年金が減らしていく、若者にも手が届く住まい
投資へのプレッシャーが重くのしかかるスイスの企業年金基金。安全かつ高利益と見なされている不動産に狂乱的な放資を続け、家賃の高騰を招いている。このような状況を悲嘆するスイスやドイツ、オーストリアの住民が、請願という手段で抵抗し出した。
スイス中部平原は狭い。少ない土地に建てられる分譲住宅や戸建ては高額で、特に都市部ではそれが顕著だ。若い世代が住宅を購入しようと思ったら、親の資金援助なしではほぼ無理だろう。
賃貸住宅にしても、町の中心部では家賃が高く、多くの人には手が届かない。こうして、低所得層がどんどん郊外の人口集中地域へと押しやられる。これがジェントリフィケーションだ。
スイスの都市や人口集中地域では、住居の需要が供給をはるかに上回る。そのため、不動産や不動産関連の有価証券が安全かつ高利益の投資先と見なされている。多くの投資家が手広く「コンクリートゴールド」に放資するのは、低金利の持続により、通常の投資の利幅が縮小してしまったからだ。そして、このような放資で不動産価格がまたさらに上昇する。
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住宅を手の届かないほど高額にする年金
では、ジェントリフィケーションと年金にはどのような関係があるのだろうか。実は、ここにはさまざまなつながりがある。
スイスの企業年金の保険料は、社員の給与から自動的に天引きされ、その後、国民に加入が義務付けられている民営の企業年金基金に払い込まれる。これらの基金は、そのお金を投資して増やしていく。のちに社員は、それを年金あるいは老後の資産といった形で受け取る。
企業年金基金は堅実な資産運用が義務付けられている。不動産市場を好むのはそのためだ。「強制貯蓄」であることから、資本規模も大きい。
チューリヒ大学のトルステン・ヘンス外部リンク教授(金融市場経済学)も、スイスの企業年金基金にはとりわけ投資へのプレッシャーが重くのしかかっていると言う。「そのため、スイスやオランダのような資本金ベースの企業年金基金を持つ国々では、ドイツなどの賦課方式年金を採用している国々より不動産価格が高くなりがちだ」
不動産から発生する利潤を見込んで、新築物件の建設には十分なお金をかけ、既存の不動産もまた高級住宅に修築していく。そうすれば、利回りが高くなるからだ。こうしてスイスの市場では、贅沢な造りの不動産が増加する一方となった。
つまり、年金用のお金を使って、若者の住宅費がつり上げられているのだ。家賃の値上げは賃貸借法で規制されているため、相対的に見ると、同じアパートに長く住めば住むほど家賃は安くなる。ということは、傾向として、高齢者は若者よりも安価なアパートに住んでいることになる。
逆に言えば企業年金基金が、若者の手が届かない高騰した不動産に投資すれば、(未来の)高齢者の年金をリスクにさらすことになる。
崩壊は近い?
投資へのプレッシャーを追い風に、スイスは建設ブームに沸いた。だが、それが目立ったのは土地に余力がある場所だった。つまり郊外の人口集中地域と地方であり、必ずしも皆が住みたい場所ではなかった。「ここ数年間、スイスでも世界でも、中心街への『逃避行』がみられる」とヘンス氏は言う。「住民は安らぎよりも、学校や病院、余暇といったサービスの充実を重視しているため、このベクトルが変わることはないだろう」
家賃収入による利回りはこの数年間で多少下がったが、物件価値が上昇しているため、結局、相殺されている。状況が変わるには利上げが不可欠だが、今のところ、それはなさそうだ。
ヘンス氏は「金利が再び上向きになったときに影響を受けるのは地方だ」と予測する。UBSのバブルインデックス外部リンクによると、スイスの不動産市場は過熱状態だ。だが「基本的条件が突然変わってショックが発生しない限り、バブルが崩壊することはない」と、ヘンス氏は見ている。
すでに経験済み
スイス人の中には、このような状況を少し奇妙に感じる人がいるかもしれない。それもそのはず、同じような出来事は以前にも起こっているのだ。1985年、スイスに企業年金の加入義務が導入され、多額の資本を持つ新しい投資家が市場に参入した。同時に、銀行が住宅ローンの融資条件を緩和し、不動産への投資が始まった。移民の流入が目立ち、またスイスにはもともと土地が少なかったこともあって、この傾向はいつまでも続くと思われた。
しかし、転機はやってきた。89年、スイス国立銀行(スイス中銀、SNB)が公定歩合を引き上げ、内閣が不動産投機に対する措置を決定。企業年金基金にも投資規則が導入され、住宅ローンの金利が上昇した。
その結果、90年代初めに不動産バブルがはじけた。銀行は衰弱し、スイスは景気後退と不動産危機という意気阻喪の年月を何とか生き延びた。
スイスと他国の違い
ジェントリフィケーションは世界的な現象だ。それでも、スイスと他国で異なる観点はいくつかある。
例えばロンドンやマンハッタンでは高級住宅の多くが空き家のまま。家主(大半が国外企業)が失われた家賃収入を補う以上の価値上昇を狙うためだ。
買い手や借り手が見つからず、空き家になったままの高級マンションはスイスにもある。しかし、スイスは不動産投機の規制法を持つ。例えば、不動産の転売が早いほど、売却益にかかる税金が高くなる。また、コラー法と呼ばれる法律により、外国人は自身の居住を目的としない不動産の大規模購入を禁じられている。
一方で、イタリアのように、犯罪組織が非合法に得た金銭を不動産購入で洗浄し、不動産価格をつり上げている国もある。ヘンス氏によると、かなり厳しいマネーロンダリング(資金洗浄)防止法を持つスイスにも、同様の犯罪はやはりある。ブルガリアの麻薬密売者が、数トンのコカイン密売で得た利益をモントルーやジュネーブなどの不動産に再投資した事件もその一つだ。
直接民主制を盾に抵抗する住民
だが、国民の鬱積は溜まっている。スイスでは不動産バブルがはじける前の88年、土地の投機に反対するイニシアチブの国民投票が行われた。自ら利用する場合、もしくは安価な住居を提供する場合のみ不動産の購入を認め、純粋な投資目的は禁止するという内容だった。だが有権者はこの案を否決した。
2020年2月には、スイス賃借人連合が提起した居住イニシアチブの国民投票が予定されている。このイニシアチブは、国に安価な賃貸住宅の促進を義務付けるよう求める。新築集合住宅の最低1割を組合やその他の非営利事業体の所有とするほか、公共セクターの改修促進計画が安価な賃貸住宅の損失を招いてはならないと定めている。
賃借人連合にとってこれは、ただでさえ不足気味の住居に、投機や利益追求に対するプレッシャーをこれ以上かけないようにする手立てだ。「エネルギー効率を改善するための改修は大切だが、それが高級マンションへの建て替えを助成することになってはならない」と、同連合のウェブサイトには書かれている。
現在はまた、ウィーンの女性が発足させた欧州市民イニシアチブ「みんなのための住宅供給(Housing for all)」の成立に向けて、欧州で署名を集めているところだ。「住は人権であり、商品にあらず」というスローガンを掲げ、欧州における安価で公益的な住居の推進を定めるより良いEU法を要求している。
そして、ベルリンでは大手不動産企業所有のアパートを公有化、つまり没収する住民請願が議論されている。
しかし、この住民請願はヘンス氏には受け入れ難いものだ。「没収はポピュリズムより愚かだ。そんなことを要求するのは、それによって住宅がさらに不足することを認識していない人間だ」
ジェントリフィケーション
今世紀に入ってから、スイスでは郊外の高級住宅地に住む中・上流階級が都市の中心街に戻り始めた。これによって、低所得層が町の街区から追い出されることになった。このような現象をジェントリフィケーションと呼ぶ。原因は、人々の都会暮らしへの関心が高まったためだと言われている。ジェントリフィケーションという概念は1960年代に英国で生まれた。語源は下級貴族を意味する「ジェントリー(gentry)」。
出典:スイス歴史辞典
(独語からの翻訳・小山千早)
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