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「サッカー先進国」スイス 19世紀の国際交流が貢献

スイスのサッカーチーム
19世紀に英国と経済的な交流があったスイスでは、古くからサッカーが盛んだった。英語のクラブ名はその名残だ Archiv BSC Young Boys

スイスサッカー協会が設立されたのは1895年4月7日。だがサッカーはそのずっと前からスイスに広まっていた。19世紀に盛んだった英国との交流がサッカー普及に大きく貢献した。

この記事はスイス国立博物館のブログからの転載です。2023年4月6日に公開されたオリジナル記事はこちら外部リンクでご覧いただけます。

スイスの首都ベルンの市民は郷土愛が強く、国中の人から愛される方言、ベルンドイツ語に誇りを持っている。それだけに、ベルン市のサッカークラブに「BSCヤングボーイズ(YB)外部リンク」と英語の名前が付いているのは奇妙だ。YBのホームスタジアムの「スタッド・ドゥ・スイス・ヴァンクドルフ」でも、あちこちに「ヤングボーイズ・フォー・エバー」の文字が目に入る。英語を使った「今風の」キャッチコピーかと思いきや、実はこのスローガン、1925年に最初の「ヴァンクドルフ・スタジアム」が産声を上げた時から重要な要素だった。

選手たちは自らの手でクラブのスローガンを永遠のものとした。1925年、完成したばかりのヴァンクドルフ・スタジアムにて
選手たちは自らの手でクラブのスローガンを永遠のものとした。1925年、完成したばかりのヴァンクドルフ・スタジアムにて Archiv BSC Young Boys
ボールを蹴る代わりに筆を執るYBの選手たち。1925年、ヴァンクドルフ・スタジアムにて
ボールを蹴る代わりに筆を執るYBの選手たち。1925年、ヴァンクドルフ・スタジアムにて Archiv BSC Young Boys

こうしてYBへの愛は「永遠」のものとなった。だがこの(愛の)物語は、そのさらに前の19世紀に端を発する。同スローガンは、既に1898年のクラブ設立時にメンバーが考案し、今日までYBに受け継がれてきた。では、なぜクラブ名もスローガンも英語なのか?

1898年3月、クラブ設立時に定められたYB規約。当時クラブ名は「フットボールクラブ・ヤングボーイズ」だった
1898年3月、クラブ設立時に定められたYB規約。当時クラブ名は「フットボールクラブ・ヤングボーイズ」だった Archiv BSC Young Boys

スイスにサッカーが伝えられたのは19世紀後半にさかのぼる。主に英国からスイスに働きに来ていた商人や教師、そしてスイスで学校に通ったその子供らや学生達がサッカーを持ち込み、広めていった。英国は近代サッカー発祥の地だ。

反対に(数は明らかに少ないが)、英国滞在中にサッカーに親しみ、帰国後にサッカーを広めたスイス人もいる。フランス語圏のスイス人、トレイトランス・デ・ロイスもそんな1人だ。1880年代にキングス・カレッジ・ロンドンで工学を学んだ後、帰国してスイス軍に入隊。1913年には師団長に昇進し、第1次世界大戦中はスイス軍の第2師団を指揮した。英国で親しんだサッカーを母国スイスに持ち帰り、軍の上層部でもサッカーが徐々に浸透していくきっかけを作った。

サッカーがスイスに入って間もない頃、使われる用語はもちろん全て英語だった。ドイツ語圏の方言「スイスドイツ語」で使う「tschuute」「tschutte」「schuute」「schutte」(いずれも「シュートする」という意味)という単語は、スペルこそ異なるものの、全て英語の「to shoot(シュートする)」から来ている。ペナルティ、コーナー、ゴーリー(ゴールキーパー)などは現在も英語のままだ。また、サッカーは当初「フットボールゲーム」と呼ばれていた。「BSCオールドボーイズ・バーゼル外部リンク」や「グラスホッパー・クラブ・チューリッヒ外部リンク」など、一部のクラブは英語で命名された。スイスサッカー協会外部リンクも1895年の設立時は「スイスフットボール協会」、ディフェンダーは「バック」と呼ばれていた。

1898年11月、スイスのスポーツ紙に掲載されたサッカー競技に関する記事。英語のサッカー用語があちこちにちりばめられている
1898年11月、スイスのスポーツ紙に掲載されたサッカー競技に関する記事。英語のサッカー用語があちこちにちりばめられている Archiv BSC Young Boys

スイスのどこで、いつ最初にサッカーの試合が行われたかは定かではないが、1860年代以降になるとレマン湖周辺に最も古い記録が残されている。当時の新聞にはジュネーブとローザンヌに住む英国人が対抗試合をしたとされる競技結果や予告についての記載がある。また、フランス語圏の教育機関シャトー・ドゥ・ランシーとラ・シャトレーヌでは、それぞれ1853年と1869年に既にサッカーが行われていたとされる。これらの学校には、英国の富裕層の子供達が通っていた。

1870年代にはスイス初のサッカークラブが設立され、メンバーにはスイス人も名を連ねていた。現存のサッカークラブでは国内最古のFCザンクト・ガレン外部リンクは、ロールシャッハにあるヴィーゲット研究所の卒業生らが1879年に設立した。在学中は同校の英語教師を通じてサッカーに親しんでいた。

1881年頃のFCザンクト・ガレンの選手たち
1881年頃のFCザンクト・ガレンの選手たち Wikimedia
シャトー・ドゥ・ランシーのサッカーチーム(1853年)
シャトー・ドゥ・ランシーのサッカーチーム(1853年) Wikimedia

サッカーが比較的早い時期にスイスに「輸入」され普及したのは、当時スイスで暮らしていた英国人が多かった外部リンクことと、貿易や観光などで英国と経済的なつながりがあったことが大きい。近代的なサッカーは(ルールが決められ文書化されたサッカーという意味で)、1840年から1860年にかけて英国で広まった。一方、ルールが成文化されていない「野生の」民間サッカーは、既に中世最盛期の頃から存在していたことが分かっている。

欧州諸国を比較すると、工業の発達が盛んだった国でサッカーがより早く広まったことに気づく。スイス以外では、特にベルギーとデンマークがそうだった。産業化時代に台頭した若く意欲的な社会階級は、自由貿易やコスモポリタニズム、そして競争をよしとした。そしてサッカーにも、これと同じ価値観を見出したのだ。すなわち普遍的なルールの下で行われる2者の対等な力比べだ。

>>1897年に行われたサッカー試合。ルールは守っているが、プレーの内容は…?

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国際交流が盛んだったスイスは、欧州におけるサッカー普及にも一役買った。ドイツ、フランス、イタリアのサッカーのパイオニアたちは、スイスの大学や高等学校でサッカーを学んだ。またスイスの商人や学者たちは、南欧でサッカークラブを共同設立した。

最も有名な人物はヴィンタートゥール出身のハンス・「ジョアン」・ガンペルだろう。1899年に志を同じくする者たちとFCバルセロナを創立したことで知られる。他にも、ブルガリア教育相の招きで様々な学校の教壇に立ち、生徒たちにサッカーを教えたフランス語圏のスイス人体操教師もいた。

ハンス・ガンペル(1896年)
ハンス・ガンペル(1896年) Wikimedia

1880年代に入ると、スイスの一部の国立学校でもサッカーが行われるようになった。1898年には連邦体操学校でも体操と体育のカリキュラムの一環としてサッカーが導入された。保守的なカトリックの州を除けば、当時の教育機関や教育内容はブルジョア色、リベラル色が濃かったため、同じような性質を持つサッカーはすぐに受け入れられた。それを後押ししたのは、ブルジョワ・エリート主義の公立学校で採用された英国式サッカーの教育的な側面だ。すなわち、競技やフェアプレー、チームワークを学ぶ他にも、ある種の男らしさ外部リンクを追及することだ。

森の中で体力づくりするスイスサッカーチーム(1960年頃)
森の中で体力づくりするスイスサッカーチーム(1960年頃) Schweizerisches Nationalmuseum / ASL

学校側は、サッカーを通じ生徒たちが芯のある、規律正しく健やかな男性に育つことを意図した。連邦体操学校は1898年に「良いサッカー選手とは、迅速で目的意識が高く、かつエネルギッシュでありながら、徹底して無私無欲で、ゲームの一般的な利益に全力を注げる人物である。教育手段としてのサッカーの価値は、このような側面に最も顕著に現れる」と記している。この教育思想はドイツ語圏では「身体教育」という言葉に要約された。身体を鍛えることは、若者の精神と知能にも影響を与えるという考え方だが、当初はこの身体教育を重視したサッカークラブも多く、グラスホッパー・クラブ・チューリッヒも当時の規約で「肉体の鍛錬」を目的の1つに掲げている。ベルンのYBも「肉体の強化」を目指していた。

オルテンで行われたソロトゥルン州の体操大会では、一糸乱れぬ行進が披露された(1921年)
オルテンで行われたソロトゥルン州の体操大会では、一糸乱れぬ行進が披露された(1921年) Schweizerisches Nationalmuseum

だが初期のサッカー選手にとって、このスポーツの魅力は全く別のところにあった。1893年以降FCバーゼルに所属したフリッツ・ショイブリンは、サッカー草創期について回想録にこう残している。「当時、私たちがサッカーを選んだのは、体操クラブよりも自由な方法で身体を鍛えたかったからであり、その満足感をサッカーというスポーツに求めたためだ」。ショイブリンがここまで徹底して体操と一線を画した理由は、当時(そして1960年代頃まで)体操のトレーニングの多くが軍事訓練を強く連想させたためだ。鉄棒の逆上がりや逆立ちに加え、一糸乱れぬ行進など、厳しい訓練が行われていた。

体操選手もサッカー選手と同じ中流階級の出身者が多かった上、「身体教育」の理想を広め学校教育にサッカーを採用したのも体操教師たちだったが、体操を支持する保守層は、この新種のスポーツ・サッカーに対し、大きなうねりとなって猛烈に反発した。外国からの輸入品であるサッカーは、一方的で危険な、スイスらしくないスポーツであり、兵役外部リンクなど市民の義務に備える鍛錬の代わりに、サッカー選手は単に娯楽のために運動していると批判した。だがそれでもサッカーの人気が衰えることはなかった。今やサッカーは、毎週末になると28万人の愛好家たちが仲間同士、あるいは対抗試合で「schutten(シュート)」する、スイスで最も人気のあるスポーツの1つだ。

シモン・エンゲル

歴史家。スイスのスポーツ史に関するオンライン・プラットフォーム「スイス・スポーツ・ヒストリー」の広報担当。

swissinfo.chは定期的に、スイス国立博物館のブログ外部リンクから選んだ、歴史をテーマとする記事を配信しています。ブログはドイツ語を中心にフランス語と英語でも書かれています。

本投稿は、スイスのスポーツ史に関するポータルサイト「スイス・スポーツ・ヒストリー」と共同で作成されました。同ポータルは学校教育、並びにメディアや研究者、一般市民向けの情報を提供しています。詳細はsportshistory.ch外部リンクをご覧ください。

独語からの翻訳:シュミット一恵

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