欧州評議会のAI条約 スイス人交渉官は中立を貫いたのか?
スイス人外交官トーマス・シュナイダー氏(52)は、欧州評議会の人工知能委員会(CAI)委員長として人工知能(AI)に関する初の国際条約を取りまとめた。同条約はAIで生じうる人権問題に対処するための世界的な共通認識を確立した一方、妥結を急ぐあまり大きな妥協があったとする批判も聞かれる。委員長退任を目前に控えた9月、シュナイダー氏に話を聞いた。
人工知能(AI)が、性別や肌の色で人々を差別し、与信や医療サービスに関する決定を下し、私たちのデータを情報操作や監視のために使う――そんなことが許されて良いのだろうか?AIによって損なわれる人権問題について、法的拘束力のある国際条約はつい最近まで存在しなかった。そんな中、人権保護などを扱う国際機関、欧州評議会(本部・仏ストラスブール)の長年の努力が実り、ようやく条約が採択された。その過程でスイスも大きく貢献した。
こうした複雑な問題を扱う国際交渉は、ベテラン外交官でも骨の折れる作業だ。だが欧州評議会の会議室に姿を見せたシュナイダー氏の表情は落ち着いていた。過去2年間にわたり交渉を主導してきた同氏は、すでに最も厳しい局面は乗り越えた。今年3月、理事会を構成する46カ国と、米国、カナダ、イスラエルを含むオブザーバー11カ国が、AIに関する世界初の条約に外部リンク合意したのだ。
この「AI条約」は、AI技術の危険な使用から市民を守ることを目的とする。人権、民主主義、法の支配に対するAIの脅威に対処する決定的な一歩であると同時に、シュナイダー氏個人の大きな功績とも見なされている。
人工知能委員会の委員長を退任する前日の9月中旬の朝、swissinfo.chは、ストラスブールを訪れた。この日、欧州評議会の本部では、政府がAIのリスクと影響を評価するためのツール外部リンクについて議論が交わされていた。このツールに拘束力はないものの、AI条約の運用に不可欠とされる。
だがこの日の会議に参加していたNGOや市民団体の代表に話を聞くと、AI条約が人権保護のための真の突破口になるとは端から期待していなかった。
欧州非営利法センターでシニア・リーガル・アドバイザーを務めるフランチェスカ・ファヌッチ氏は、「ほんのわずかな義務でも回避できるよう、細かい文言を変えるよう求めてくる国もある」と話した。条約には具体的な義務が盛り込まれなかったため、「単なる意思表示」になってしまうのでは、と危惧する。
他の市民団体の中には、AI条約そのものが曖昧で実効性がなく、ルール違反の証明は不可能なため、具体的な制裁や処罰にはつながらないと懸念する外部リンク声もあった。
AI条約締結を急いだ欧州評議会
欧州評議会がAI条約の締結を急いだのは人権保護が目的ではなく、存在意義を失いつつある欧州評議会が国際的な信用と威信を取り戻すためだ、という批判も出ている。このような背景で生まれた条約では、テクノロジー企業がAIシステムに潜む偏見などのバイアスや人為的操作の防止外部リンクといった義務を容易に回避できてしまうとする。また市民団体の代表らは、世界最大のテック企業のお膝元である米国の機嫌を損ねないよう、交渉に譲歩があったと指摘する。
あるスイスのNGO代表は、「当初から、一連のオブザーバー国を参加させるつもりだった」と匿名を前提に話す。オブザーバーには、議決権はなくても協議における発言権はある。そのため「妥協せざるをえなくなり、模範的で厳格な条約を作成しにくくなった」とした。
ベテラン、シュナイダー氏の手腕
シュナイダー氏はAI条約の協議中、ワシントンの要求を呑んだ、「米国の手先」と後ろ指をさされてきた。そんな批判をものともせず、同氏はさらに前へと進む。結論から言えば、米国の独裁とそれに従う操り人形という構図は、「欧州連合(EU)の一部の関係者にとって、協議中に私と事務局に圧力をかけるには好都合だった」と話す。全ての人に良い顔ができないのは、百も承知だ。
パステルカラーの背広とさまざまなメッセージアプリのアイコン模様のシャツを着たシュナイダー氏は、これについてあまり深刻に考えていないようだった。国連から民間のICANN(インターネットのドメイン名とIPアドレスを管理する非営利団体)に至るまで、過去20年来、主要な国際機関でガバナンスと規制に携わるという華々しいキャリアを持つ同氏だが、自分は謙虚な国家の奉仕者であり、出世目当てで判断を下したことは一度もないと話す。
シュナイダー氏が交渉術を学んだのは、スイス東部のザンクト・ガレン州にある小さな村で小学校に通っていた頃までさかのぼる。「飛び級で1年早く入学した私は、他の同級生よりも体が小さく、力も弱かった」。この時に身につけた、相手を説得して優位に立つというスキルが、後のキャリアで大いに役立つことになる。2006年以来、欧州評議会でさまざまな委員会や専門家グループの議長を務めてきた同氏は、2017年には連邦環境・運輸・エネルギー・通信省通信局(OFCOM)の大使兼国際部長に就任。2022年からは欧州評議会でAI委員会の委員長を務める。
「スイスは小さな国だ。相手を説得するには、それに値する主張、他国よりも優れた提案、そして努力が必要だ。そうすれば、相手を味方につけられるかもしれない」
AI条約は本当に大きな成果なのか
シュナイダー氏は委員長として、AIに関する初の国際条約というマイルストーンを打ち立てた。この条約は、欧州評議会設立の翌年1950年に制定された最も重要な法的文書である欧州人権条約(ECHR)に沿ったAIの使用を、EU以外の国々にも促す結果となった。
現在までに、米国を含む9カ国とEUがAI条約に署名外部リンクした。一方、スイスを含む多くの国はまだ署名に至っていない。条約が拘束力を持つためには、署名の後、各国が国レベルで批准する必要がある。だが批准は各国がそれぞれのタイミングで行うため、発効までの道のりは長い。
とはいえAI条約は、欧州評議会にとっても、シュナイダー氏のキャリアにとっても成功だったと評される。AI委員会の中には、条約の成立はシュナイダー氏の手柄だとするメンバーもいる。
オランダ代表団のフローリス・クレイケン氏は「全ての国の管轄区域を1つにまとめるのは至難の業だった。ようやく国際的に同意できた」と話す。同じく代表団のメンバーであるモニカ・ミラノビッチ氏も、「何年もかけて取りまとめたこのAI条約を、とても誇りに思う」と口を揃えた。シュナイダー氏の後任として9月に委員長に就任したスペイン人のラモス・エルナンデス氏でさえ、「並外れた功績を残した」前任者の穴を埋めるのは難しいと話す。
米国務省も、シュナイダー氏は「条約の採択に大いに貢献した」とEメールで賞賛した。この日、ストラスブールで委員会に出席していた唯一の米国代表は、AI条約に関するインタビューに応じることは許可されていないとしてコメントを控えた。
米国の署名と「引き換えに」された企業の責任
一部では「シュナイダー条約」とささやかれるAI条約と欧州評議会に対し、否定的な声もある。
デジタル・ソサエティ協会の専門家、ダヴィッド・ゾマー氏は、「米国をはじめとする諸国の同意・署名を引き出すため、条約の義務から民間企業を除外するという条件取引がなされた可能性がある」とEメールで回答した。交渉をこの方向に進めるために、シュナイダー氏が大きく関与したと感じた市民団体もあったという。同氏が米国になびいたのは欧州評議会の上層部の指示だったとする疑いもある。「シュナイダー氏がどこまで自由に動けたかは疑問だ」とゾマー氏は述べた。
法律専門家のフランチェスカ・ファヌッチ氏も同意見だが、シュナイダー氏は採択を遅らせぬよう市民団体からの不満を無視したと批判する。「かの有名なスイスの中立性が、協議中に度々欠如していた点が非常に気になった」
また、米国外部リンクと同じくカナダ外部リンクと英国も、AIを商業目的で開発・使用する民間企業に対する法的拘束力のある義務をAI条約に盛り込むことに反対を唱えた。swissinfo.chの取材に対し、両国の代表はコメントを控えた。
取引の成立
この疑惑について、欧州評議会の広報官は「根拠のない憶測」だとEメールで否定。協議に基づき最終的な決定を下すのは委員会の加盟国であるとした。
シュナイダー氏もまた、自身に向けられた非難を否定した。委員長は議論を取りまとめ各国の共通点を探るが、条約の内容を決定するのは加盟国46カ国だとし、「欧州だけでなく、世界的に通用する条約にすべきだという点で、全員一致した」と指摘。問題提起があれば、誰にでも発言の場を与えたことを強調した。
委員会の過半数を占めるEU27カ国の強い発言力を考慮すると、米国が圧力をかけたとする批判はおかしいと同氏は続ける。「EUと他の加盟国の発言時間は、合計で米国とカナダよりも長かった」。また合意に向けたロビー活動は行っておらず、3月15日の期限までに全ての国が草案に合意するよう努力しただけだと話す。
AI委員会のクリスチャン・バルトリン事務局長も同氏を擁護し、欧州と非欧州の両方を含む取り決めの中立的な進行役と仲介役を務めるために、シュナイダー氏は懸命に努力したと述べた。「市民を守るためには、欧州諸国だけでなく、AI技術の主要な生産者も共通のルールを守る必要がある」と強調した。
とはいえ、欧州評議会が自らの存在意義をアピールするために、何としても世界に示せる協定を成立させたかったのでは、という疑惑は残る。ここ20年間で、市民権や安全保障のガバナンスは次第にEU主導にシフトしてきた。2022年までは外部リンクロシアも欧州評議会のメンバーだったことから、人権と民主主義の価値を尊重する国だけで構成されるべき機関としての信頼性にキズが付いていた。
欧州評議会の最新の建物内に置かれたゴツゴツしたソファーとまばらな内装は、アナリストらの見解を象徴するかのようだ。ジュネーブ大学のルネ・シュウォック名誉教授は最近フランス語圏の日刊紙ル・タン外部リンクにこう投稿している。「欧州評議会は長らく衰退の一途をたどっており、力も信頼性もない」。一方で、欧州評議会の「慎重さ」と「慎み深さ」のおかげで、EU域外の国々にも権利を巡る討論の場が与えられている反論する意見も外部リンクある。
欧州評議会におけるスイスの確かな存在感
1つ確かなことがある。シュナイダー氏のキャリアは衰退するどころか、その絶頂期にあるということだ。AI委員会の委員長としての最後の会合を終えた今、その役目を後任に引き継げてほっとしたと言う。とはいえ、完全に舞台を去るわけではなく、同氏は今後もAI委員会の副会長として欧州評議会に在籍する予定だ。
また、EUの非加盟国であるスイスは、今なお欧州の主要機関の1つである欧州評議会で、今後も代表的な役割を担っていく。9月に欧州評議会の新事務総長に就任したアラン・ベルセ前連邦閣僚は、AIを「民主主義を脅かすパラダイムシフト外部リンク」だとし、規制に肯定的な立場を示した。
一方シュナイダー氏は、気候変動やエネルギー資源管理といった難題に取り組む際、このテクノロジーが重要な鍵になると考える。同時に、アルゴリズムが思想の自由や民主主義にもたらす脅威が大きくなりつつあることも認める。そのため、AI国際条約がAIの問題とリスクを軽減する法的秩序の構築に役立つよう期待しているとした。
「条約がうまく行くかどうかは、10年後、20年後に分かるだろう」(シュナイダー氏)
編集:Sabrina Weiss、Veronica De Vore、英語からの翻訳:シュミット一恵、校正:ムートゥ朋子
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