100 年前、日本を描いたスイス人
ちょうど100年前の1908年4月末、スイス人画家カール・ヴァルザーはドイツ人作家ベルンハルト・ケラーマンと日本に出発した。
一行はシベリア鉄道経由で敦賀に着き、その後横浜、京都など10カ所を巡った。その間に制作されたヴァルザーの作品展「エキゾチシズムと印象派主義、1908年の日本に滞在したカール・ヴァルザー展」がベルン州ビール/ビエンヌ ( Biel/Bienne ) で開催されている。
「日本に着いた日、敦賀は大雨で暗く、期待していた花見どころではなかった。次の訪問地、横浜では西洋風の家の煙突から煙が出ており、日本的なものは見あたらなかった」と、ケラーマンはその著書『日本での散策』に書いた。芸者のいる茶屋に駆け込み、ようやく「伝統の日本」を見出した2人は、その後、歌舞伎、能、日本舞踊に心酔していった。
ドイツでのジャポニスム
1900~1905年のベルリンは、浮世絵などが盛んに展示され、ドイツでのジャポニスム ( 19 世紀半ばから20世紀始め西欧で起きた日本趣味 ) が開花した時期だった。ラフカディオ・ハーン( 小泉八雲 ) の本がドイツ語に翻訳され、そのイラストを描いた画家エミル・オルリクは、1900年から1年間日本に滞在し、帰国後、版画の手法を教えるアトリエをベルリンに開いた。
オルリクの友人であったヴァルザーは、このジャポニスムの影響を受け、舞台装置や、当時ベルリンのブルジョア階級が好んで注文した日本風の客間に、和紙のモチーフを使った壁紙や装飾を使った。日本に行く前にヴァルザーは、すでに日本的な装飾で生計を立てるまでになっていた。
こうしたベルリンでのジャポニスムの流行を感じ取った、出版社とギャラリーの経営者、パウル・カシラーが、ヴァルザーと作家ケラーマンを日本に送り込んだ。帰国後ケラーマンが書いたエッセイ集『日本での散策』は、豪華本であったにもかかわらず3版を重ね、2万8000冊売れ、ヴァルザーの絵も展覧会で多くが即売されたという。
日本の光と色が印象派へと導く
ヴァルザーが日本滞在中に描いた油絵は、10点だといわれているが、今回展示されたのは「歌舞伎の舞台」、「祇園祭」、「京都加茂川に並ぶ料亭」、「神社の祭」の4点。ヴァルザーは舞台装飾や、室内装飾をしていたせいか、これらには、人物より日本家屋や舞台の構造をきめ細かく表現し、建築の解説者のような視点が感じられる。
もともと演劇好きなケラーマンは、歌舞伎など日本の演劇、舞踊にのめり込み、『さっさよーさっさ・日本舞踊』という舞踊の専門書も書いた。このイラストを担当したヴァルザーは、何枚もの水彩画やデッサンを描いた。ここに使われる即興的な線や淡い色使いは、日本に来る前のはっきりとした輪郭線や平坦な色使いとは異なっている。
「日本の光と色がヴァルザーを印象派的手法に導いたようです。それはフランス印象派の点描的手法ではなく、流れるような即興的な短い線と色使いです」
と、キュレーターのフィリップ・リュシャール氏は言う。
また、日本の庭や、伝統的な家、魚村などの風景も一方できめ細やかに、一方で即興的な荒い線で描かれている。
「この国に、永久に住んでもいい。ただ今後人々が、伝統を守り、日本の魂を受け継いでいったらの話だが。僕は日本の本当の心を漁村で見つけた」
と、ヴァルザーは妹に宛てた手紙に書いたという。
swissinfo、ビール/ビエンヌにて 里信邦子 ( さとのぶ くにこ )
「エキゾチシズムと印象派主義、1908年の日本に滞在したカール・ヴァルザー展」
期間 4月10日~6月29日
時間 火曜~日曜日 11~19時
住所 「ノイハウス美術館 ( Muse, Museum Neuhaus ) 」
26、promenadede la Suze, Ch-2501, Bienne/Biel
電話 +41 32 328 70 30
1877年、ベルン州ビール/ビエンヌに商店主の息子として生まれる。1歳違いの弟ロベルトは、近年再評価を受けた、スイスで1、2を争う代表的作家。
ロベルトの書く詩にカールがイラストを付け、2人の兄弟愛と創作力は並外れたものだったという。
1899年、22歳でベルリンに行き、ドイツの芸術家協会「セッセッション ( Secession ) 」でも高い評価を受ける画家になる。
1903年、舞台演出家、マックス・ラインハルトに出会い、以後、舞台装置や舞台衣装を多く手がける。また同時に、当時ベルリンのブルジョア階級が好んで注文した、日本趣味の客間の装飾を手がける。
1908年、恋人がヴァルザーの心が離れたとして自殺をはかり、それを知った出版社とギャラリーの経営者、パウル・カシラーがベルンハルト・ケラーマンとの日本行きを勧める。
1908年4~10月、日本滞在。
1915年、第1次世界大戦の影響で、ベルリンを去りスイスに帰国。
1920年、ベルリンに戻るが、かつての面影が失われたと失望しスイスに帰り、チューリヒに居を構える。
1925~1943年、スイスでは国民的画家として有名になり、ベルン大学の壁画など、大型の、モニュメンタルな作品を多く手がける。
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