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氷河融解がもたらす「空からの津波」

洪水
氾濫するシンメ川(2018年7月、スイス中西部ベルナーオーバーラント・レンク村)。プレーヌ・モルテ氷河のファヴェルジュ氷河湖が前日に決壊。トリューブバッハ川とシンメ川が氾濫し、観光客、キャンプ場、レストランが避難対象となった Keystone / Patrick Huerlimann

世界で何百万人もの人々が氷河湖決壊による洪水の脅威にさらされている。温暖化で増大するリスクを軽減するための研究や対策が進むが、予測は困難だ。

3月末にスイス、インド、中国、日本で同時開催された「グローバル・サイエンス・フィルムフェスティバル外部リンク」で、独語圏スイス公共放送(SRF)の科学情報番組「アインシュタイン(Einstein)」のドキュメンタリー「氷河深部への探検(Expedition Deep into the Glacier)」(2021年1月21日放送分)が上映された。

同上映会のバーゼル本会場に専門家の1人として招かれた上海交通大学のシュグイ・ホウ(侯书贵)教授(氷床コア・地球変動科学)は、スイス中西部ベルナーオーバーラントの氷河湖決壊による洪水のシーンに心を動かされた。下流の渓谷が洪水に巻き込まれる光景が、チベット南東部ニェンチェンタンラで起きた洪水の惨事と重なったからだ。2020年6月26日に、村人らが川の上流付近で薬草を摘んでいると突然、決壊した氷河湖から大量の水、氷、岩が一体となってなだれ込んできた。

上映後の専門家によるパネル討論会で、侯氏は次のように説明した。氷河湖を取り囲む氷、あるいは堆積した土と岩は自然のダムの働きをしている。だが不安定なため、大雨、雪、氷雪崩などで氷河湖の水位が上昇すると決壊し得る。この「氷河湖決壊洪水(Glacial Lake Outburst Floods、GLOF)」と呼ばれる現象はあまり知られていないが、山岳地域に潜む重大な脅威だ。

チベットで起きた洪水では、信じ難いほどの勢いで水が噴出した。災害後の推定外部リンクによると、氷河湖からのピーク時の水の流出速度は毎秒平均5602立方メートル(オリンピックプール2.3個分)。幸い死者は出なかったが、猛烈な洪水は家、農地、道路、橋などを一気にのみ込んだ。

「こうした災害は何世紀もの間ずっと起こり続けてきた。だが近年は劇的で破壊的な様相を見せ、一般市民や科学者の目に止まるようになった」と侯氏は言う。

既に何百万人もの人々が、このような突発的な災害の脅威にさらされている。しかし、なぜ、どのようなタイミングで、どういう仕組みで起こるかの詳細はまだ分かっておらず、予測はあくまでも憶測の域を出ない。スイスなど複数の地域で、現象の解明に向けた研究が進められている。

「空からの津波」

氷河湖決壊洪水は原理的に以下の仕組みで起こることが分かっている。①気候変動によって氷河が後退する②氷河末端は氷河によって運ばれ堆積した岩や石で丘(モレーン)が形成されている。このモレーンや氷壁が水をせき止める自然のダムとなり、その内側に融解水が溜まって湖ができる③湖が増水して氾濫したり、自然のダムが決壊したりすることで、膨大な量の水が前触れもなく放出される。国連開発計画(UNDP)はこの現象を「空からの津波(Tsunamis in the sky)外部リンク」と呼ぶ。

予測が難しいのはなぜなのか?その理由を、英ニューカッスル大学の博士課程で氷河湖決壊洪水を研究するキャロライン・テイラー氏はこう説明する。考慮すべき変数(関与する要因)があまりにも多く「2つとして同じ現象はない」。そのため汎用的な予測モデルを作ることが極めて難しい。これはあらゆる自然災害について言える。あるタイプの現象を予測するモデルができたとしても、要因やその寄与率の異なる別のタイプの現象や兆候を見逃す恐れがある。

テイラー氏らは世界中の氷河湖決壊洪水の潜在的リスクを調査し、その結果をまとめた論文を 2月に発表外部リンクした。これによると、世界中で1500万人が潜在的な危険にさらされており、その半分以上をインド、パキスタン、中国、ペルーが占める。最もリスクの高い地域はヒマラヤ山系とアンデス山系だ。調査対象30カ国中で最もリスクが低いのはニュージーランドで、スイスはその次に低リスクとされるが、それでも約70万人が洪水による被害を受ける可能性がある。

氷河湖決壊洪水は数百年前から観測外部リンクされている。つまり少なくともそれだけの長期にわたる観測記録がある。にもかかわらず、氷河の動力学・モデリングや監視についての豊富な専門的技術を持つスイスですら、未然に災害を防ぐことは難しい。

スイス連邦工科大学チューリヒ校(ETHZ)・連邦森林・雪氷・景観研究所(WSL)のマウロ・ヴェルダー氏(雪氷学)は「汎用的な戦略が見つかると考えるのは幻想だ」と断言する。最大の障壁は、既存の技術では氷河の融解水が流れる水路システムの変動を正確に測れないことだ。

ヴェルダー氏によると、氷と岩盤の間や氷河内部には非常に小さな亀裂が無数にある。亀裂は絶えず成長、変動しながら氷河湖の形成に寄与している。その一般的な傾向は分かっても、亀裂が今後数メートルもの大きさに成長するかどうかは予測できない。融解水が亀裂をゆっくり伝わるのか、あるいは一気に流れ込み洪水を起こすのかも予知不能だ。「ひょっとすると全く起こらないかもしれないし、1回、あるいは何回も起こるかもしれない」

以下は科学者と探検家によるスイス西部のプレーヌ・モルテ氷河の深部探検の記録(2017年の過去記事外部リンク)。

高額なリスク軽減対策

ベルナーオーバーラントでは2008年、約1500万フラン(約22億5千万円)の事業費を投じ、グリンデルワルト下氷河の融解水を排水する人工水路(氷河内を走る水路)を作った。だが氷河の後退が予想よりも早く進んだため、残念ながら数年間しか機能しなかったとヴェルダー氏は話す。

2019年にはもう1つの野心的な事業が行われた。ベルン州とスイス南部ヴァレー(ヴァリス)州の境界に横たわる欧州最大のプレーヌ・モルテ氷河を横断する人工水路だ。地方自治体が主導したこの水路は毎年夏に10億リットルを超える量の融解水を排出している。その様子は冒頭のドキュメンタリーフィルム「氷河深部への探検」でも紹介された。

この水路の目的は、氷河湖の1つから人工的に水を流し、下流部のレンク村に常に脅威を与えている洪水のリスクを軽減することだ。同事業はWSLの科学的な協力外部リンクを得て行われたが、地元当局の中には氷河湖決壊洪水のリスクや水路建設の費用対効果を疑問視する声が上がる。

侯氏は、このような介入は費用対効果で評価・検証されるべきではないと主張する。「万能な」解決策など存在しないからだ。軽減策の効果は一時的かもしれない。だがそれらは必要だと話す。

以下の記事で、 SRF制作のドキュメンタリー「氷河深部への探検」(39分)を英語字幕付きで紹介。人工水路が建設されているプレーヌ・モルテ氷河とその深部探検にSRFレポーターも同行した。

監視・対策の協力が重要

より暖かくなり雨が増えるほど、氷河湖の数も大きさも増大し、洪水が頻繁に起こるようになる可能性が極めて高い。これは専門家の一致した見方だと侯氏は強調する。

テイラー氏は、軽減策が講じられないまま氷河湖周辺の人口が増え続けていけば、今後数年のうちに、より多くの人々が洪水のリスクにさらされることになるだろうと警告する。

歴史的に、アイスランドと北米大陸が氷河湖決壊洪水の「ホットスポット」とされてきた。

だが、同地域の頻度と規模が他より高いのは本当の傾向なのか、あるいはただ単に同地域が他の地域よりも長期的な観測記録と豊富なデータがあるせいなのかは分からないと、英ニューカッスル大学の研究者キャロライン・テイラー氏は言う。

標高の高い場所で起きる氷河湖決壊洪水の多くは正確に記録されないため、網羅的な洪水記録データベースは存在しない。

テイラー氏らは最近発表した論文の中で、氷河湖決壊洪水の危険が高い注視すべき地域として、パキスタンなどのアジア高原地帯を挙げる。記録が不完全でデータが少ないアンデス山系も同様に危険だという。

中国やインドのような国土の広い国では氷河湖は点在しており、アクセスに高額な費用がかかる上、地政学的緊張もある。その点スイスは、氷河湖へのアクセスがはるかに簡単で監視もしやすい。

一方、インドやブータンなど、これまで情報交流やデータ共有が希薄だった地域で、最近は国境を超えた監視体制が取られるようになってきた。テイラー氏はそれを前進だと感じる。「事態は正しい方向に進んでいる」

編集Sabrina Weiss & Veronica DeVore、英語からの翻訳:佐藤寛子

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SWI swissinfo.ch スイス公共放送協会の国際部

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