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戦後スイスが直接民主制を取り戻すまで

議場で宣誓する政治家たち
戦争下の1943年、議会での就任式で宣誓する7人の閣僚たち。一見いつもの就任式と変わり映えしないが、1939~52年の間は事実上無制限の権力を持つ強力な内閣だった Keystone / Str

第二次世界大戦終結後も権威主義的戦時体制に味をしめ、手離そうとしなかったスイス政府。今から70年前の1949年、50.7パーセントという僅差でイニシアチブ(国民発議)「直接民主制への復帰」が可決されてようやく、政府は平時体制への移行を受け入れた。

この記事はスイスインフォの直接民主制ポータルサイト「直接民主制へ向かう」#DearDemocracyの掲載記事です。

国家の危機にあって民主主義はしばしば対応の遅さを指摘される。第二次世界大戦開戦前夜、スイス連邦議会が政府に非常統治権を与える決議を行ったのもそのためだ。これにより議会審議を待たずに単独で決定を下せるようになった連邦政府に対しては、戦時の対応能力向上が期待された。

口ひげを生やした男性
外務相を務めたマルセル・ピレ・ゴラズ国民議会(下院)議員。1940年6月、フランスがヒトラー軍に衝撃的に敗北したのを受け、連邦大統領としてスイスが欧州の新しい環境に適応しなければならないとラジオ放送で国民に呼びかけた。それは多くのスイス国民の信頼を失う行為だった Keystone / Str

議会が手にした代償

それと同時に議会に対しても連邦法や法令の改正にあたり国民投票の実施を免除する「緊急事態条項」が認められ、議会はこれを駆使した。政府と議会に並ぶ第3の権力としての国民はその権利を大幅に縮小された。緊急事態条項の発動は、国民投票という民主主義的手段で法律を是正する機会を有権者から奪ったのである。 

こうして市民の政治参加は形骸化した。政府と議会の手によって、スイスの直接民主制は休眠状態に置かれたのである。 

この非常体制は1945年の終戦後も据え置かれた。民主主義への復帰は決定事項だったが、そのための手続きは遅々として進まなかった。 

「君主的、警察国家的な響き」 

46年になって直接民主制の復活を求める二つのイニシアチブ(国民発議)が提出されなければ、それはさらに先延ばしになっていただろう。イニシアチブは両方とも、7人の連邦閣僚が事実上無制限の権力を持つことをはっきり非難する内容だった(コラム参照)。 

だが、政府はこの二つのイニシアチブを長期間棚上げした。「直接民主制への復帰に政府の焦り無し」と当時のある新聞は見出しをつけた。非常体制批判の急先鋒だった憲法学者ザカリア・ジャコメッティ教授は、政府の声明に「君主的かつ警察国家的な響き」を嗅ぎつけ、これをスイスにおける民主主義のきわめて深刻な危機だと評した。彼にとって当時の政権は「非合法」以外の何物でもなかった。

コラム:スイスは「委任独裁」 

ドイツからスイスに逃れてきた憲法学者ハンス・ナヴィアスキー教授は、1943年、スイスは「委任独裁(戦争など具体的原因による全権委任に基づいた一時的独裁)」だと批判した。チューリヒ大学のアンドレアス・クレイ法学部教授は、それは根拠無き批判ではなかったとして次のように説明する。「連邦政府は憲法、法律、条例の作成者であり、もはや憲法に縛られていなかった。州が権限を持つ分野においても緊急権を発動でき、自由権を尊重する義務を持たなかった」 

直接民主制の再導入は二つのイニシアチブ(国民発議)で決まった。1949年、最初のイニシアチブに有権者と州から賛成多数が投じられ、政府と議会に衝撃を与える。撤回された第2のイニシアチブに対する間接的反対案という形で非常時体制が解除されたのは、1952年のことだった。 

(出典:トーマス・クレイ、201554日付けノイエ・チュルヒャー・ツァイトゥング)

議会主義の軽視 

スイスの指導者らは、早くも1930年代にはいわゆる「精神的国土防衛」のコンセプトを作り上げていた。このコンセプトは、スイス礼賛によって国民の帰属意識をつなぎとめ、ヒトラーの「血と土」イデオロギーが及ぼす国家社会主義的脅威に対抗することを目的としていた。 

その最たるものは、朝星棒(モルゲンシュテルン)や斧槍といった中世スイス人傭兵部隊の武器を振り回す勇敢不屈なスイス人のイメージ外部リンク作りだ。一方、この運動で民主主義は軽んじられた。 

実際にはスイスでも他の国でも、民主主義の危機はドイツによる武力威嚇以前に既に生じていた。反民主主義の声は1929年の世界恐慌を機としてスイスに限らず欧州全域で高まっていた。民主主義は危機克服の妨げになるとして、影響力を封じ込めようとした。 

スイスのナチスと中道政治家 

中でも最も過激的だったのはスイス国内のナチスのシンパとファシストだ。彼らは民主的に選ばれた議会を実務能力に欠けた「井戸端会議」とあざけり、民主主義はより厳格な組織と強いリーダーによる統治に取って変わられるべきだと主張した。 

民主主義的モデルの弱点を喧伝したのは極右主義者周辺に止まらなかった。両大戦間に行われたゼネストの余波の中、各政治ロビー団体もまた新手のプロパガンダに着手していた。彼らの目的は、ある政敵のイメージをスイス国民の意識中に刻み込み、民主主義ではもはや対抗できないと洗脳することだった。その政敵とは、ボリシェビキやいわゆる「ユダヤ陰謀論」である。

赤い鬼のイラストが描かれたポスター
戦時、有権者の恐怖をあおった急進民主党の選挙ポスター。「ボルシェビキを倒すには、急進民主党の名簿通りに投票を!」と書かれている Zürcher Hochschule für Künste ZHdK

そんな中、支持を集めたのが「コーポラティズム」という政治形態だ。「コーポラティズム」においてはツンフトやギルドのような同業組合が議会に取って代わり、国の指導権は単独の強大な組織あるいは個人に委ねられる。同業組合は、独裁的指導者への建言という形でしか発言力を持たない。 

岐路に立つ民主主義 

権威主義志向は戦後もなお続いていた。連邦政府と議会は、終戦後3年が過ぎても国民投票による民主主義の復活を拒み続けたのである。 

カトリック保守派のカール・ヴィック下院議員は1948年、「行きすぎた民主化は国を滅ぼす」と述べ、「民主主義は重要だが、国内外の安全の重要性はそれを上回る」とした。 

直接民主制復活を訴える二つ一組のイニシアチブに賛意を示した議員はほんの少数だった。労働組合の幹部を務めていたマックス・ウェーバー下院議員もその1人だった。彼は「民主主義の制限という手段では、独裁政治や非民主主義的な政策がとられる危険と戦うことはできない」と述べた。

傘をさして演説する男性
1934年から1959年までの内務相を務めたフィリップ・エッターは、連邦閣僚の一員でありながら反民主的な思想を公言していた Keystone / Str

奇妙な同盟:ヴォードワーズ同盟

しかし、直接民主制の伝統は生きていた。復活の推進力となったのは一つのイニシアチブだった。皮肉なことに、「直接民主制への復帰」と銘打ったこのイニシアチブは純粋な民主主義者から出たものではなかった。その中心は、ヴォードワーズ連盟という組織のメンバーだったのだ。 

この組織は、仏語圏ヴォー州で始まった超党派抗議運動を端緒とし、1933年、地元産ワインへの州の課税導入を阻止するという目的で結成されたものだ。 

反中央集権・反国家を掲げる同組織の創設者でイニシアチブ発起人の1人、マルセル・ルガメは、民主主義を蔑視し1944年時点でいまだ第三帝国崩壊を惜しんでいたような人物だ。また、「国際ユダヤ資本主義からの経済の解放」や「一つの旗の下での欧州の統合」といった構想の擁護者でもあった。 

つまり、このイニシアチブによって発起人らは、本来自分たちが否定していたはずの精神を広めることになった。直接民主制という病人の生命が反民主主義的勢力によって救われたのである。それは、まさにパラドックスだった。

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(独語からの翻訳・フュレマン直美)

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