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スイスの反ユダヤ主義

スイスの歴史認識 「本当に大きく変化したのかどうか、確信はない」 

Paul Grüninger 1971
ザンクト・ガレン州警察のパウル・グリュニンガー。1971年撮影 Keystone / Str

今から50年前、パウル・グリュニンガーが死亡した。第二次世界大戦中、ザンクト・ガレン州警察トップとして何千もの難民がドイツに送り返されそうになるのを阻んだ人物だ。グリュニンガーはその行動により処罰・免職され、1995年になってようやくその功績が見直された。名誉挽回のきっかけになった書籍「Grüningers Fall(仮題:グリュニンガー事件)」の著者で歴史家のシュテファン・ケラー氏に、スイスの過去の克服について話を聞いた。

スイスでは90年代、自国の過去をめぐる議論が渦巻いた。そして、それはスイスの休眠口座に眠る資産をめぐる論争や、第二次世界大戦におけるスイスの立場を検証するための中立的な専門委員会「ベルジエ委員会」の発足につながった。こうした議論を活発化させたのが、難民救援者パウル・グリュニンガーの存在だった。そして今、チューリヒ美術館に展示されているビュールレ・コレクションの絵画をめぐる論戦の中で、再びスイスの過去が問われている。

歴史家でありジャーナリストでもあるシュテファン・ケラー氏に話を聞いた。

ザンクト・ガレン州警察のパウル・グリュニンガーは1938年から39年にかけて、ユダヤ人をはじめとする難民がスイスの国境で入国を拒否され、ドイツに追い返されるのを阻止した。その命を救った数は数百人~数千人とされる。39年初め、グリュニンガーは即時免職となり、長い審理手続きの末、40年末にザンクト・ガレン地方裁判所から罰金刑に処せられた。二度と正式な職に就けず、多くの土地で白い目で見られた末、貧しい生活の中で72年に死亡する。

晩年には、イスラエルのホロコースト記念館ヤド・ヴァシェムなど、グリュニンガーの行動に敬意を表する組織も現れた。しかし、ザンクト・ガレン地方裁判所が40年当時の判決を撤回し、グリュニンガーを無罪としたのは95年になってから。名誉挽回のきっかけとなったのは、シュテファン・ケラー氏の著書「Grüningers Fall(仮題:グリュニンガー事件)」とそれを基にしたマルク・ピート法学教授の検証、ザンクト・ガレンの政治家パウル・レヒシュタイナー氏の尽力、「パウル・グリュニンガーに公正を」の会の活動など。

このような形の復権を果たしたのは、スイスではグリュニンガー事件が初めて。のちに、ナチス政権下で難民を助けたために何らかの刑に処された人々をすべて復権させる法律ができ、その後さらに有罪判決を受けたスペイン内戦の義勇兵を復権させる法律も生まれた。また、迫害された流浪民や強制奉公に出された子供たちへの賠償も名ばかりながら実現した。

swissinfo.ch:過去と向き合うスイスの姿勢において、この30年で変わったことは?

シュテファン・ケラー:本当に大きく変化したのかどうか、確信はない。ビュールレ・コレクションをめぐる議論では、相も変わらず同じことを繰り返している。湧き起こる非難を否定し、軽視し、中傷までした。第二次世界大戦中はどこもかしこも混乱状態だったのに、スイスだけは法と秩序が守られていたと、今でも思われているようだ。

swissinfo.ch:それでも90年代には重大な出来事があった。あなたの書籍を機にパウル・グリュニンガーが95年に復権を果たし、98年にはドイツから42年後れながらも、ヒトラー暗殺を企てたモーリス・バヴォーが復権した。多少の動きはあるのに、なぜそう思うのか?

ケラー:冷戦の終わりとともに前線の緊張もややほぐれ、新しく筋道を追って考え直される事柄がたくさん出てきた。

このことは公文書管理について見てみるとよく分かる。長い間、公文書は何より国家の自己防衛のために保管されていると思われてきた。歴史家やジャーナリストが微妙な案件に関わる文書の閲覧を求めると、公文書館員らはその旨を当局に報告したものだ。

私は97年、38年にゲシュタポに引き渡されたある難民に関する文書の閲覧をジュネーブの国立公文書館に求めたことがある。だが、館員は概要しか見せようとしなかった。私はその生き延びた難民に関する書類の閲覧に必要な資格をすべて所持していたのに、その館員は閲覧を拒否した。理由は、開示すれば、いずれ本人が賠償を要求してくるからだという。そこで私はジュネーブの弁護士に仲介を頼んだ。そうしてようやく文書のコピーが送られてきた。

この館員は古い世代の人間だった。だが館員の中には、当時すでに解明の義務を感じて、大きな力になってくれた若い世代もいた。彼らはどんな文書が保管されているかをよく知っていて、それらを活用してもらいたがっていた。

Stefan Keller
歴史家のシュテファン・ケラー氏 Gian Ehrenzeller/Keystone

swissinfo.ch:なぜ、これほど時間がかかったのか?

ケラー:「スイスは誉れ高いことに第二次世界大戦を自力で生き延び、事実上勝者に属する」という神話がある。だが、それはいつも壊れやすく、また実はそうではなかったことも皆もとより承知していた。だが、それでもこの神話がしつこく守られてきたのは、「精神的国防」という観念が、すべての階級を超えて、戦後の社会的論争までも落ち着かせることができたからだ。スイス軍は39年の開戦から50年が過ぎた89年にもまだ、「ダイヤモンド」と称した祝典を大々的に開催していた。まるで、この戦争に何か祝うことでもあるかのように。

欧州のユダヤ人殺害についても、長い間大きく取り上げられることがなかった。それはスイスだけではなく、世界的に見ても同じだ。米国人歴史家のラウル・ヒルバーグが54年に著し、後にこのテーマの基盤を成すようになった「ヨーロッパ・ユダヤ人の絶滅」は、当初まったく注目されなかった。「ホロコースト」という概念がドイツに浸透したのは、同名のタイトルのテレビドラマが80年代に米国で放映されてからだ。ユダヤ人の根絶を意味するヘブライ語の「ショア」を欧州で最初に使ったのはフランスの映画監督クロード・ランズマンで、84/85年に制作した「ショア」と題された映画が始まりだった。このように文明の崩壊、つまり人類史におけるユダヤ人の組織的根絶という中核的な出来事に世間が目を向けるようになったのは比較的遅かった。

スイスは、何千人もの人々を国境でドイツに追い返し、結局死なせてしまうという自国の非道を繰り返し取り上げてきた。ナチスとビジネスを行うという非道もしかりだ。だが、これらがメインストリームになるまでには長い時間がかかった。

swissinfo.ch:その始まりはいつだったのか?

ケラー:57年に法学者カール・ルートヴィヒが政府の依頼を受けて難民政策について報告書をまとめた。その内容はかなり手厳しく、また今でも参考にできるものだ。これを基にして、アルフレッド・A・ヘスラーが10年後にかの伝説的な書「Das Boot ist voll(仮題:ボートは満員)」を出版した。ヘスラーはユダヤ系組織「ユダヤ難民救助」の史料館の協力を得て、数多くの個人の運命を調べている。73年には、スイス国営テレビがヴェルナー・リングス制作のドキュメンタリー「Die Schweiz im Krieg(仮題:戦争の中のスイス)」を数回に分けて放映した。リングス自身も難民としてスイスへやって来た人であり、この作品が大ヒットしたことは注目に値する。その後、ドキュメンタリー映画や新聞の連載記事が数多く現れた。ジャーナリストや映画監督は、ナチスとスイスの関わりを見直す作業において、とても重要な役割を果たしてきた。

swissinfo.ch:そのような見直し作業に生かせるジャーナリズムの長所とは?

ケラー:論戦風に言えば、大学で行っているような学術的な研究分野では、このテーマは長い間ぐずぐずと放置されたままだった。そのため、我々ジャーナリストは学術研究を待たないことを覚えた。ジャーナリストは型にとらわれることなく素早く仕事にかかり、口述の証言も臆さず利用する。また、個別のエピソードの描き方を心得ているので、読み手も受け止めやすい。数字を連ねても抽象的でしかないことが多い。国境で追い返されたのは2万5千人だったか、それとも3万人だったか?そんな数字を挙げても、いずれにせよ何も想像できない。だが、2人、3人、あるいは4人の人々に起こった出来事の詳細を知れば、また彼らの名前や出自、そして彼らの目で見た出来事を知れば、全体像が浮かび上がってくるというものだ。

swissinfo.ch:あなたは難民救済者のパウル・グリュニンガーを当時1冊の本にしただけでなく、法学者と一緒にグリュニンガーを再度法廷の前に連れ出した。そして仕切り直しとなったこの裁判で、グリュニンガーは無罪になった。なぜグリュニンガーを再び法廷に引き出したのか?死者を復権させることに果たして意味があるのか?

ケラー:あれはグリュニンガーに命を助けられた家族や難民のために行ったことだ。もちろん象徴政治でもあった。良い象徴を示すことは大切だと思う。過去を思い起こし、美辞麗句を並べ立てるだけでは、過去を克服したことにはならない。

Albert Torten, links, aus dessen Familie 18 Personen von Paul Grüninger gerettet wurden und Moses Aschkenasy
写真左は18人の身内をパウル・グリュニンガーに助けられたアルベルト・トルテンさん。右はモーゼス・アシュケナジーさん。1995年11月30日撮影。グリュニンガーの復権をめぐる裁判が行われたザンクト・ガレン地方裁判所にて Regina Kuehne/Keystone

そこからさらに数歩踏み出さなければならない。復権、回復、賠償などが行われて初めて、過去を間違いや犯罪として認め、それを断ち切ろうとしていることが示される。グリュニンガーの復権のために闘い出した当時、ザンクト・ガレン当局は、復権という概念はザンクト・ガレンの法律にはないと主張したものだ。

swissinfo.ch:法律学者のシュテファン・シューラー氏は、グリュニンガー事件は「法と歴史の混同」を示す好例だと述べている。当時初めて、歴史が法より高く評価された、と。

ケラー:我々は歴史を法より高く評価したわけではないが、論議には自然法を用いた。人を死に送る行動など、どんな時であっても法にかなっているわけがない。司法的な主張は、グリュニンガーの子孫の弁護士を務めるパウル・レヒシュタイナー氏と法学教授のマルク・ピート氏が練り上げた。ピート氏は検証の中で、本当に罰されるべきは、当時スイス政府の命令に従ったり、その命令を公布したりした人々だとまで主張した。殺害を意図している者のところへ人々を送り返せという命令は、いかなる時代であれ法に反するものであり、拒否するべきだ。

swissinfo.ch:それに対する反応はどんなものだったのか?

ケラー:このメッセージは現在にも将来にも通じるものなので、もちろん議論を呼んだ。法律や政令が根本的な人権に反することがあってはならない。パウル・グリュニンガーが復権したときは、これでスイスの過去克服に向けた政策に新しい一章が開かれると思った。だが裁判に勝利するかしないかのうちに、スイスにある休眠口座に関する論議が巻き起こり、再び否定の姿勢が前面に出てきた。殺害されたユダヤ人のお金を持ち主に引き渡そうとしなかった銀行は批判の矢面に立った。万引きしたら誰でも追いかけられるのに、持ち主がユダヤ人となると、所有権は無視される。当時、ユダヤ人の求めをはねつける動きを私は反ユダヤ主義だとみなした。チューリヒ美術館のビュールレ・コレクションをめぐって今行われている論戦もそうだ。これらはもともとユダヤ人が所有していた絵画であり、このコレクションはナチスとのビジネスで得たお金で作られた。誠実な市民なら誰でも警鐘を鳴らしたはずだ。しかし、スイスでは皆、己に罪はないと見なして、武器商人に自分の美術館を建てさせてしまうのだ。

(独語からの翻訳・小山千早 )

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