術や科学の発展といった状況の変化を考慮しなければ、現代において意味のある裁判はできないと指摘する。

ゼツェロー氏によれば、ECHRの権限を狭めるよう求めるのであれば、スイスは「1国だけで条約変更はできない」ことを肝に銘じる必要がある。新たな議定書の採択に必要な全46カ国の同意を取りつけることは、現在の政治情勢ではとりわけ困難だ。

編集:Balz Rigendinger/ac、画像調査:Vera Leysinger、英語からの翻訳:高取芳彦、校正:ムートゥ朋子

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