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ハイジの舞台を再訪した小田部羊一氏、キャラクターが生まれた背景を語る

キャラクターデザインを担当した、小田部羊一氏によるハイジの初期スケッチ。三つ編みからショートカットへの移行がうかがえる貴重なイラストだ (C)YOICHI KOTABE

スイスといえば「ハイジの国」。日本人にこのイメージを定着させたテレビアニメ「アルプスの少女ハイジ」の制作では、アニメ制作で初の海外ロケが行われている。42年前、高畑勲氏(演出・監督)、宮崎駿氏(場面設定・画面構成)、中島順三氏(担当プロデューサー)とともにスイスを訪れたキャラクターデザイナー・作画監督の小田部羊一氏。スイスで見て、感じたもの一つ一つからイメージを膨らませ、「ハイジ」に出てくるキャラクターを作り上げていった。再びハイジの舞台を訪れた小田部氏に、当時のロケの様子や制作の裏側、「ハイジ」の成功の理由などについて話を聞いた。

 アニメ「ハイジ」の中で生き生きと表現される山の風景や日常生活の様子、登場人物の表情や動き。それは、制作に関わったスタッフ全員の「本物を作りたい。いいものを作りたい」という熱意と意気込み、それから海外ロケ地スイスでの細部にわたる取材調査の成果だった。描かれる風景の自然さから、日本人が作ったアニメだとは思われないことも多いこの作品は、テレビ放送された欧州、アフリカ、アジア、アラブ諸国などでも高い評価を受けている。 

 その、世代を超えて愛され続けるキャラクター、ハイジを生み出したのが小田部氏だ。スイスのすがすがしい秋晴れの中テラスに腰掛け、穏やかに海外ロケ・制作当時を振り返る小田部氏の口からは、「一生懸命」という言葉が何度もこぼれた。

swissinfo.ch: 今回のスイス訪問のきっかけや理由は?

小田部羊一: 作家のちばかおりさんから、ハイジの原作者シュピリの地を訪ねる企画があるとのお誘いを受けたのがきっかけです。私は42年前、病気だった息子を仕事の忙しかった妻に任せてスイスにロケハンに出かけました。その後も僕は制作で忙しかったし、妻は全くハイジやスイスに興味を持たず、見向きもしなかった。それが、ロケハンから25年後に家族3人でスイスに来たとき、妻はすぐにスイスを気に入ってくれた。あんなに無関心だったのに。とても嬉しかった。その妻も8年前に亡くなり、妻がもう一度行きたいと言っていたスイスをまた歩いてみたいと思いました。

アニメ「アルプスの少女ハイジ」でキャラクターデザイナー・作画監督をつとめた小田部羊一氏 (C)ちばかおり

swissinfo.ch: 今回、ハイジの舞台となったマイエンフェルトを再び訪れて、どのような印象をもたれましたか?

小田部: 17年前に家族で来たときには、ロケ当時とあまり風景が変わっていないのに驚きました。それが嬉しかったですね。ただ、やはり車社会にはなっていた。42年前、牛飼いの後をついて行きながらスケッチをした道に車が走っていたのはちょっと寂しかった。

今回、風景はさらに変わっていました。42年前も、原作ハイジの書かれた時代(1880年)とはずいぶん違っていたはずですが、それでも想像力をかき立てるものがたくさんあった。今はそれが少なくなっている。昔、噴水をスケッチした広場が駐車場になっていたのもちょっとがっかりしました。

swissinfo.ch: ロケハン当時を振り返って、何が一番印象に残っていますか?

小田部: 海外旅行がまだ珍しかった時代に、アニメ制作で海外ロケに行くことは、前代未聞で画期的なことでした。ハイジを作ろうと思った社長(アニメ製作会社ズイヨーの高橋茂人氏)は、全世界にハイジを広めたいという大きな野心を持っていた。そのためには「きちんと作りたい。うそは描けない」と、スタッフを現地に送り込んだ。その社長の思いに何とか応えるために、本当の場所現地を見てみたいという強い気持ちがあり喜んで参加した・・・・・・と言いたいのですが、実は、「喜んだ」というのはうそでした(笑)。

社長の思いに自分が応えられるか心配だったし不安だった。できるならば他の人に代わってもらいたい、と思うほど緊張しました。今振り返ると、その緊張感を持って現地に臨めたことは、大きな収穫だったと思います。それなしには、ハイジは作れなかったと思います。

swissinfo.ch: キャラクターをデザインするにあたり、ロケハンでは何を中心に取材されたのですか?

小田部: 自分の仕事は、キャラクターを作り上げる、そのキャラクターがどう動くかに責任を持つことなので、人物を中心に一生懸命見ることにしました。

外国に行ったこともなければ、スイス人の顔立ちも分からない。とにかく何でも見てやろう、どんな小さなものでもいいから、一生懸命見てキャラクター像を作ろうとしました。

取材にはスケッチブックを2冊持参し、高畑監督が現地の人に質問している間に、相手の表情をスケッチしたり、カフェでコーヒーを飲んでひと休みする間にも周りの客を観察したりしました。

だけど実は、残念ながら肝心の主人公ハイジのモデルになるような女の子には出会えませんでした。子どもらしく可愛らしいなと思った子たちはいましたが、ハイジに結びつけるまでには至らなかった。

ある時、ユングフラウの土産物屋で木彫りの人形を見かけてふと気がついた。こういうものには、自然にその土地の風俗や人間像が出ているのではないかと。そんなものさえキャラクターのイメージを作り上げるのに役に立ちました。実際に、「アルムおんじ」はそのおもちゃから発展させました。ぼんやりとしたおじいさん像はありましたが、「スイスの山にいるおじいさん」というリアリティが欲しかった。そこに木彫りの人形が役に立ちました。

小田部羊一氏による1973年当時のハイジの初期イメージ画。目は青く、三つ編みの髪の毛はオレンジっぽい色だった (C)YOICHI KOTABE

swissinfo.ch: 他のキャラクターの参考になったものは?

小田部: とにかくアニメーションは想像力がほとんどの世界。いろんなものから人間像、キャラクター像を作り上げていきます。見たものだけでなく、自分の体験からイメージを引き出してこなければならないので、身近な人を参考にしたりする。

「ペーターのおばあさん」は自分の祖母のイメージから、「クララのおばあさま」は本で見たシュピリの肖像画から、ペーターは映画「禁じられた遊び」の男の子がモデルです。自分の通った日曜学校の牧師先生なども参考になりました。

swissinfo.ch: ハイジの元気の良さ、天真爛漫さがそのまま表れたような鮮やかな赤と黄色の服の色が選ばれた理由や、デザインの経緯を教えてください。

小田部: キャラクターの性格は顔立ちだけではなく、色によっても表現できます。色に関しては僕だけではなく、監督あるいは色指定と呼ばれるスタッフと一緒に試作品を作りながら検討する。その中で、ハイジの明るさ、元気の良さが出るのはどれだろうかと探りながら決めていきました。スイスの山や小屋の中の風景とミスマッチしないような色合いを作ることも大事です。いろんなことを総合して何人かで色を作り上げていきました。

現地に行く前に出す企画書の段階では、実はハイジは三つ編みで、外国人に見えるようにと目はブルー、髪の毛はオレンジっぽい色だったと思います。ほっぺたのデザインも、赤みが楕円形のものや、まん丸のものなど、いろんなものを描くんです。僕は「ほっぺたが赤丸なんて恥ずかしいかな?」と思ったのですが、高畑さんが「これがいい!これで行こう!」と言って決まりました。 

それからハイジの着ている民族衣装。これが難しい。本物の衣装は胸の前のクロスや細かい刺繍などがあってとても複雑です。アニメでは絵を描いて、動かさなければならないので、なるべく単純化したい、でも民族衣装らしさは出したい。その二つを探りつつ、単純に見えるけれど雰囲気が出るように心がけて作りました。

swissinfo.ch: 今となっては青い目のハイジは想像がつかないのですが、ペーターの顔は、企画書の段階とはあまり変わっていないようですね。

小田部: そうですね。でもペーターは、口を開けると歯が抜けているんです。後でプロデューサーに聞いた話ですが、実は僕が描いた、歯の欠けたキャラクターをスポンサーのカルピスさんに持っていったら、「カルピスを飲んだら虫歯になるというイメージになるからやめてくれ」と言われたらしいです。それで、僕にどう伝えるか困っていたと。でも苦肉の策で、口を閉じたペーターの絵を持っていったらOKが出たとのことです。

放送が始まってからは、何も言ってこなかったそうですよ。(歯の抜けた、いたずらっ子の顔を)ペーターの性格として認めざるを得なかったのでしょうね。

swissinfo.ch: アニメでは動物のキャラクターも重要な役割を持っています。

小田部: 原作にない犬を加えたのは、気が抜けるアイドル的な動物を出したかったからです。

動物は人間のようにしゃべったり表情で訴えたりすることがない。だけど、ただそこにいることで存在の意味とキャラクター(性格)を出したいという点で、監督と意見が一致しました。僕は、セントバーナード犬を実際よりも「ドスン」とさせることでヨーゼフらしさを出そうと思い、とても誇張しました。

ヤギのユキちゃんもいますね。本物のヤギの目は怖いのですが、僕は瞳や表情が出ないように単に黒く塗りつぶした。その単純化によってキャラクターらしさを出せたと思うし、失敗ではなかったと思います。

そして、動物のキャラクターを、演出でちゃんと表現してくれた監督の力をとても評価しています。

高畑監督はよく、リアル一辺倒だというような評価をされることがありますが、違うんですよ。例えばハイジが雲に乗っていたり、干し草のベッドでシーツをフワッとかける時ハイジの体が宙に浮いたりするシーン。ハイジが初めて山に行くときの、洋服を脱ぎ捨てて駆け出すあのシーンもオーバーな表現ですよね。そのような大胆な表現をすることで、その後の開放感を、全てを脱ぎ捨てて人間が大自然に飛び出していくという弾む心を見事に表している。これはやっぱり監督の演出力だと思います。僕はこういうところをきちんと評価して欲しいと思います。

swissinfo.ch: ハイジ以外にも多くのキャラクターデザインを手がけてこられましたが、その中でも特にハイジが愛されている理由は何だと思われますか?

小田部: 当時は、どうしたらハイジの世界を作れるかということに精一杯で、こんなに多くの人がハイジを受け入れてくれるとは想像もしていなかった。

ハイジは、食器を持ったり、ドアを開けたりという、ごく当たり前の動きが多い作品です。実はその何気ない動きは、多くの枚数で細やかに描かないと表現できない。ですから仕事は大変でした。大げさな表現、例えば「ガハハ!」という大きな笑いは意外と少ない枚数で表現できるけれど、ハイジの自然な笑い、自然な感情表現をするには、どの程度喜んだらいいかという微妙な加減も考えなければならなかったからです。

当時は1週間に1度だけ、家でハイジの放送をテレビで見ました。今、ハイジの展覧会などでモニターに流れる映像を見て、監督の演出の力や宮崎駿さんのきちんとしたレイアウト、それに沿って背景やキャラクターを描いたそれぞれのスタッフの一生懸命さをとても感じます。

アニメーションは誰か一人の力ではできない。ハイジは、みんながそれぞれの持ち場を一生懸命頑張ったからできたんだ、と改めて感じることが多い作品ですね。

そして、現地取材でスイスの空間、空気がピカピカ透き通って感じられたことなど、目に見えるものだけではない何かをそれぞれの人が感じ、表現できたから、ハイジの世界ができたのだろうし、みんなに受け入れられた理由かなと思います。

swissinfo.ch: 放送が始まった当時5歳の設定だったハイジの40年後、45歳のハイジなどは想像できますか ?

小田部: ぜんぜん想像しないですね。僕は、ハイジはシュピリが書いたあの作品の中で完結していると思うんですね。だからその後のハイジを描きたいとか、想像してこの後の物語を作ってみたいという気持ちは起きません。

いいアニメーションを作りたいという思いは、ものすごくエネルギーのいること。単に続編を作りたい、という気持ちだけでできることではない。アニメーションは、情熱と熱気がないとできないことです。

日本を代表するアニメーター、キャラクターデザイナー。

1936年9月15日生まれ。1959年、東京芸術大学美術学部日本画科を卒業、東映動画株式会社(現東映アニメーション)入社。「太陽の王子ホルスの大冒険」(1968)、「空飛ぶゆうれい船」(1969)などを手がける。1971年、高畑勲氏、宮崎駿氏とともにAプロダクション(現シンエイ動画)へ移籍し、「パンダコパンダ」(1972)の作画監督をつとめる。

1973年、高畑・宮崎両氏とともにズイヨー映像へ移籍、「アルプスの少女ハイジ」(1974)にキャラクターデザイン・作画監督として参加。その後も「母をたずねて三千里」(1976)「龍の子太郎」(1979)など数多くの作品に携わる。

1985年、任天堂入社。「スーパーマリオブラザーズ」「ポケットモンスター」シリーズなどのイラスト制作やキャラクター監修を担当。

2007年に任天堂を退社、再びフリーとなる。

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