資産隠しの重大スキャンダル スイスの過去と現在
長年にわたり、スイスは独裁者たちが秘密特権を享受する資産隠しの安全地帯だった。2016年になってようやく不正取得資産の凍結・返還に関する法律が公布され、今やスイスは権力者たちの汚れた金と戦うリーダーだ。この記事では資産隠しの重大スキャンダルを振り返る。
世界銀行の推計によると、発展途上国では毎年200億ドル(約2兆7千億円)から400億ドルが腐敗官僚の懐に消えている。世界有数のオフショアセンターであるスイスは、かつて不正資金の格好の隠し場所だった。国のイメージを損なうことを危惧したスイス政府は、権力者による不正蓄財対策を1986年から段階的に導入している。現在、その種の資金の没収・返還、いわゆるアセット・リカバリーにおいて、スイスは主導的役割を果たしている。それでもなお、スイスの過去は幾度となく蒸し返され、拭い去られることはない。
2022年初頭、国外メディアがハッシュタグ #SuisseSecretsをつけて金融機関大手クレディ・スイスのスキャンダルを報じた。内部告発者がドイツの新聞社スードドイチェ・ツァイトゥングに口座データを提供したのだ。スイスに蓄財していた汚職政治家や独裁者、犯罪者らの名前が公になった。
この記事では、過去の有名なスキャンダルを紹介し、資金返還をめぐるスイスの歴史を振り返る。スイスに資金を秘匿していた独裁者、大統領、政治家を以下に挙げる。
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ラファエル・レオニダス・トルヒーヨは、庶民の出でありながら30年以上にわたって強権的な独裁政治を行った。対外債務の削減、国家の近代化という功績もあるが、数千人の市民を拷問、殺害したとして記憶に刻まれている。
1961年、独裁者トルヒーヨは反徒により暗殺される。マドリッドに逃れた家族は、トルヒーヨの資産をヨーロッパに持ち込もうと画策し、偽の名義人が資産の一部でスイスの銀行2行を買収した。スイス連邦銀行委員会(現金融市場監督機構=FINMA)委員長は、黙認した見返りとして数回にわたりスペインで接待を受けた。この件が表沙汰になり、連邦政府は同委員長を解任したが、スキャンダルとして海外でも大きく報道された。
1974年、エジプトで軍事クーデターが起こった。エチオピア皇帝ハイレ・セラシエが退位し、44年にわたる摂政政治の幕が下りた。セラシエは自宅軟禁状態のまま1975年に謎の死を遂げる。枕で窒息死させられた、エーテルで気絶したところを絞殺された、など諸説がある。遺体は宮殿のトイレ床下に埋められ、数十年を経てようやく正式に埋葬された。
新軍事政権は、セラシエの不正蓄財150億ドルがスイスの銀行にあるとしたが、証拠は示されていない。
その退廃ぶりで知られたペルシャ国王ムハンマド・レザー・パーレビは、スイスと特別な結びつきがある。子供時代にジュネーブ湖畔の寄宿学校で学び、その後も定期的にスイスで休暇を過ごした。1968年、冬の居城としてサン・モリッツに別荘を購入している。スイスの銀行口座にも資産があるがその額は不明だ。
派手好きな国王の誇大妄想は留まるところを知らなかった。1971年にペルセポリスの廃墟で盛大なパーティーを開いた際、砂漠に人工オアシスを作らせ、5万羽の小鳥をヨーロッパから取り寄せた。これが引き金となって、困窮するイラン国民とイスラム聖職者が反乱を起こし、イスラム革命が始まった。国王は海外に逃亡、イラン革命政府が国王の資産を押収した。
革命政府はスイスにある資産も「国有化」しようとしたが、パーレビがその座を追われた後もスイスは資産凍結を拒み、革命政府に正規の法的手段である強制執行権を使うよう促した。サン・モリッツの邸宅はその後もパーレビの相続人が所有している。
フィリピン国民は独裁者フェルディナンド・マルコスの圧政に長年苦しんだ。マルコスは世界で最も腐敗した支配者の一人で、家族ぐるみで国の財産を略奪した。美人コンテストの女王だったイメルダ夫人は、数千足、一説には3千足を超えるデザイナーシューズ、百着近いミンクコート、数百着のイブニングドレスなどを所有していた。
1986年、ついに民衆が蜂起し、マルコスは米国に逃れる。スイスの口座から資金を引き出そうとしたが、銀行はスイス政府に通報する。フィリピン新政府が法的措置を取る前にマルコスが国からくすねた金を移動させなどしたら、スイスのイメージが悪化する恐れがあった。そこでスイスは予防措置として財産を凍結した。こうしてマルコス事件はパラダイム転換としてスイス史に刻まれた。その後スイスがフィリピン政府に返還したマルコスの隠し資産数百万ドルは、独裁政権下の戒厳令で被害を受けた人々への補償金に充てられた。
1957年、医師フランソワ・デュバリエ(「パパ・ドック」)がハイチの大統領に選出された。希望に満ちた始まりは、まもなく残忍な独裁体制へと暗転する。パパ・ドックは国営たばこ企業の利益を直接自分の懐に入れるという、大胆不敵な方法で私腹を肥やし、秘密警察に数千人を殺害させた。
病が悪化して死期を悟ると、未成年の息子に大統領職を継がせるべく憲法を改正する。1971年、パパ・ドックが死亡し、「ベビー・ドック」が19歳で世界最年少の大統領となる。こうして2人のドックは親子で国の経済を破滅に導く。
1986年に暴動が起こり、ベビー・ドックはフランスに逃亡する。ハイチの要請を受けて、スイスはデュバリエの資金を凍結した。
ハイチで不安定な情勢が続いたため、デュバリエに対する裁判手続きは開始されなかった。スイスは時効に阻まれて司法協力も資金の返還もできず、袋小路に陥っていた。
そこでスイスは、有罪判決を条件とせず、明らかに違法であれば資産没収も可能とする法令を緊急手続きで制定し、ベビー・ドックの数百万ドルを差し押さえた。この資金を本国に返還するにはまだ数年を要するため、現在はユニセフのプロジェクトを通して資金返還を目指している。
ムッサ・トラオレは1968年の軍事クーデターによってマリの国家元首となった。トラオレが統治した数十年は、汚職、拷問、反政府勢力の殺害が横行する。1991年、再び軍事クーデターが起こり、トラオレの独裁は終焉を迎えた。
1991年、新政府は公金横領の容疑でトラオレの取り調べを開始し、スイスに司法協力を要請した。トラオレと妻マリアムはマリの法廷で死刑を宣告され、後に恩赦を受けた。
1997年、スイスは390万フラン(当時レートで約3億5千万円)をマリに返還する。他のスキャンダルと比べればささやかな金額だが、これは歴史的事件となった。マリの代理人として司法協力手続きを行った弁護士事務所の費用を、スイスがマリ新政府に支払ったのだ。つまり、通常の司法協力ルートを通してアフリカ諸国に返還がかなった初の事例となった。
サリナス兄弟は早くも子供時代から「事故」で世間を騒がしている。兄弟が5歳と3歳のとき、年上の少年たちと弾を装填した銃で遊んでいたところ、発射された一発の弾がわずか12歳の家事手伝いマヌエラの命を奪った。
1988年、カルロス・サリナスはメキシコ大統領に就任した。一方で兄ラウロは麻薬カルテルと取り引きし、米ドルで億単位の金を稼いでいた。自分の犯罪行為が発覚しないよう、ラウロは1995年に義兄でもある与党幹事長の暗殺を命じたとされる。
ラウロ・サリナスがメキシコの刑務所で服役中、サリナスの妻はジュネーブの銀行から大金を引き出そうとした。だが銀行は事前に警告を受けており、サリナスの妻は逮捕され、資金は押収された。
2005年、殺人罪に問われていたサリナスは無罪となったが、スイス当局の調査により、スイスに預けられた資金の一部が犯罪がらみと判明した。2008年には7400万ドルがスイスからメキシコ政府に引き渡されている。
モブツ・セセ・セコは1965年から1997年までザイール(現コンゴ民主共和国)大統領の地位にあり、銅、コバルト、ダイヤモンド、金などの取引で蓄財した。ザイールで飢餓と病気が蔓延する間も、独裁者モブツはコンコルドを所有し、パリで買い物を楽しみ、スイスにある領主の館を始めとして世界中に城を購入した。
1997年、ザイールの野党代表はスイスに司法協力を要請し、汚職と横領の疑いでモブツの全資産を凍結するよう求めた。野党党首がザイール大統領に任命されると、スイスは予防措置としてモブツと家族の資産を凍結した。
ところが新大統領はモブツに対する刑事訴訟手続きに失敗する。スイスが申し出た支援も拒否された。2009年、時効が成立し、モブツ氏の相続人に対して資金凍結が解除された。
サニ・アバチャは1993年から1998年までナイジェリアに圧政を敷いた軍事独裁者で、反政府勢力を処刑により排除した。アバチャと側近たちは、ナイジェリアの石油収入から推計で10億ドルから50億ドルを国外に持ち出し、その一部はスイスの銀行口座に隠された。
1998年、独裁者アバチャは54歳の若さで急死する。ドバイから飛行機でインドのセックスワーカーを3人呼び寄せた挙げ句、バイアグラの過剰摂取で心筋梗塞を起こしたのだ。スイスはナイジェリアに対し、アセット・リカバリーとしては世界最高額となる総額7億ドル以上を返還した。
出だしはよかった。「われわれが目指す国の近代化は、なによりも貧しい人々の利益になる」―農業技術者アルベルト・フジモリが1990年にペルー大統領に立候補した時の言葉だ。
だが10年にわたるフジモリの統治期間は、民間人の大虐殺、人権侵害、汚職スキャンダルが次々と起こる。そこで決定的な役割を果たしたのがブラディミロ・モンテシノスだった。
フジモリは2000年、贈賄未遂が発覚し、日本からファックスで辞任を表明した。モンテシノスは海外へ逃亡したがベネズエラで逮捕され、ペルーに身柄を引き渡された。
スイスはマネーロンダリングの疑いでモンテシノスの預金を封鎖する。約2億フランの賄賂は複数の銀行口座に分散されていた。
ペルーは自国で没収判決を下し、それによって資金回収を可能にした最初の国だ。2002年、スイスは初回分の7750万ドルをペルーに送金し、2006年と2017年にも返還された。2020年、スイスは最後の資金とその用途についてペルーと協定を結び、法治国家の強化と汚職撲滅プロジェクトに使われるよう取り決めた。なお、ペルーの刑務所で服役したフジモリとモンテシノスはすでに刑期を終えている。
貧しい生まれの元鉄鋼労働者ヌルスルタン・ナザルバエフは、29年間の長きにわたりカザフスタンの大統領として権力を振るった。在任中は本人と家族、近しい者たちが、この国の豊富な地下資源から得られる富を独占した。
だが、金では幸せは買えない。ナザルバエフの物語はまるでメロドラマだ。2020年、ナザルバエフの孫アイスルタンはFacebookで、自分はナザルバエフの孫であるだけでなく息子でもあると明かした。ナザルバエフとその娘ダリガとの間にできた子だという。爆弾発言はさらに国のエリートたちの腐敗にも及んだ。同年、薬物中毒のアイスルタンは心不全で死亡する。だが悲劇はそれより前から始まっていた。アイスルタンの法律上の父、ラハト・アリエフはオーストリアの監房で首をくくっていた。次いでアリエフの愛人は自宅アパートの窓から転落して謎の死を遂げ、その夫は交通事故で死亡。ドラマはさらに続くが、ここでは割愛する。
スイスは2000年にはすでにナザルバエフの口座を凍結している。1億1500万ドルにのぼる賄賂とおぼしき金を偶然発見したからだ。だが問題はほかにあった。ナザルバエフの大統領在任中にカザフスタンへ資金を返還する方法がないのだ。
2007年、世界銀行と協力してカザフスタンの貧困家庭を支援する独立基金が設立され、スイスはこの基金に送金。その後、資金の一部である4800万ドルが世界銀行のプロジェクトに送られて、カザフスタン国民のために使われた。
ナザルバエフは2019年に辞任したものの、「国家の指導者」として居座り続ける。ところが2022年に状況は一変した。ガス料金の高騰をきっかけに国民が暴動を起こし、ナザルバエフが突然姿を消したのだ。ちなみに、ナザルバエフ一族はスイスに複数の不動産を所有している。
2011年「アラブの春」では、何万という人々がデモに繰り出した。生活に不満を抱き、エリートたちが地域社会を食い物にして私腹を肥やしていると疑ったのだ。
スイス連邦政府は予防措置としてスイスに置かれていた資産を凍結する。エジプト大統領ホスニ・ムバラクと側近の資金については、辞任発表の30分後に凍結している。当初は4億1000万フランだったが、後に総額7億ドルに増えた。
だがエジプトの状況は不安定で、司法協力は不成功に終わる。2017年、ムバラクはエジプトの最高裁で無罪が確定し、スイス政府はムバラク資金の凍結を一部解除した。
スイス検察庁は犯罪組織への参加とマネーロンダリング(資金洗浄)に関して刑事訴訟を続けている。故ホスニ・ムバラク元大統領と2人の息子を含む5人が対象。凍結された資金は総額約4億フラン。
※2022年10月7日更新:スイス検察はムバラク氏周辺5人に対する司法手続きを取り下げ、4億フランの凍結を解除した。
※2022年10月19日更新:ホスニ・ムバラク氏の子孫がSWI swissinfo.chのオンブズパーソン事務局に対して届けた苦情を受け、記事内の一文を削除しました。
ローラン・バグボは10年間コートジボワール大統領の座にあった。2010年の大統領選挙で敗北したが負けを認めず、勝者への政権委譲を拒む。その結果暴動が起こり、約3千人が殺された。
バグボは2011年に逮捕され、スイスは元大統領と側近が所有する7千万フランを凍結する。
コートジボワールはバグボを国際刑事裁判所に引き渡し、バグボはハーグの法廷で弁明した初の国家元首となった。2019年、裁判所は予想に反してバグボに無罪を言い渡す。スイスにある資産の出所が合法的かどうかは不明のままだ。
グリナラ・カリモヴァは、長くウズベキスタンを統治し、2016年に死亡したイスラム・カリモフ元大統領の長女だ。外交官、ファッションデザイナー、歌手など複数の顔を持つグリナラは父の後継者と目されていたが、2013年に家族の不興を買ってしまう。ウズベキスタンでの通信事業許可と周波数割り当ての見返りとして、国際的な通信企業グループから10億ドルの賄賂を受け取ったことをとがめられたのだ。
これに先立つ2012年、スイスはカリモヴァの口座にある8億フランを凍結した。また、3億4000万フランを国連の信託基金を通じてウズベキスタンに返還をしようと、現在は外務省が協定の交渉を行っている。連邦検察庁も、カリモヴァに凍結資金の一部を取り戻させないよう奮闘している。49歳になったカリモヴァはウズベキスタンで長期禁固刑に処されたが、すでに刑期を終えている。
この男こそ、現在進行中のウクライナ戦争を後押しした張本人だろう。
ロシア寄りのヴィクトル・ヤヌコビッチ政権は2013年、予定していた欧州連合(EU)との連合協定の署名を見送り、西側との関係強化を望む人々の感情を逆なでした。大規模なデモ(マイダン革命)が起こり、失脚したヤヌコビッチ大統領はロシアに逃れる。
スイスは先回りしてヤヌコビッチの資金を凍結した。銀行には約7千万ドルが預けられている。ヤヌコビッチと側近にはウクライナ国家資産の横領容疑があった。ウクライナの新聞プラウダは2022年3月上旬、ヤヌコビッチがミンスクに滞在しており、ロシアはウクライナ新大統領に就任させるつもりだと報じた。
スイス政府は今年5月、ヤヌコビッチの側近ユーリー・イワニュシチェンコとその家族の資産に関する没収手続きを進めることを決めた。
ナジブ・ラザクは2009年から2018年までマレーシア首相を務めた。自らを国父と称し、マレーシアの経済と社会を発展させる名目で09年に政府系ファンド(1MDB)を設立した。このファンドには数十億の税金が投じられたが、6年後には多額の負債を抱えることになる。
2015年秋、スイス連邦検察庁が捜査を開始したところ、横領の疑いのある資金の一部がスイスの銀行の海外支店の口座を介してナジブに流れていた。
ナジブは21年に1MDB汚職により禁錮12年の判決をマレーシアで受けたが、控訴している。
他国とは異なり、スイスは凍結した数百万の資金をマレーシアに返還していない。
出典:スイス外務省外部リンク、パブリック・アイ、外部リンク バルツ・ブルップパッハー著「Schatzkammer der Diktatoren, Der Umgang der Schweiz mit Potentatengeldern」(NZZリブロ、2020年)など
(独語からの翻訳・井口富美子)
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