解説: 米国の医療研究費削減がスイスの科学界を揺るがしている理由

トランプ政権の政府コスト削減策は、科学関連部門にも及んでいる。国立衛生研究所(NIH)は先月、建物や公共料金など「間接費」の助成金を数十億ドル削減すると発表した。助成を受けるスイスなど世界の科学者や医薬品メーカーへの影響は避けられない。
ドナルド・トランプ米大統領は就任以来、NIHの生物医学研究への助成金制度を標的にしたメモや大統領令を次々と発表している。この1カ月で、連邦政府機関による情報伝達を禁止し、NIHの間接費の上限を現在の平均30%から15%に引き下げ、すべての連邦助成金の拠出を一時停止した。
先月7日には性的少数者LGBTQ+の健康研究に関するNIHの助成金打ち切りを発表した。「過激で無駄なDEI(多様性、公平性、包括性)プログラムや優遇措置の終了」を求める大統領令が根拠だ。
これらの措置の多くは法廷で争われているが、スイスの科学者や製薬企業はすでにNIHの方針変更による、財政や科学一般への影響を懸念し始めている。
スイスのパウル・シェラー研究所の神経生物学者アドリアン・ワナー氏は「この変更は、世界中の科学者に多くの不確実性をもたらした」と話す。ワナー氏は、マウスの脳の詳しい地図を作るNIH助成の大規模プロジェクトに参加する約100人の研究者の1人だ。
ワナー氏は、脳構造を高解像度で可視化し分析する高度顕微鏡技術を開発するために、NIHから230万フラン(約380億円)の直接助成金を受けている。
ワナー氏は9月に最後の分割金を受け取る予定だが、プロジェクトの第2段階の提案募集があるのかどうかさえ疑問だという。「我々も、NIHでさえ、このプロジェクトが今後どのような道筋をたどるのかわからない」

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世界の生物医学研究助成金、最大のスポンサーはNIH
NIHは世界最大の公的生物医学研究助成機関であり、年間予算は470億ドル、そのうち80%が研究助成金、残りは米国内のNIH主導の研究と管理費に充てられる。
この予算は英国、オーストラリア、欧州連合(EU)を合わせた健康研究資金をはるかに上回る。欧州最大の研究・イノベーション助成プログラムであるホライゾン・ヨーロッパの2021〜2027年の予算は955億ユーロ(15兆4300億円)で、ここには健康分野以外の多様なテーマも含まれる。メディアの報道によると、中国の国家自然科学基金(National Natural Science Foundation)が、2023年に健康研究に投じた資金は約50億元(1020億円)だった。
スイス最大の公的研究助成団体であるスイス国立科学財団(SNF/FNS)が2024年、生物学と医学に拠出した資金は4億3200万フラン(725億円)だった。
健康研究における最大の助成団体は、英国のウェルカム・トラストとゲイツ財団だ。ゲイツ財団は2023年、グローバルヘルスに約18億ドルを投じたが、すべてが研究費ではない。ウェルカム・トラストは、2023年度に16億ポンド(300億円)を生物医学研究に投資した。
NIHの予算規模は大手製薬会社の研究開発費も上回る。スイスの製薬会社ロシュは2023年、大手製薬では3番目に多い額を研究開発費に費やしたが、それでも約140億ドルだ。
NIHは国外にどれだけ助成している?
NIHの研究助成は基本的に米国内を優先する。このため助成金の99%は米国内の機関に充てられる。ここ最近では、外国の機関に直接交付される資金は年間2億5000万ドル程度に過ぎない。
スイスの研究機関は2024年、NIHから7件の直接助成を受け、総額は約910万ドル(約13億4000万円)だった。スイスはNIHの助成金受領額では上位に位置するものの、件数では他国より少ない。
ワナー氏は、「米国外の研究主体がNIHの助成金を得るのは非常に難しい」と語る。「NIHが外国の機関に助成金を与える可能性は1%未満だ。(助成を受けるには)米国で実現できない研究であることを証明しなければならない」
データを深く掘り下げると、世界の研究者にとってのNIHの重要性は、直接助成にとどまらないことがわかる。世界中の何千人もの研究者が、米国の研究機関が主導するNIHプロジェクトに共同研究者として関わっている。
スイスの研究機関は2024年、489件のNIHプロジェクトに共同研究者として参加した。その一例がPASAGE(希少疾患のための出生前遺伝子編集療法に関する意識調査)だ。これに関しては米国の総合病院メイヨー・クリニックが直接助成を受けるが、スイス連邦工科大学チューリヒ校(ETHZ)の生命倫理研究者など、複数の機関とも連携している。
ETHZが2024年に関与したNIH助成共同研究はこれを含め9件あり、総額は28万5000ドルに上る。
NIHは何に助成している?
NIHは27の研究所とセンターで構成され、フッ素や老化の基礎科学に関する小規模な研究から、中毒、がん、妊産婦死亡率に関する大規模な研究まで広く資金を提供している。NIHは、フェローシップや研修助成金も提供しているが、米国外の研究者がこれらの助成金を受けられることは、ほとんどない。
スイスの研究機関は、様々なプロジェクトで助成を受ける。ベルン大学は2006年以来、抗レトロウイルス療法の研究、研究支援データベース「The International epidemiology Databases to Evaluate AIDS Southern Africa collaboration外部リンク」の構築支援として、NIHから約5000万ドルの直接助成金を受けている。
NIHは昨年9月、ジュネーブのスイスバイオインフォマティクス研究所に、パンデミック対応とアウトブレイク監視を改善するための世界的な病原体データネットワークを開発する研究費として1000万ドル(うち270万ドルは分散)を助成した。
ワナー氏は「米国では野心とリスク志向性が異なる。NIHは、非常に困難だが成功すれば大きな効果を見込めるプロジェクトに積極的に資金を提供している」と言う。
NIHは臨床研究にも年間180億ドルを助成する。3月3日現在、NIHから資金提供を受けている臨床試験は7900件以上あり、そのほとんどが初期段階だった。スイスの製薬大手ロシュは最近、食物アレルギーに対する薬「ゾレア」の臨床試験結果を発表したが、これもNIHの助成を受けている。
NIHが助成した研究は、2000~2019年に食品医薬品局が承認した387件の医薬品のうち386件に絡む。抗がん剤グリベックや脊髄性筋萎縮症に対する遺伝子治療薬ゾルゲンスマなど、スイスの製薬会社ノバルティスのトップセラー薬の多くは、数十年前から続いてきたNIHの資金提供が貢献している。
NIHの助成金削減が及ぼす影響は?
NIHの予算がどの程度削減されるのか、またどのような優先順位が設けられるのかはまだはっきりしない。
助成を受けている研究者にとって最も差し迫った問題は、資金が途絶えた場合にスタッフの給与をどう維持するかだ。スイスでは研究員の即時解雇が難しい。ワナー氏は「資金が途絶えたら、研究者の給与を確保するために別の資金源を見つける必要がある」と話す。
また、swissinfo.chが取材した研究者たちは、助成金審査の基準が変わる可能性を懸念する。スイス生物情報学研究所で病原体データネットワークを統括するアイタナ・ネヴェス氏は「プロジェクトの実績以外の要素が今後の評価基準にかかわってくるのかどうかはわからない」と話す。
米国政府はすでに大統領令に沿う形で、「ジェンダー」「倫理」「Covid-19」といった単語を含むプロジェクトに厳しい目を向け始めている。
これが助成金削減の基準になった場合、今後の新薬開発やワクチン研究、女性の健康に関する基礎研究が大きく遅れるリスクが指摘される。また取材に応じた研究者たちは、科学研究における自己検閲の風潮が広がる可能性があり、そうなれば学問と科学の自由が害されると警告した。
科学における米国の重要性は資金面に限らない。ベルン大学のヴァージニア・リヒター学長は「米国は多くの分野で世界をリードする。その点で、米国の大学との共同研究は、スイスの研究機関にとって非常に重要だ」と話す。
ベルン大学の9億4200万フランの年間予算にNIHの助成が占める割合は小さい。しかしリヒター氏は「額ではない。研究の質に影響が及ぶ」と強調する。
研究協力の多くは、米国との交流や技術移転を伴うが、外国の研究協力者への還元も大きい。
ワナー氏は「現在の米国の状況は、科学全体に非常に悪影響を及ぼす可能性がある。米国はあらゆる分野で科学をけん引しているからだ」と話す。「科学において、米国は世界の手本だ」
編集:Virginie Mangin/ts、英語からの翻訳:宇田薫、校正:ムートゥ朋子
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