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60 年代の学生運動とは何だったのか?

1968年6月末、チューリヒで行われた「独立センター」の撤去反対デモ。60人のけが人が出た Keyimage

1968 年5月、パリの「五月革命」に端を発した学生運動の波は、ミラノ、ベルリン、プラハ、バークレー、メキシコ、そして東京にまで及んだ。それから今年で40年目になる。

スイスでも吹き荒れたこの学生運動。それはどのようなものだったのだろうか?

 戦後のベビーブームで誕生した、いわゆる団塊の世代は、国際的緊張関係と、その一方での好景気を背景に、50年代の社会を支配していた権力主義に反対した。それはある意味での社会的、文化的改革をもたらした。

禁止に反対

 平和主義、反権力主義、反核、消費社会反対、フリーセックスなど性的、文化的改革、コミュニティーでの共同生活、自然への回帰、などを行った若者の当時の共通のスローガンは、「禁止に反対すること」であった。それまで古風な教育機関であった大学は、膨大な数の学生が入学することによって初めて変化をとげ、全ては大学から始まった。
 
 スイスの学生組合は、教育の民主化を求め、授業カリキュラムへの学生参加を要求した。チューリヒ、ジュネーブ、バーゼル、ベルンで、学生討論集会や大学占拠、左翼系と右翼系の学生の衝突などがあった。ついで、スローガンが、家賃、公共交通費、文化費などが高すぎることに反対する方向へと移行。しかし、1968年6月、チューリヒで60人近いけが人を出したデモを除いて、スイスではほとんど暴力的な事件に発展することはなかった。

 「ヒッピーの運動と一体になって、学生たちは理想の世界に浸っていた。禁欲的で厳格なビクトリア朝気風の、親たちの持つ道徳感に反対し、より自由な生活を求めていた」
 と、ジュネーブ大学占拠に参加した、今は自由主義のエコノミスト、ベアト・カペラー氏は言う。その後、ベルリンで勉強を続けたカペラー氏は、
「ベルリンでは、厳格なマルキシズムが支配していた。社会を変えようとする者と、政治的権力を握ろうとする者との間に挟まれ、わたしは結局、社会主義政党に入り、その後運動に距離を置いた」
 と語る。

経済的要因も

 1968年8月のソビエト軍による「プラハの春」事件以来、共産主義はアナキスト、毛沢東派、トロツキストなど、さまざまな派に分裂した。

 その後、学生運動の波は、共産主義を中心とした運動展開の代わりに、保守体制の反対へと向かう。
「冷戦と父権性の支配という、2つに引き裂かれた社会の上を50年代の冷たい風が吹いていた。さらに第2次世界大戦で変わらなかったスイスの指導者は、ある種の複雑な牙城を形成していた」
 と、ローザンヌの歴史学者、ジャン・バトゥ氏は分析する。

 経済的要因も見逃せない。
「かつて経験したことのない好景気の時代だった。しかし同時に都市化の波とアメリカ型の消費社会が台頭し始めた時代でもあった」
 と、もう一人の歴史学者、ハンス・ウルリッヒ・ヨスト氏。
「サービス産業の発展、原子力発電の開始、高速道路の建設など、ポスト工業化の波は、まだポジティブにとらえられていた。しかし同時に、その波は安定の裏に潜む問題点を、政治家とある種のグループの間の不快な亀裂へと展開させていった」

1968年の評価は多様

 資本主義に反対する動きのほかに、核兵器反対、ベトナム戦争反対、独立する小国への支援なども学生運動の中核にあった時代、
「1968 年の運動は社会の関係性を変え、個人や女性を解放した。また国家の権力体制を弱め、民主化を推し進めた。しかし資本主義に反対する動きは完全に失敗した」
 と、NGO「アリアンス・シュド( Alliance Sud ) 」の代表、ペーター・ニグリ氏は言う。

 一方カペラー氏は異なる意見を持つ。
「われわれの世代は、左派にしろ右派にしろ、力をてこに法的体系に影響を与えた。しかし、権力を要求する方向性は生活全般に及び、全てが許されるようになり、人々が責任を取らなくなった」
 と1968年の影響のネガティブな面を指摘した。

swissinfo、イザベル・アイシェンベルジャール 里信邦子 ( さとのぶ くにこ ) 訳

「スイス連邦研究基金」は「スイスでの1968年の動き」の研究プログラムをスタートさせた。

2008年5月2~3日、ローザンヌとベルンの大学で、国際的な討論会が開催される。

2008年9月12日~2009年6月、リースタル( Liestal ) 博物館で「1968年の学生運動と今日」と題された展覧会が開催される。

1967年夏、アメリカでベトナム戦争反対デモ。

1967年秋、イタリアで、ミラノとトリノのカトリック系の大学が占拠される。

1968年3月、スイスのイタリア語圏ロカルノで高等師範学校の生徒がカリキュラムに反対して学校を占拠。

1968年4月11日、社会党派の学生のトップ、リュディ・ダッシュケ氏が襲われる。

1968年5月13日、パリで、左派政党と労働組合が100万人近い学生のデモに参加し、ド・ゴール将軍に反対。

1968年5月14日、ジュネーブで「軍の記念日」に反対デモ。

1968年6月22日、スイスの主要都市で何千人もの規模で、ベトナム戦争反対デモ。

1968年6月28~30日、チューリヒで、デパート「グロブス ( Blobus ) 」の中にあった「独立センター」の撤去に反対して3000人がデモ。警官との衝突で60人のけが人が出た。

1968年6月30日、ジェラ州ドゥレモン ( Delemont ) でジェラ州独立派の150人が州の建物を占拠。

1968年8月21日、ソビエト軍によるプラハ占拠「プラハの春」。

1969年2月、ジュネーブ大学本部占拠。

1969年6月、公共交通の無料を要求するデモが、ほかの社会的諸要求へと伝播する。

1971年5月、ローザンヌで映画館の入場料を無料にする映画組合の動きがほかの社会的諸要求へと伝播する。

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