スイス・インド自由貿易協定の苦い薬
スイスとインドは知的所有権(IP)の保護について交渉を重ねているが、優勢なのはどちらだろうか。両国が妥協点を見つけられなかったことが一因となり、インドと欧州自由貿易連合(EFTA)の間で行われていた自由貿易協定の交渉は中止となった。
インドとEFTA(スイス、ノルウェー、アイスランド、リヒテンシュタインが加盟)の交渉は2007年に開始された。そしてスイスのヨハン・シュナイダー・アマン経済相は、先月長年の交渉を経てついに合意に近づきつつあると期待を表明したばかりだ。
しかしスイス連邦経済省経済管轄局(SECO)は23日、インド側から交渉成立は難しいだろうとの知らせを21日に受けたと発表。インドでは3月初め以降に総選挙の期日が決定されることから、現インド政権にはこのような重要案件を決定する権利がなくなるという。
ただし、技術面での交渉は続けられる。これまでの交渉の難点は、特許権保護を強化するようインド政府に圧力がかかっていたことだ。当然ながらスイスの製薬企業は、自分たちに有利な協定を求めており、活発なロビー活動を展開中だ。
NGOの「ベルン宣言(Berne Declaration)」で貿易政策を分析するトーマス・ブラウンシュヴェイクさんは、「製薬企業はスイス政府に対し、国内の雇用に大きく貢献していることを引合いに出し、製薬業界の利益確保のために一層の努力を要請した」と語る。
スイスの要求
スイス製薬業界は二つの要求を提示しているが、インド政府は拒否を続けている。
第一の要求は、「エバーグリーニング(evergreening)」の対抗措置としてインドが設けた規制の廃止だ。製薬企業は、既存薬(の化学構造や使用法を)少々変更し、新たに後続特許を取得することによって特許保護期間を延長するエバーグリーニングを行っている。ノバルティスの抗がん剤グリベックの訴訟では、これが長年の争点だった。最終的にインド最高裁はグリベックの改良版の特許を棄却した。
第二の要求は、特許切れの既存薬のジェネリック版(後発医薬品)の製造と登録を困難にするデータ独占期間の導入だ。既存薬のデータがなければインドのジェネリック医薬品メーカーは、製造のために臨床試験を繰り返さなければならず、その結果既存薬が市場を独占し、高価格が維持される。
インドは、これら二つの要求が世界貿易機関(WTO)の「知的所有権の貿易関連の側面に関する協定(TRIPS協定)」の枠を超えるものだとして拒否している。
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TRIPS協定
TRIPS協定には、医薬品の特許を含む知的財産権の保護について世界的な最低基準が設けられている。しかし、一般大衆が必要な医薬品を手ごろな価格で購入できるよう、規制をある程度修正するための裁量の余地を協定締結国に与えている。
スイスの化学・医薬・バイオテクノロジー業界を代表する協会「サイエンスインダストリーズ(scienceindustries)」のマーセル・ゼンハウザーさんは、インドはTRIPS協定を批准したが、自由貿易の国際的な義務を拒否していると主張する。
「自由貿易の精神に最も反しているのは、特許品の輸入を特許権の実施とみなすことをインド政府が拒否している点だ。インドは貿易を促進するのではなく、外国企業に(インドにおける)現地製造を強いている」
また、特許を失うことによって、製薬業界が巨額の損失を被る可能性がある。
米国のプレッシャー
知的所有権の保護を制限するようなインドの政策に対して態度を硬化させているのはスイスの製薬業界だけではない。米商工会議所もまた米政府に対しインドに圧力をかけるよう要請している。このままでは貿易制裁を発動せざるを得ない貿易相手国として、インドの評価を変更するよう2月初旬に呼びかけた。
一方、医療や人道分野の援助機関は、インドへ圧力がかかることによって、安価なジェネリック医薬品の供給が脅される可能性があると危惧している。
「自由貿易協定を持ち出して、TRIPS協定より厳しい知的所有権保護法を押し付けるべきではない。さもなければ国境なき医師団の援助活動や発展途上国などへインド製の安価なジェネリック医薬品を供給することが難しくなる」と国境なき医師団インド支部でアクセス・キャンペーン担当のリーナ・メンガネイさんは語る。
そもそもインドは、EFTAとの協定で得るものがあるのだろうか。ブラウンシュヴェイグさんや、匿名を条件にインタビューに応じた元交渉担当官らは、インドにとって唯一のメリットはインド人技術者がスイスの労働市場に参入しやすくなることではないかと見ている。しかしこれは容易な条件ではない。
これはインドにとって難しい交渉だが、スイスにとっても移民は微妙な問題だ。今月9日には、EUからの労働者を含む移民の制限を求めるイニシアチブが国民投票で可決された。移民と短期労働者への労働許可証発行は別の問題だが、移民問題に対する国内の懸念はより大きなウエートを占める。
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移民
「国際交渉の担当官は、国内問題を考慮し、政治的な判断に基づいて交渉を行う。移民問題もその一例だ」。ブリュッセルにあるシンクタンク、ブリューゲル(Bruegel)のスパルナ・カルマカーさんは国民投票が行われた今月9日以前にそう語った。
「移民と自由貿易地域における人の移動はと同じではない。『サービスの貿易に関する一般協定(GATS)』サービス供給者の移動ついての規定と、政治家の言うことは異なる」
当事国の政治状況によっては、政治家は(合法・違法の)移民と自由貿易協定交渉に基づく短期労働者を明確に区別したがらない。
貿易協定では、人の移動とは高度(あるいは中程度)の技術を持つ熟練労働者の移動を指し、一般的に受入れ国におけるそれら労働者の不足を補うものだ。また、それらの労働者の滞在は通常3年、最長5年の期限付きで許可される。それ以上の場合は、入国条件について再交渉が必要になるとカルマカーさんは説明する。
スイスは現在、欧州連合(EU)とEFTA加盟国以外の国からの労働者の受け入れ上限数を設定しており、9日の国民投票を受け、今後は全ての外国人を対象とした上限数の設定に向けて体制を整えることになる。その上限数は、雇用状況、経済成長、業界の需要によって決められる。ドイツ語圏の日曜紙ゾンタークス・ツァイトゥングによると、インドはこの国民投票の結果を受け、スイスの労働許可が取得できるインド人IT技術者の人数に関しては今後、これまでのようには譲歩しないつもりだという。
元交渉担当官らは、「スイス経済は小規模なため、労働許可証での譲歩はインドにとって大海の一滴にしかならない。サービス分野の専門家を多数抱えるインドが落胆することは間違いない」と指摘する。
また、外国人にスイスの労働市場の門戸を広げるような協定を結ぶと、他の自由貿易地域に対しても同様の譲歩をしなければならなくなるのではないかと危惧する声がある。これまでスイスと交渉を行った自由貿易地域は30余にものぼる。
インドと欧州連合(EU)もまた2007年に自由貿易地域交渉を開始した。しかしEFTAとの協定が先に調印されることになりそうだ。「インドはEUよりもEFTAとの自由貿易地域協定を優先させているが、正しいアプローチだと思う」とシンクタンク、ブリューゲルのスパルナ・カルマカー氏。「28カ国もが加盟する組織よりも、わずか4カ国の加盟国から成るEFTAと先に交渉するほうが容易だ。まず少数の相手国との交渉術を理解した後に、多数の国を相手に交渉した方が理にかなっている」
譲歩
しかしカルマカーさんはこの懸念を退ける。「2国間交渉において譲歩したとしても、それが他の自由貿易地域に自動的に適用されるということはない。いかなる条件についても個別に各国と交渉すべきだ。関税のケースが大半だが、2国間貿易が展開するにつれて、新たな譲歩を引き出すために再交渉が行われた例は多い」
前述の専門家の間では、インドはいかなる圧力にも屈する必要はなく、交渉の決着を急ぐべきではないとする意見がある。
インドは昨年末に食糧安全保障問題で譲歩を確保したように、世界貿易機関(WTO)のような多国間協議の場で交渉できる立場にある。
インドは貿易政策について慎重な姿勢を保ってきた。ローザンヌにあるIMDビジネススクールの国政政治経済学部のジャン・ピエール・レマン名誉教授は「インドは世界の貿易ルール形成において強力かつ影響力のある役割を担っている」と認める。
さらにレマン氏は「インドは自国の利益を守らなければならない。しかし国益と国際社会の利益は一致するはずで、インドはそれを認識するべきだ。インドの人口はまもなく世界一に達する。事実、若年層の人口はすでに世界最大になった。インド政府にとって国民の健康政策は極めて重要な優先事項だ」と語った。
最後にレマン氏は「貿易を発展させ、国益と国際社会の利益を一致させるような貿易政策の促進は、スイスのような先進国にかかっている」と締めくくった。
医薬、化学、バイオテクノロジー分野の企業の輸出は、スイスの総輸出額の40%を占め、スイスの主要輸出産業となっている。
この三分野の産業協会「サイエンスインダストリーズ(scienceindustries)」によると、同産業における2012年の雇用は6万5千人と、雇用者数の最も多い国内産業の一つ。
これら三つの産業の輸出合計は、2013年は2.5%増加。一方、対インド輸出は同年マイナス23.8%減の7億フラン(約806億円)に減少。これによって、これら3大産業の対インド輸出比率は総輸出の0.86%に減少し、インドは第21位の輸出相手国に下降した。
市場調査会社デロイト(Deloitte)は、インド製医薬品の売上げが2013年の236億ドルから2016年には14%増の270億ドルへ拡大すると推計。
欧州自由貿易連合(EFTA)とインドとの自由貿易地域交渉は2007年に開始された。EFTA加盟国はインドに対し1300万人規模の市場を開放し、その見返りとして100倍の規模に成長しつつあるインド市場へのアクセスを要求。インドとEFTAの2者間貿易は、2011~12年の375億ドルから2012~13年の344億8千万ドルへと減少した。
EFTA加盟国のノルウェーは知的所有権保護についてスイスとは異なるアプローチを採っており、知的所有権(IP)に関する交渉には参加していない。2009年、当時の貿易産業副大臣リッケ・リンド氏は、「ノルウェーは知的所有権に関し、政治的選択肢を狭め多国間合意の枠を超えるような協定の受入れを途上国に強いるような方針は取っていない」と発言。
ノルウェーのEFTA協議首席担当官エリック・アンドレアス・アンダーランド氏は、「EFTAは通常、自由貿易協定内に知的所有権についての条項を設けているが、(各加盟国の)もくろみは多様だ。我々は、アイスランド、リヒテンシュタイン、スイスの対インド交渉の結果の内容に関わらず、インドと合意する準備はある」と電子メールで返答した。
(英語からの翻訳・編集 笠原浩美)
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